冬の冷気が、何処か張り詰めた空気を漂わせる。鼓動のように乱れなく繰り返される土を踏みしめる音だけが、冬山に響いていた。
山を霧が包んでいる。夜闇の中では、視界は役に立たなかった。しかし、斎鬼の脳内に広がる地図では、ここが狭霧山のはずだった。
「……合流地点を決めてなかったか」
夜明けが近い。このまま彷徨っていると、日に焼かれて終わるだけだ。どうしたものかと考えていた、その時だった。どこからか人の気配がした。
その輪郭はぼやけており、正確な位置は分からない。足音も、風を切る音も聞こえない。だが、肌を包む空気の流れにわずかな乱れがある。視覚を捨て、ひたすらにその気配を追う。背後から、誰かが向かってきている。
抜刀の準備をし、後ろを振り向こうとしたとき。低く重厚な声が、静寂を破った。
「お前が斎鬼か」
ゆっくりと振り向く。天狗の面に、流れる水と雲の様な柄の羽織。月明かりに照らされるその姿が、冨岡から聞いた特徴と合致した。鱗滝左近次で間違いない。
斎鬼は小さく頷いた。面の下の瞳が、斎鬼の双眸を鋭く射貫く。自身の底を覗き込まれるような感覚に、居心地の悪さを感じた。
「……夜明けまでに、この山の麓まで降りてこい。間に合わなければ、あの二人に会うことは許さん」
そう言い残し、霧の中へと一瞬で消える。しかし、気配は消えていない。水気を帯びた山の空気が、何者かが山を点々と移動している事を伝える。
「……やみくもに進むのは、得策ではないな」
何をしているのか検証が必要だと、手頃な石を強く投げた。コツンと軽い音がすると同時に、何か重いものが叩きつけられる重い音が響く。
「罠か」
気配を辿って、下山のルートはわかった。残り時間は少ない。最速で駆け抜けようと足を踏み出した、その瞬間。
――血鬼術が、遠方の悲鳴にも似た『恐怖』を捉えた。
方角は逆。そこに向かい、再び下山することは難しい。
「……考えるまでもない」
躊躇うことなく、その方向へ足を踏み出す。視界が前方のみに狭まる。血鬼術は、まだ硝子をこすり合わせるような不快な音を立て続けている。まだ間に合う。視界が開かれ、その音源が見えた。
そこにいたのは、二人の人間。一人の男が、山菜狩りに来ていたであろう男に組みついている。周囲に散乱する山菜。鎌や金品、果ては服まで奪われそうになっていた。即座に、襲いかかる男を組み伏せる。
「……さっさと逃げろ!」
怯えた様子で逃げていく背を見送った。視線を、組み伏せた男に戻す。みすぼらしい服を着ている。到底、冬の寒さに耐えられるものではない。髪は乱れ、髭も爪も不揃いに伸ばしたままになっている。その昏い瞳が、忘れかけていた誰かの瞳と重なった。
拘束を解き、隊服を脱ぐ。懐から有り金を出し、足元で震える男に投げた。呆然とする男を無視して、踵を返す。
「……つくづく、くだらない」
自分も、世界も。この程度で、何も変わりはしないのに。自嘲の笑みが漏れる。しかし、今はそれを考えている余裕はないと、山の麓に向け走り出した。
夜の空気を切り裂き、木々の隙間をひたすらに駆け抜ける。出発地点を通過し、いよいよ罠が張り巡らされた区域に突入した。空がわずかに白み始めている。
罠は大きな問題にはならない。人が通過できるルート上に、短刀が飛ぶ。それを迂回すると、そこには落とし穴。地形を見れば、獲物を狩る手順など計算できる。最適解を描き、足の回転を速める。朝日が昇り始めた。麓まではあと僅か。そこへと足を伸ばし、駆け抜けようと力を込めた瞬間――。
タイムリミットが来ていた。刹那、全身を火で焼かれるような、絶対零度の鉄を押し当てられるような激痛が広がる。一瞬、意識が途切れかける。本能が、辛うじて洞窟の入り口を捉えた。滑り込む。痛みが、止んだ。
荒れた鼓動と呼吸を整えようと、胸に手を当て、大きく息を吸う。その手が震えていた。洞窟の闇。日を恐れる自分。よみがえる血塗られた記憶と、どこからか漂う鉄錆の匂い。いつかの日々が、心を急速に冷やしていった。心が唯一の温もりを求め、懐に手が伸びたところで、はたと気づく。隊服を渡してしまった、と。
「……何をやっているんだ、俺は」
これで、あの鬼には会えない。頭に浮かぶ、カナエが怒る姿。宇髄は失望するだろうか。しのぶは、遠慮なく毒を打ち込んできそうだ。アオイが、蝶屋敷を支えてくれているのに。
そのすべてが無に帰す。体の力が抜けていった。
ふと、洞窟の入り口に影が差した。その影が、質量を持った声で告げる。
「合格だ」
天狗の面。鱗滝がそこに立っていた。しかし、発した言葉の意味を、一瞬とらえ損ねた。
「……辿り着けなかっただろう」
返事はない。闇の中を、纏わりつくような沈黙が包む。その質量に身を委ねていると、逃げることを許さないような鋭い声が、沈黙を破った。
「なぜ、あの男を助けた」
その言葉に納得する。やはり、最初の邂逅は試されていた。徹頭徹尾、見られていたのだろう。いずれにせよ、問いへの答えは決まっていた。
「そんなこと、考えるまでもない」
その言葉に、肌を刺すような圧力が消えた。足音が近付き、目の前に簡易的な地図が差し出される。
「日が沈んだら、ここに来い」
次に斎鬼の鼓膜を揺らした声には、幾分か柔らかさが混ざっている。小さく頷くと、鱗滝は光の中へと去っていった。
***
炭治郎は、山に漂う奇妙な匂いに気づいていた。鬼の匂い。あの日嗅いだそれと、同じものだった。しかしその中に、花の香りのような優しさが混ざっている。不思議と、恐怖や不安はなかった。
おかしなことはもう一つ。いつも修行を見てくれている鱗滝さんがいないことだった。用事があると出かけていき、結局一度も姿を見せなかった。
その日も、終わりがどこかも分からず山を駆け回り、限界まで素振りを続け、ぬれた綿のように重くぐったりした躰を引きずって、小屋に戻った。
夜、今だ眠り続ける禰 豆子の横で、今日のことを日記に記す。その度、自分の現在地を、そして進む先を確かめるのだ。家族の亡骸。血の海となった我が家。そして、そこでもがいていた、変わり果てた妹の姿。脳裏に焼き付くそれを、心の炎に変える。禰 豆子を人に戻す。いい暮らしをさせてやる。先に逝ってしまった、みんなの分まで。そのために、力が必要なんだと。
ふっと息を吐く。強張る指先から、力を抜いた。古びた木とカビの匂いが鼻に入る。心を落ち着かせ、あの日から眠り続ける禰 豆子に視線を向けた。
穏やかな寝顔。今にも目覚めて、あの凛とした声を聞かせてくれそうなのに、どれだけ待ってもその目は開かなかった。堪らずそっと手を握る。昔と変わらない温もり。手のひらからじんわりと伝わるそれが、胸の奥の炎を強める。もう二度と離すまいと、握る手に力を込めた。
その時、外から話し声が聞こえた。誰か探ろうと、匂いに集中する。一つは、慣れ親しんだ鱗滝さんの匂い。そしてもう一つに意識を移した瞬間――。
体が強張る。鬼の匂いだった。一日中漂っていた、あの匂い。足音を立てないように、慎重に入り口へと進む。そっと扉を開け、外の様子を窺った。
5間ほど離れた場所で、二人の男が何かを話している。仄かな月の光で、一人は鱗滝さんだとわかった。その横に立つ、長身の男。それが、鬼の匂いのもとだった。
「でも、この匂いは……」
あの花の匂いが強くなっている。それに、鱗滝さんがまったく警戒していない。
その時、男の目がこちらを捉えた。咄嗟に扉を閉め、木刀を持ち禰 豆子に駆け寄る。入り口を警戒し、小屋の外に意識を向ける。
鬼と花の匂いに混ざり、仄かに野ばらのような匂いが漂う。どこか寂しそうな匂い。それが、段々と近づく。扉がガタっと音を鳴らした。鼓動がうるさい。額を、汗が伝う。汗で滑る木刀を握り直し、足に力を込めた。
そろりと、やたら丁寧に扉が開いた。顔を出す、白髪の男。
「……あなたは、誰ですか?」
最大限の警戒。それを見た男が、痛みをこらえるように手を握り込んでいる。また悲しげな匂いを放ちながら、口を開いた。
「……驚かせてすまない」
男が、チラリと鱗滝さんを見た。その視線を受けて、鱗滝さんが口を開く。
「彼が正治だ。伝えてあっただろう」
その名で思い出す。近々、人が来るという話。そういえば、正治という名前だった。
そうだとしたら、なんで鬼の匂いが。違和感を覚えつつ、警戒を解き、木刀を壁に立てかけた。
「俺は竈門炭治郎です。それで、こっちで寝てるのが妹の禰豆子です」
正治さんの視線が一瞬、禰豆子に向く。その瞳がわずかに緩み、複雑に揺らいだ。その不思議な匂いに、ふとその疑問が漏れてしまった。
「なんで正治さんからは、鬼の匂いがするんですか?」
空気が止まる。目の前の正治さんが、大きく目を見開いていた。
***
上下左右など存在せず、三次元的に歪んだ空間。その中で、一人の男が静かに怒気を放っていた。
「……私の邪魔をする愚か者が、また増えたようだ」
その男――鬼舞辻無惨の脳には、次々と消えていく鬼の情報が届いていた。鬼殺隊による鬼狩りが、明らかに効率的になっている。
永遠を得るための道程。それを邪魔する害獣。あの気狂いどもが、何か新しい手段を手に入れていることは明白だった。手に持った試験管が砕け散る。それでも、煮えくり返る腹の底をおさめるには至らない。鬼たちに、一つの指令を出す。
「元凶を見つけ出し、必ず排除しろ」
火種は、小さく、そして確実に育っていた。