――最近、力が落ちてきている。
組織採取のとき斎鬼が放った言葉が、しのぶの脳内で反響していた。鍛錬不足、疲労、栄養状態――原因はいくらでも思いつく。だが、あの時に見た生々しい傷跡が、理屈を突き破って訴えかけてくる。何かが、確実におかしい。
顕微鏡の前に座ったまま、しのぶは思考の渦に飲み込まれていた。
組織片を使った研究は順調だ。種類を増やすことはできるが、次に進むべきは「生体実験」――すなわち毒を鬼そのものに注入する段階だ。かつての、斎鬼との取引を思い出す。毒を注入する実験を、きっと彼は拒まないだろう。
しかし、ついにそれを口にすることができなかった。その理由を、しのぶは考えないふりをした。
現実から目を背けて、また顕微鏡を覗く。そうすれば、すべてから逃れられる気がした。
世界が狭まる。新しい調合。より効率的に、鬼を殺す毒。そのための検証を淡々と行う。ただ、実験の音だけが繰り返された。
いつものように、調合した毒を滴下し、鬼細胞の反応を観察する。蠢き、崩れ、消えていく。再び血液を滴下する。調合した薬剤を加え、顕微鏡を覗き、その動きを観察する――。
その時だった。シャーレの中に、奇妙な集団が映っていた。蠢き、消えていく鬼の細胞の中にいる、沈黙した細胞群。血液に、欠片も反応していない。
嫌な予感が、しのぶの頭を過ぎった。深追いしたら、決して戻れないという予感。それでも、好奇心を押さえられなかった。
顕微鏡の倍率を上げる。視界を埋め尽くす、細胞の集団。その、形状。
ガタっと大きな音を立てて、しのぶが立ち上がる。顕微鏡を操作していた手を押さえて、抱えるように震える。
「……い、いえ、そうよ。混入した、だけ」
声を詰まらせ、自分に言い聞かせる。器具を洗浄する。新しいシャーレに血液だけを滴下し、観察する。そこに細胞はない。呼吸が浅く、速くなる。祈りを込めて、毒だけを滴下する。しかし、そこに細胞はなかった。
しのぶの頭脳が指し示す結論。それが心を大きく穿ち、こらえきれず顕微鏡から目を離した。
もう一度、新しい組織片で同じ実験を繰り返す。慎重に。焦点を合わせるたびに、心臓の鼓動が耳を叩いた。
――いた。
先ほどと同じ集団。鬼の細胞に囲まれながらも、沈黙を守る一群。倍率を上げた瞬間、その形が視界いっぱいに広がる。
誰よりも知り尽くした、あまりにも見慣れた形。――かつて、姉と一緒に頁を覗き込んだ、命の最小単位。
疑いようもなく、人間の細胞だった。
ガタリ、と音を立てて立ち上がる。顕微鏡のレンズから目を離し、両手で顔を覆う。
「……いや……そんなはず……」
――人にも鬼にも、救いがあるべき。
姉の理想が、脳裏で木霊する。
違う。鬼は殺されるべきだ。必死に保っていた憎悪の壁を、観察という無慈悲な事実が崩していく。脳裏をかすめるのは、縁側の輪に混ざる斎鬼の、あの穏やかな横顔。
鬼は悪だ。悲劇を振りまくだけの化け物のはずだ。その憎い鬼の中にあった、人の痕跡。心が軋み、強烈な痛みを伴って壊れていく。呼吸がままならない。繊細に、必死に目を背け続けた問いから、もう逃げられなかった。
「……もう、やめてよ……」
涙が滲み、顕微鏡の視界がぼやける。頭が眩み、柱に寄りかかる。
――レンズから見える円形が、斎鬼の憐れむような瞳に変わって、心の奥を覗き込んでくる。部屋の入り口の闇が、まるで鬼の口の中のよう見えた。
「姉さん……」
粉々に崩れ去った心の壁の残骸をかき集めたくて、しのぶは実験室を飛び出し、出口の見えない暗闇のような廊下を駆けていった。――あのレンズから。あの鬼の瞳から。そして何より、変わり果てていく自分自身の心から逃げるように。
***
夜の私室で、カナエは窓の外を眺めていた。思い出すのは、先日のしのぶの様子。斎鬼とすれ違う形で訪れた研究室で、しのぶは呆然と震える手を見つめていた。その顔に浮かんでいた、今にも崩れてしまいそうな表情。
あの震えの理由。それはわからない。しかし、しのぶの中で何かが限界を迎えていることは確かだった。
「私が、頼りないからよね」
奥歯を噛む。しのぶは必死で否定してくれた。でも、頼ってはくれなかった。
しのぶが言った「いつか」。それを待つことはいくらでもできる。しかし、目の前の震えに寄り添いたいのに、それができない。
「私は、何も守れてないわよ。斎鬼くん」
脳内を冷え切った思考が支配しそうになった、その時。
遠くから、床が軋む音が聞こえることに気づく。やがて、大きな足音が部屋に近づき、背後の入り口が大きく開け放たれた。
直後、背中に何かがぶつかる。正面に回された腕。しのぶの腕だ。それが、震えていた。
背中に伝わる温もりと、涙。隠すこともせず、静かな部屋に嗚咽が響く。
思考が追いつく前に、そっと手に触れていた。マメがたくさんある、少し冷えた手。こんなに小さな手で、数え切れないほどの重荷を背負ってきた。その道筋が滲んでいるように見えた。
月が隠れては、また現れる。幾度となくそれが繰り返され、ようやく、しのぶの嗚咽が止まった。
「……どうしたの、しのぶ?」
精一杯の柔らかい声。あの日止められなかったこの震えを、今だけでも止めてあげたかった。
しのぶは、何も答えない。ただ、抱きしめる腕に力がこもるだけ。
必死で言葉を探す。本当に守りたいのに、何も言葉が出てこない。ふと、頭に浮かんだ欲求がこぼれた。
「しのぶ。姉さん、しのぶの顔が見たいな」
手をそっと握った。昔よりずっと大きくなった、小さな手。ほんの少し、しのぶの腕が緩む。それでも、回された腕は離れない。
体を回し、振り向く。しのぶが顔を胸に押し付けた。
「……もう、やだ」
初めてしのぶが口を開いた。あらゆるものがない交ぜになった、掠れた声。
しかし、それ以降、また口をつぐんでしまう。しのぶの手が、背中を固く掴む。
その先をゆっくり促すように、頭を撫でた。鬼への憎悪と、斎鬼くんのこと、そして、私のこと。きっと、その境界でずっと苦しんでいる。
「……斎鬼さんに、人の細胞があったの」
頭を撫でる手が止まる。その言葉の意味が、一瞬理解できなかった。鬼の身体に、人の細胞。それが本当なら。
「……姉さん。人にも鬼にも、救いがあるべきなのよね」
ずっと言い続けてきた、自身の理想。
しのぶの体が一度、大きく震える。腕に力が入った。
「……私、頑張ってるのに」
声が潤む。縋り付くように、しのぶの手が服に皺をつくる。
「こんなに、憎いのに……。苦しいのは、もう嫌」
そこで、カナエはようやく理解した。自身の理想が、言葉が、しのぶを苦しめている。矢継ぎ早に言葉が紡がれる。
「姉さんは正しかった。鬼は人だったのよ」
「……違うわ、しのぶ」
迷いのない、凛とした声。しのぶの顔が上がり、涙にぬれた瞳がカナエを捉える。
「私が斬ってきた鬼は、まぎれもなく”鬼”だったわ」
脳裏を灼くのは、夥しい数の死。つんと鼻をつく鉄の匂い。仲間たちの断末魔。間に合わなかった人々の血溜まり。判断の遅れが散らせた命の、あの最後の顔。 心の奥底にこびりついた恐怖と罪悪感を、鬼を殺す力で振り払ってきた。
「私だって、鬼が憎い。でもそれは、鬼だから、人だからっていうわけではないのよ」
力強い眼差しで、しのぶを見つめる。しのぶを苦しめるその境界。それは、斎鬼と出会ってからずっと考えてきたこと。人と鬼の境目で苦しむ”人”がいる。
「その境界はきっと、人であろうとする心よ。しのぶ」
「……心」
しのぶの唇が震える。言葉にならない吐息が零れるだけだったが、その瞳の奥で、ほんの一瞬だけ迷いが静まった。
互いの温度を感じながら、部屋に下りた沈黙に身を任せる。鬼の中にある”人”。それは心だけでなく、体もだった。きっと、その事実が、しのぶの心の輪郭を壊してしまった。
ふとカナエの脳裏に、昼の空白地帯が思い浮かんだ。なぜ、と思う前に、可能性を口に出していた。
「……しのぶ、鬼を人に戻せる可能性はある?」
しのぶの目が宙を彷徨う。やがて焦点が定まり、空中の文字を読むかのように、瞳が揺れる。考えるときの癖だ。
「……ある、と思うわ」
しのぶがぽつりと呟いた。それで確信を得る。私の夢がしのぶを苦しめるのなら、いっそ。しのぶの体を、強く抱きしめる。次の言葉を伝えられるように、息を吸いなおす。
「ありがとう。……しのぶの毒、私の夢のために使わせてくれないかしら」
意味がわからないとばかりに、しのぶはきょとんとしている。しばらくすると、視線が泳ぎだした。その瞳を強く見つめる。
「あなたの毒は、きっと希望になるわ」
その言葉に、視線が定まった。しのぶは僅かに息を吸うと、小さく頷いた。
手を強く握る。
「ごめんなさい。……見てほしいものがあるの」
次の瞬間には、身体が動き出していた。向かうは、図上演習の間。一つの影が佇むその部屋に、固く手をつないだ二つの足音が向かっていった。粉々の残骸から、新しい希望をつくるために。