境界の斎鬼   作:eebbi

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蝶の羽ばたき

 床が軋む音を置きざりにして、蝶屋敷の廊下を二つの足音が駆け抜ける。そこには、固くつながれた手のひらの温度しかなかった。

 

 向かう先も、その意味も分からず、しのぶはただ姉の背を追う。やがて、一室の入り口が見えてきた。昼夜問わず光が灯り続ける、和紙と墨の匂いが支配する部屋。

 姉さんが、その向こうの存在に構わず、大きな音とともに扉を開ける。その常とは大きく違う慌てた様子に、部屋の中の存在が驚いたように振り向いた。

 

「――ごめんなさい、今ちょっといい?」

 

 息を切らしながら、それでも凛とした声で告げる。部屋の中の男――斎鬼は小さく頷き、視線で次を促した。

 姉さんに手を引かれ足を踏み入れると――そこに広がる夥しい数の地図に、意識が飲まれた。

 視界を埋め尽くす、大量の色で埋め尽くされた地図。それが雑然と、しかし明確な意図を持って並んでいる。

 そこにあることがわかっていたかのように、姉さんが一枚の地図を手に取る。それを見た斎鬼の視線が鋭くなった。部屋を満たす冷たい空気が、鋭利に肌を刺す。

 

「……話すのか」

 

 わずかに咎めるような色を含んだ低い声。姉さんが、その声を受け止め、力強く頷く。

 

「ええ。……しのぶ、これは、鬼の出没箇所をマークしたものなの」

 

 大量の色の中、目に映るひとつの違和感。そこを、姉さんが指し示した。東京近郊の、ぽっかりと色が落ちた空間。

 その隣に、節くれ立った手が二枚の地図を並べた。さらに大きな空白。その意味を問うように姉さんの目を見つめた。姉さんの指が、最も大きな白へと移る。その指が、こらえきれない興奮で震えている。

 

「ここは、斎鬼くんが潜伏していたところよ」

 

 刹那、視界が狭まる。視線が宙を泳ぎ、そこに浮かぶ言葉を処理する。同族狩り、空白地帯、鬼を人に戻す可能性。簡単な問いだった。結論に辿り着き、繋いだ手に力が入る。

 

「……ここに、いるってこと?」

 

 その言葉を待っていたかのように、姉さんが大きく頷く。手が、強く握り返された。

 

「あくまでも可能性よ。……でも、ありえない話じゃないわ」

 

 先の姉さんの言葉の真意を、ようやく理解した。つまり、それは。

 

「――私に、鬼を人に戻す毒を創れってことね」

 

 見つめた姉さんの表情がわずかに強張る。しかし、唇を固く閉じながら、小さく頷いた。

 その様子を横目に、無意識に視線を斎鬼に向けていた。そこに映る、心配そうな瞳。湧き上がる感情が、口を開かせる。

 

「……その目、やめてください」

 

 自分でも驚くほどの低い声。思わず、肩が強張った。斎鬼の瞳はただ寂しげで、申し訳なさそうに逸らされた。

 

「……巻き込んで、済まない」

 

 拳が震える。憎しみか、悲しさか、自分でも判然としない。このどうしようもない感情を、とにかく吐き出してしまいたかった。

 ――お前がいなければ。姉さんを取らないで。しかし、ぶつけようとした言葉のすべてが、この表情を見ると泡のように消えてしまう。

 

 その時、体が温もりに包まれた。腕に遮られ、斎鬼の姿が見えなくなる。

 

「……しのぶ。あなたは、あなたの心に従って」

 

 囁くような、細い声が聞こえた。手が、一層固く結ばれる。

 

「私のことは、心配しなくていいから。……しのぶ、大好きよ」

 

 大切なものを手放すような、少し潤んだ声。頭が冷えていく。手をまた強く握り返し、自分の心に問う。私は、何が大事なのか。

 

 ――一体でも多く、鬼を狩る。

 あの日交わした約束。そうして残ったのは、鬼を狩れる姉さんと、狩れない自分。その姉さんも、他ならぬ鬼によって、その力を失った。腸が煮えくり返る。自身を包むこの温かい衣さえ突き破って、行き場のない憎しみを何かにぶつけたくなる。

 

 ――すべての命に幸せになる使命がある。

 浮かんだ言葉に思わず、口元に嘲るような笑みが浮かんだ。脳裏をあの紫色の瓶が過ぎり、鬼が死ぬ光景を想像する。胸に広がる、心地よい温かさ。

 次の瞬間、その鬼の顔が斎鬼に変わった。その目に浮かぶ、寂しそうな色。心に傷ができたように、温かさが消える。

 

 ぐらぐらと揺らぐ天秤。どちらが重いのか。どちらが、本当の自分なのか。長く、長く息を吐く。

 重く、脆い皿と、軽く、強い皿。胸が、少し軽くなった気がした。

 

「……姉さん、もう大丈夫」

 

 この温もりを手放したくないかのように、ゆっくりと離れていった。静かに目を瞑る。体を冬の冷気が包み、凍えるような寒さが訪れた。しかし、震える唇の原因はそれではない。目をゆっくりと開く。浅い息を大きく吸って、精一杯の力で口を開いた。

 

「――その鬼が、人を喰っていなければ協力します」

 

 強く握られていた手が、少し緩む。視界の鬼は、いつも通りの無表情で、「ありがとう」と小さく頷いた。

 部屋の窓から差し込む月明かりが、希望を照らしだすように、地図の一点を指し示していた。

 

***

 

 同じ月が、 雪深い山道を行く一人の男の姿を、静かに照らし出していた。

 その頭上を、夜の暗闇を切り裂いて、一羽の鎹鴉が駆けていく。そこには一通の手紙。向かう先は、花の香りで満たされたあの屋敷。

 

 その姿を、水柱、冨岡義勇が見送った。脳内を支配するのは、数刻前、あの山で出会った二人の姿だった。

 

 その時もまた、間に合わなかった。到着したとき既に一家は壊滅し、鬼に襲われる少年が一人のみ。鼻につく鉄の匂いの不快感も無視して、討伐に動く。洗練された剣技がその頸を断つ、その時。少年が、その鬼をかばった。妹。残された者が家族をかばう、見慣れた光景。そうして、いくつもの命が失われてきた。

 いつも通り、鬼を狩ればいい。そう考え、一歩を踏み出した瞬間。

 鬼――少年の妹が、彼をかばった。脳裏に過ぎる、いつかの鬼の姿。

 冨岡は、思いの外冷静にその光景を受け止めていた。かつてカナエを守った鬼がいたように、どうやら例外は意外といるらしい。

 

 視界に映るまばゆい光に、意識を引き戻す。街が見えてきた。送った手紙は、夜明け頃には届くだろう。彼女らがどう動くかは分からない。だが、鱗滝の元に送った彼らとの出会いが、何かを大きく変えてくれる。胸の奥に疼くそれを、冨岡は無視できなかった。

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