境界の斎鬼   作:eebbi

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第五章:激動
予感


 視界を包む、一切の暗闇。ぬかるんだ足もと。何かで濡れた己の手。向かう先も、進むべき道も分からず、それでも足を前に出す。鼓膜を揺らす断末魔。指先によみがえる、骨を砕き、肉を裂いた忌まわしい感触。口の中に、肉の甘美な味が通り過ぎた。

 振り払おうともがく。必死で前に出してきた足を、誰かが掴んだ。ひとつではない。無数の手。足元の血溜まりに引きずり込むかのように、体を這い上がってくる。

 逃げなくては。足を力付くで前に出す。違う。背負って死ぬんだろう。それが使命だろう。その時、負けてはだめだと、心の奥底で誰かが叫んだ。陽だまりの香りが、わずかに鼻に入る。遠くから声が聞こえた。暗闇に、一筋の光が差し込む。無我夢中でそれに手を伸ばし――。

 

「斎鬼くん!」

 

 目の前で、カナエが叫んでいる。その瞳が、不安そうに揺らいでいる。周りを見渡すと、いつもの私室。血溜まりも、血に塗れた手も、血の匂いもない。あるのは、落ち着く花の香りだけ。

 

「斎鬼くん、大丈夫?……すごくうなされてたけど」

 

「……大丈夫だ」

 

 体を起こす。汗で濡れた寝間着の不快感が、やたらと気になる。微かに震える自分の手を無視して、カナエに視線を向けた。カナエが眉尻を下げる。

 

「……あなたも、話してくれないのね」

 

 カナエ自身が驚いたように、慌てて口をつぐむ。その今にも壊れてしまいそうな瞳に、胸が抉られる。自分の過去が、カナエを傷つけてしまった。罪が、陽だまりを蝕んでいる。必死で言葉を探した。だというのに、こんな時でも何も見つけられない自分に嫌気が差す。結局出てきたのは、ただの事実を告げる言葉だけだった。

 

「……すまない。……昔の夢を、見ただけだ」

 

 たったこれだけの言葉でも、カナエの瞳がわずかに緩んだ。その表情に、胸に溜まっていた淀んだ空気をふっと吐き出す。

 不快な汗の匂いと重い空気が沈殿した部屋を、静寂が包む。氷のように冷え切っていた斎鬼の手を、いつの間にかカナエが両手で包み込んでいた。自分の震えとは違う、確かな温もり。その一点から、じんわりと人の温度が体に広がり、凍えそうな痛みを溶かしていく。呼吸が、少しずつ落ち着いていくのを感じた。自然に、言葉が漏れた。

 

「……ありがとう」

 

 指先から伝わる熱が鼓動を速める。温度を持った血液が全身を巡り、あの悪夢に置いてきた心を現実に引きずり出していく。もう傷つけまい、二度と離すまいと、柔らかく手を握った。それに応えるかのように、手が握り返される。

 

「……何か、用があったのか?」

 

 カナエが慌てたように口を開く。

 

「――あ、そうだったわ!ごめんなさい」

 

 手が離れる。残った温かさを逃さないように、そっと手を閉じた。視線の先では、カナエが手紙を取り出している。受け取った手紙に目を通した、その時。

 思わず、目を見開いていた。ゆっくりとカナエを見る。

 

「いたわよ、斎鬼くん」

 

 次の瞬間、カナエの手を取っていた。そのまま着替えることも忘れ、あの部屋に向かって駆け出す。深く刻まれ続ける罪、あの夜に実現を誓ったカナエの夢、自身の存在が歪ませてしまったしのぶの憎悪。この先で、その歪みのすべてが、ひとつの形に結実する強烈な予感。胸の奥に落とされた熱い塊が、世界を置き去りに足を進ませる。

 冬の冷気も冷える汗も気にならず、ただその先に待つ希望に吸い寄せられていた。

 

***

 

 昨晩と同じ顔ぶれ。巨大な地図と色で埋め尽くされた部屋の真ん中で、三人は手紙を見つめていた。

 

「……手紙でもこうなのね、あの人は」

 

 呆れたように、しのぶが呟く。

 

「あらあら、普段はそんなことないわよ。冨岡くんも焦ってたのよ、きっと」

 

 カナエの柔らかい声。その原因は、手紙の文面。

 人を喰わない鬼がいたこと。その兄妹を、鱗滝さんの元に送ったこと。

 たったそれだけの、あまりにも簡素な内容。かすれ具合に、彼の焦りと興奮が滲む。少し震えた、しかし力強い文字。

 しのぶがため息をつく。

 

「そうやって姉さんが甘やかすから、どこかの鬼みたいに付け上がるのよ」

 

 一瞬、鋭い視線が斎鬼に向く。いつまでたっても慣れないその視線に、肩を縮こまらせた。

 しかし、しのぶの視線はすでに手紙に戻っていた。新しい重荷を背負ったように、顔をしかめている。その目が見つめるのは、人を喰わない、ただその一点。やがて、視線が宙を彷徨い始める。

 

 外から聞こえる笑い声を押し出し、世界から切り離されたように沈黙が降りた。斎鬼がカナエに視線をやる。カナエが気づくと、斎鬼の視線が地図と手紙を行き来する。そこにある鬼の行先が、次の最善手を伝える。言葉はなくとも、カナエもまた同じ未来を見ていた。カナエが小さく頷く。

 

「……この鬼のことがわかれば、研究は進むか?」

 

 しのぶの無機質な目が、斎鬼を捉える。

 

「血液、組織――できればあらゆる臓器のものがほしいです。それと……」

 

 次々と出てくる言葉。その脳内では、実験系が組み立てられ続けている。しのぶの言葉が出尽くしたのを見て、カナエが口を開いた。

 

「いずれにしても、冨岡くんと鱗滝さんに聞いてみないといけないわね。私から連絡してみるわ」

 

「……場所がわかれば、地図から見えることもあるはずだ」

 

 三人が同時に頷く。目先の動きは決まった。それぞれが動き出す、その時――。

 

「……できることなら、会ってみたいな」

 

 ぽつりとこぼれた斎鬼の言葉。部屋を支配していた熱っぽい空気が、しんと静まり返った。地図を睨んでいたしのぶの視線が、ゆっくりと彼に向けられる。カナエは目を見開き、やがて花が咲くように微笑んだ。

 

「いいわね!その子もきっと喜ぶわ」

 

 しのぶが眉を顰める。

 

「姉さん、簡単に言わないで。勝手に出歩いたら問題になるわよ。まして、この鬼が」

 

 斎鬼が、居心地が悪そうに視線を逸らす。しのぶの視線が、徐々に凍てつきながら斎鬼に流れる。

 

「あなたの感傷に付き合う気はありません」

 

「――しのぶ」

 

 珍しく咎めるような響きで、カナエが割って入った。その声に、しのぶがわずかに身を竦める。その瞳が揺らぎながら、カナエへと戻った。

 

「協力するって決めたのよね。これは、しのぶにもメリットがある話のはずよ」

 

 しのぶの肩がわずかに震える。しかし、同時にそれは、しのぶがずっと求めていた響きでもあった。握りしめた手が、服に皺をつくる。

 その様子を見たカナエの視線が緩み、いつもの声色で口を開いた。

 

「少しずつでいいから」

 

 その言葉に、体の硬直が解ける。肺の中の空気を入れ替えるため、大きく息をして、喉を振り絞った。

 

「……仲良しの宇髄さんにでも、頼んだらいいんじゃないですか?」

 

 斎鬼がポカンとした表情を浮かべた。その名前でカナエの目が鋭くなったことに、誰も気づかなかった。

 表情が分かりやすくなった顔と、その奥に滲む姉との深い信頼。しのぶはぐつぐつと湧き上がる感情をこらえる。姉の一番の信頼を、この鬼から奪い返すために。その脳内に過ぎるのはあの紫色の液体。いざとなったら、あれを材料にすれば、宇髄という男は乗ってくるだろうと。

 カナエが、パンっと手を叩く。

 

「よし、決まりね。宇髄さんへの連絡は、斎鬼くんからする?」

 

 斎鬼が小さく頷く。それを合図に、三人が動き出した。一人は筆に、一人は地図に、そしてもう一人は実験系の構築に。一人の鬼が生み出したうねりの一つの終着点が、目前に迫っていた。

 

***

 

 翌日の昼下がり。蝶屋敷を、穏やかな陽気が包んでいる。真冬の寒さをもろともせず遊ぶ子どもたちと、訓練をする隊士たち。それを、アオイは見守っていた。

 いつもならそれを見守る者がいる縁側に、ぽっかりと空間ができている。昨日から、この屋敷の中心に立つ三人が、それぞれの部屋にこもって何かをしていることにアオイは気づいていた。

 不安定な三人。一緒にいないと揺らぐが、一緒にいても別の揺らぎ方をする。互いを想うからこそ傷つけ合って、反発し、それでも少しずつ前に進み続けるあの関係性を、どこかうらやましく思っていた。

 

 思考を断ち切るように、鴉の大きな鳴き声が響いた。一通の手紙を携えている。その特徴から、水柱邸からのものだとわかる。

 宛先を確認すると、カナエ様への手紙のようだ。なほに手紙を渡してくると伝え、カナエ様の私室に足を向けようとしたとき、またも鴉の鳴き声。

 やたらと派手な飾り羽をつけている。音柱邸の鎹鴉だ。今度は、斎鬼へのもの。

 

 刹那、胸に去来する、血腥い記憶。呼吸がわずかに浅くなる。カナエ様が血に塗れ、突然斎鬼が蝶屋敷に来た、あの時と同じような気がした。また何かを失う恐怖が、心を押しつぶす。

 気持ちが急く。足がもつれる。それでも、この足を止める余裕さえ失われていた。カナエ様の元へ向かおうと廊下を走っている時。

 

「アオイ!手紙、来たかしら」

 

 どこか浮ついた雰囲気を纏ったカナエ様が、正面から走ってきた。その表情はいつも以上に明るいのに、胸に溜まる凍えそうな冷たさが、消えてくれない。

 

「……こちらです」

 

 手紙を渡すと、感謝の言葉とともにカナエ様が踵を返す。その背を見た瞬間、気がつくと袖を掴んでいた。自分でも理解できない行動に、急いで手を離す。

 

「すみません!」

 

 振り向いたカナエ様が、いつもの柔らかい笑みでこちらを見つめる。

 

「どうしたの、アオイ。何か心配事?」

 

 その言葉に、心臓が跳ねる。心の内を覗いたのかと思うほど、的確に言い当てられていた。心を落ち着けるため、そっと呼吸を整える。そしてゆっくり、慎重に言葉を選ぶ。

 

「……何も、ないんですよね?また何かあったら……」

 

 遠いどこかから吹いてくる、鉄錆の匂い。脳裏に浮かぶ、蝶屋敷の床に点々と染みる、生暖かい血の跡。傷口が深すぎて、どうやっても血が止まらない絶望感。しのぶ様の、涙の混じりの叫ぶような指示の声。あんな思い、もう二度と味わいたくなかった。

 

「アオイ、大丈夫よ。今度は私一人じゃないから」

 

 カナエ様の優しい指が、いつの間にか溜まっていた涙を拭う。その目に宿る、強烈な決意の光。

 また何か大きな事が起こるという確信が、心を占めた。そして、三人がその道を進むと決めたなら、もう止まることはないということも。手が小さく震える。心の奥底にこびりついた、大切なものがこぼれ落ちていく恐怖が、何もできず取りこぼすだけの無力感が、小さく顔をのぞかせる。袖を強く握りしめる。涙で視界が滲んだ。だが、それを瞬きで振り払い、懸命にカナエ様の目を見つめる。

 

「私にも、手伝わせてください。……もう、何もできないのは嫌です」

 

 今度こそ、無力なまま失ってたまるか。瞳に張った水の膜を無視して、この覚悟が伝わるように、カナエ様の双眸を見つめる。

 カナエ様の目が大きく見開かれる。直後、逡巡するように、そして何かを思い出すかのように、不安定に瞳が揺れる。その瞳に浮かぶのは、アオイ自身が今抱くものと同じ、失う恐怖。

 カナエ様が、目を瞑る。胸の奥にある入り混じった感情を吐き出すように、長く息を吐いた。目を開き、再び視線が合った時、そこにはもう揺れはなかった。やがて、とても眩しいものでも見るかのように、優しく目を細めた。

 

「……わかったわ。でも、二人にも聞いてみてからでいいかしら?」

 

 その言葉に小さく頷く。カナエ様の手が頭を優しく撫でると、手を握って踵を返す。

 歩き出す、その瞬間。カナエ様の口から小さくこぼれた、これまで聞いたことがない穏やかな声が、耳に強く響いた。

 

「……みんな、すごいわね」

 

 その真意はわからない。けれども、自分の決意がカナエ様の役に立っている確信が、胸に温かさを落とす。

 一歩一歩、蝶屋敷で起こっていることの真相に近づく感覚。この先に待つものが何であろうとも、一歩も引くつもりはなかった。

 

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