木々の葉は落ち、淡白な色が蝶屋敷の庭を彩っている。日が沈み、夜の闇が訪れた縁側で、カナエは一人その光景を眺めていた。
半刻前、斎鬼くんがここを発った。冨岡くんから鱗滝さんの承諾を得たとの連絡をもって、正式に事が動き出したのだ。
「悲鳴嶼さんの説得は大変だったわね……」
もう思い出したくもない。結局、水の呼吸の稽古という建前だけでは、完璧な安全は確保できなかった。だが、決まったあとの宇髄さんの動きは早く、あっという間に出発の準備が整った。
「……もう少し、ゆっくりでも良かったのに」
善は急げとは言うが、今日ばかりは反対したかった。冬の冷たい風が主を失った隣の空間を通り抜け、羽織の合わせ目から滑り込んでくる。いつも肩に掛けられていた隊服の温かさも、重さも、今はない。いつもは感じない冷たさで、体が少し凍えている。それでも、ここを離れる気持ちにならなかった。
――風柱の連中には気をつけろ。
出発の際、宇髄さんが言っていた事が脳裏を過ぎる。あの時のように、きっと彼の周りを嗅ぎ回っているのだろう。あの死闘を経てもなお、斎鬼くんへの憎しみは拭えなかったのかもしれない。
彼の旅路が、困難なものにならないように。この屋敷からできることは、やりきらねばならない。
「不死川くん、話してなんとかなるかしら……」
きっと、上手くはいかないだろう。だが、悪手にならない程度には干渉すべきだとも思う。
出発の間際、数名の隊士が斎鬼くんの見送りに現れた。その光景に、氷が溶けたように綻んだ表情を思い出す。彼が、血に塗れた贖罪と呼ぶそれ。その奥にあった破綻した渇望が、希望によって塗りつぶされているのだと確信した。あの笑顔を、優しさを、努力を、二度と傷つけさせない。拳を強く握り、私室の文机へと向かった。
***
蝶屋敷に空白ができる。その事実に、アオイは気合を入れ直していた。数日間、カナエ様が屋敷を離れる。蝶屋敷から鎹鴉が飛び立ったあの夜の翌日、しのぶ様から聞いたことだ。どうも、風柱様のところに行くらしい。
斎鬼さんが屋敷を発ち、カナエ様が動き出した。音柱様はあの空白地帯なるものを調べ、しのぶ様は音柱様と研究を進める算段を立てたようだった。この屋敷の支柱が抜けた今、支えられるのは私だけだと、体に力を込める。
あの日、心配そうな目とともに承諾された協力。その瞳が、巻き込みたくないと雄弁に語っていた。しのぶ様から託された紙束を思い出す。私室にある、蝶屋敷に入院中の隊士情報。命を背負っている。これは、必ず成し遂げなければならない。
「――訓練に戻ってください!」
庭から響く甲高い大きな声で、意識が今に引き戻された。いつも通り騒がしい蝶屋敷に、頭を抱えたくなる。ため息をひとつ。
「逃げるのはダメですよ」
隣を駆け抜けようとした、訓練から逃げる隊士を捕まえる。視界に、重そうに鍋を運ぶすみが映った。みんなが、懸命にこの屋敷を支えようとしている。
隊士を投げ捨て、すみの元へと向かう。その足取りはいつもより軽やかだ。しかし、確かな覚悟がこもった力強い一歩だった。
***
何度かの夜を越え辿り着いた、蝶屋敷から離れたとある山奥。木々の隙間から月明かりが差し込み、そこにある人影をわずかに照らし出している。二人の影と、その足元で拘束される一体の鬼。
あの夜、宇髄さんとともに立てた生体実験の計画。姉さんからの信頼の目、あの日協力を誓った覚悟、自身の能力。これらを確かなものにして、姉さんの心の中からあの鬼を追い出さなくてはならない。縁側に並ぶ二人を見るたびに浮き彫りになる孤独を、何としても取り除きたかった。
足元で何かを喚き散らすものに向けて、努めて冷静に問いかける。
「あなたは、何人喰らいましたか?」
優しく微笑む。それを見た鬼が、怯えたように黙った。何故だろうか。少しの間のあと、視線を合わせず、絞り出すように声を上げた。
「……喰ってない。俺は鬼になったばかりで」
「――嘘は良くないですね」
聞く価値のない戯言に、言葉を被せる。そして、世間話をするような心持ちで語りかけた。
「あなたには罰が必要ですね。大丈夫です。すぐに終わりますから」
手に持つ注射器。その中に揺らめく、紫色の液体。それを、叩きつけるように鬼の首に突き刺した。途端に体中に筋を浮かべながら、もがき苦しむ。思わず口元に笑みが浮かび、心に温かさが広がる。しばらくして、鬼は絶命し、灰となって消えた。灰を回収し、この熱を逃さないように、素早く結果を記録した。
「……四十三秒。時間がかかり過ぎね」
次の実験が必要だと、足を踏み出す。
ふと隣を見ると、宇髄さんが得体の知れないものを見るような目で、こちらを凝視しているのが分かった。そして、一言呟く。
「……どっちが鬼だか分かんねえな」
「何か言いましたか?」
失礼な人だ。微笑みながら問い返すと、彼は気まずそうに視線を逸らし、口を噤んだ。ただ黙って、少し後ろを歩き始める。
「……こりゃ、あいつも大変だ」
吐息のような声を無視して、歩みを進める。
二つの影が山奥ヘと進む。夜は、まだ開けない。
***
どこかの山と同じ月が、山道を進む斎鬼を照らしていた。
蝶屋敷を離れてから五度目の月を見上げ、斎鬼はその明かりだけを頼りに雪道を進む。この先に待つもの。ついに見つけた同類。人を喰った自分が同類などおこがましいと、口が歪む。だがそれでも、その存在が胸の奥底に小さな火を灯し続けていた。足は止まらない。しかし、不意に花の匂いがよみがえり、どこか寂しさも感じる。
出発の時、入院中の隊士四人が駆けつけてくれた。翳りのない表情で口にしたのは、治療への感謝と、稽古のお願い。その様子を、カナエが柔らかい笑みで見守っていた。
カナエの慈愛と根回し、アオイの歩み寄りと覚悟、そして、しのぶの葛藤と決断。その連続によって生まれた繋がりが与えてくれた、心に広がる温もり。胸元で握りしめた手が、隊服に皺をつくった。力強く次の一歩を踏み出そうとした、その時。
――鋭い殺気に、大きく飛び退いた。
周囲を探る。音の反響、殺気、接近ルートの予想。刹那、そのすべてが一点に収束する。咄嗟に刀を抜き放った。静寂が包む冬山に、甲高い音が鳴り響く。的確に頸を狙った一撃。その重さに、腕がわずかに痺れている。
仕掛け人の顔を見る。五間ほど先に佇む、傷痕だらけの男。考えるまでもない。あの夜、死闘を繰り広げた男――不死川だ。鋭い殺気とともに、こちらを睨んでいる。
驚きはない。予想はしていたことだ。宇髄の根回しの結果、風柱の管理区域は避けられなかった。
「……随分と、手荒い歓迎だな」
その言葉に、不死川の目つきが鋭くなる。血鬼術が純粋な殺気を伝える。だがその中にわずかに、別の感情が混ざっている。あの夜のものとは、明らかに違っていた。
「……テメェ、こそこそ動き回ってやがるみたいだなァ」
ここは風柱の管理区域の境界線付近だ。ルートも把握され、足を踏み入れるのを虎視眈々と待っていたのだろう。警戒を解かず、沈黙に身を任せる。
「胡蝶さんは随分とテメェを買っているみたいだが、思い上がるんじゃねぇぞ」
その言葉に、思わず苦笑が漏れる。神経を逆撫でされたように、不死川の怒気が強まった。肌を刺すような圧力を感じながら、静かに口を開く。
「……俺が、ではない。それはカナエの優しさだ」
不死川の口が、不吉な笑みを浮かべた。この言葉が、逆鱗に触れたようだった。一挙手一投足を見逃さぬように、神経をとがらせる。冬山の寒さ、足を包む雪の冷たさも忘れ、世界が狭まる。
その時、荒れ狂う感情とは正反対の静かな、地の底から響くような声で、不死川が口を開いた。
「化け物が、人間の振りしてんじゃねぇよ」
その言葉に、呼吸がわずかに浅くなる。同時に心が軋む音がした。古傷を抉られるような、傷口に熱した鉄を当てられるような激痛。今だ心の奥底に残る破滅を望む昏い願いが、顔を出し始める。
――戦うだけの道具にならないで。
いつかのカナエの声を思い出した。そっと、懐に入れてある風呂敷に触れる。脳裏によみがえる、出発の日にカナエが用意してくれた、おにぎりの温かさ。大丈夫だ。温度がある。
「……そんなことは、わかっている」
これほどの殺気を向けられているというのに、心は穏やかな海のように凪いでいた。
「だが、カナエとの約束がある。生憎、ここで死ぬわけにはいかない」
月が雲に隠れ、夜の闇が世界を包む。柄を強く握り直した。足に力を込める。今の状態では、あの時のように傷を覚悟して戦うわけにはいかない。厳しい戦いとなることを覚悟した、その時。
「……その目が気に食わねぇんだよ、人擬きが」
ふっと、不死川の殺気が小さくなる。月明かりが雲を抜け出し、殺気で満ちた不死川の顔を照らし出す。その瞳が、戸惑うようにわずかに揺らいでいた。何かを思い出したように静止し、不愉快そうに顔を歪め、背を向けた。
「……テメェら、いちいち癪に障る」
音もなく去った。罠を警戒するも、気配は一切ない。
何が目的だったのか。考えても結論は出ないだろう。とにかく、今夜中にこの区域を越えなくてはならない。意識は外に向けながら、雪の中を駆け出した。