境界の斎鬼   作:eebbi

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優しい花の匂い

 純粋な瞳で投げかけられた問い。それは、斎鬼の思考を止めるには十分だった。鬼の匂い。こびりついて離れない、血の匂いだとでも言うのだろうか。そうなのだとすれば、勘が良いどころの話ではない。纏まらない思考の中、何とか言葉を絞り出した。

 

「……どんな匂いだ?」

 

 苦々しく奥歯を噛んだ。これでは自ら白状しているようなものだ。こめかみを強く押さえ、込み上げる焦燥感を無理やり腹の底に押し込める。最近こんなことばかりだと、先日のカナエの怒った表情が脳裏を過ぎる。

 少し鋭くなった視線で、竈門が口を開こうとした、その時。

 

「正治、お前の小屋はこっちだ」

 

 鱗滝の声がすべてを塗りつぶす。助け舟を出してくれたのだろう。思わず、そっと息を吐いた。視界に映る竈門が、何かを言いたげにこちらを見つめている。それを振り切り、鱗滝の背を追うため踵を返した。

 背に強い視線を感じながら、夜の山に足を踏み入れた。

 

***

 

 翌日の昼下がり。斎鬼は小屋で一人、途方に暮れていた。ここにきた目的は、鬼になってしまった竈門の妹。しかし、彼が稽古中な上、疑われている現状では何も進展しないだろう。

 

「……どうしたものか」

 

 壁に背を預け、天井の模様を眺める。ふと、しのぶから預かった採血用の器具を思い出した。大きなその箱を開ける。下には、組織採取用の器具も入っていた。指から伝わる器具の冷たさが、妹を守らんとする鬼気迫る竈門の表情を思い出させる。

 

「無理だろうな……」

 

 視線を小屋の壁に移す。カビ臭い匂い。所々ささくれのある床。埃が舞っている。箱の中にあるメスを見て、ため息を吐き、採取器具をしまった。

 

 見たことがない器具の数々。取り扱い方法にも、知らない名前が羅列されている。文字の上を目が滑るが、それでも頁をめくった時、一枚の紙が落ちた。綺麗に折りたたまれたそれに、取り扱い方法の補足情報が書かれている。ズブの素人でも理解できるであろう、丁寧な解説だ。冷たい紙のざらついた感覚。そっと文字をなぞる。筆跡が、いつかの薬箱に挟まっていた手順書と同じだった。

 

 無機質な器具の収納箱。それが、今も奮闘する仲間の顔を思い出させる。自嘲気味に笑みを浮かべ、文机に向き合う。何としても、この役目を成し遂げなければならない。心の熱をすべて、目の前の紙に向けた。

 

***

 

 気づけば日が暮れていた。鎹鴉が手紙を携え、蝶屋敷に向けて空に消えるのを見送る。報告は当然だ。

 

 ――なんで教えてくれなかったの!

 ため息をひとつ。あの日、カナエに散々叱られた。思い出した声色にわずかに体が竦む。だが、同時に脳裏を過ぎるのは、宇髄邸での手紙。あの温もりが、自分を救ってくれた。

 小一時間、どうすればあの温もりを送れるか頭を悩ませた。結局、狭霧山に到着したこと、不死川の襲撃などの報告に留まってしまった。

 

 自嘲を込めて、日輪刀を手に取る。鞘から抜き、その刀身に反射する光を見つめた。あの夜、カナエから預かった刀。気づけば、長い付き合いになった。刃こぼれはない。汚れひとつ残さないように、時間をかけ、柔らかく刀身を拭く。小屋の中を穏やかな静寂が包む。肌を刺す冷たさも使命も忘れ、刀の冷たさが消えるのを待っていた。

 

 刀身を顔の前に掲げる。先ほどより輝いたそれに反射した月光。いつの間にか、日が沈んでいたようだ。鞘に収め、ゆっくりと立ち上がる。いつものように、鍛錬に向かった。

 

 小屋の外は、湿った空気と薄い霧に包まれていた。木々が不気味にざわめき、霧が月明かりを拡散させ、ぼやけた明るさに包まれている。

 淡々と土を踏みしめる音だけが、山に響いている。数分歩いた場所に、ちょうどよい開けた場所を見つけた。

 日輪刀を抜き、構える。素振りを始めようとした、その時だった。

 

「ここにいたんですね!」

 

 場違いにすら感じられる快活な声が、周囲に響き渡る。そこにいたのは竈門だった。その目には、昨夜の疑念はない。目の前で止まった竈門が、ハキハキとした口調で告げる。

 

「こんばんは。昨日の質問、まだ答えてもらっていません」

 

 やはりか、と思った。心の奥がすっと冷えていく感覚。自分を見て怯える人々。不死川の瞳。しのぶの憎悪。アオイの震える手。去来する記憶が、鬼とは罪だと見せつけてくる。だが、だからこそ、あの夜のカナエの瞳が大きな救いだったのだ。あの日灯った、決して消えない心の炎。竈門の、力強い光を宿した双眸を見つめ返す。強く柔らかいその光が、カナエと重なった気がした。

 

「……その匂いは、俺が鬼だからだ」

 

 沈黙が落ちる。竈門は表情を変えず、ただこちらを見つめている。その奥の感情はまったく読めない。風が強く吹き、木々がうるさくざわめく。朧気な月明かりが支配する空間に、ぽつりと、柔らかい声が響いた。

 

「……そうですか。じゃあ、禰豆子と一緒ですね」

 

「――違う」

 

 思考より先に、その言葉が出ていた。役目のためには言わなくて良い事実だと言うのに、口が動いてしまう。それだけは、絶対に認めてはいけなかった。

 

「俺は人を喰ってきた。何十も、何百も。そんな化け物が、お前の妹と同じはずがないだろう」

 

 血を吐くような、静かな叫び声。言葉は止まらなかった。手のひらから伝わる、爪が皮膚を突き破る鋭い痛み。足元に血が滴り落ちる。鉄の匂い。己の罪の象徴。

 

「竈門。お前は、絶対に妹を守れ。人を、喰わせてはいけない」

 

 もはや、誰のための言葉なのかさえ分からなかった。竈門は今だ反応しない。しかし、視界に映る瞳は、逡巡するようにわずかに宙を彷徨っている。その手に持つ刀で、斬ってしまえばいいだろう。人を殺した鬼とは、本来そういう存在だ。

 

「なんでそんなに、悲しそうなんですか?」

 

 鋭く、竈門がこの沈黙を切り裂いた。息が詰まる。心の内を覗かれる感覚。目の前の少年は、本能的に相手の本質を理解できてしまうのかもしれない。悲しみ。それを自覚しながら、自分にはおこがましいと、思わず目を伏せてしまう。竈門が言葉を続けた。

 

「それに、すごく優しい花の匂いがします」

 

 思わず顔を上げた。優しい花の匂い。その言葉が、破綻を望む意識をわずかに溶かしていく。あの救いの匂いが、自分から。握りしめていた手が、少し緩む。あの日、あの暗闇で誓った使命。それを、この少年には伝えるべきなのかもしれない。それが目的を達成するための、せめてもの誠意だと思った。肺の空気を入れ替え、口を開く。

 

「俺は罪を償わなくてはいけない。無惨を殺し、そして死ぬ。そのために、お前の妹の情報が必要だ」

 

 竈門が、寂しそうに眉尻を下げた。一瞬、竈門の視線が小屋へと流れる。

 

「本当にそうなんですか?悲しむ人が、いるんじゃないですか?」

 

 心が鋭く抉られる。蓋をした心の奥の温かさが、よみがえってしまう。カナエの花が咲いたような笑み。隊士たちの感謝の言葉。笑い声が響く蝶屋敷の、温かな陽だまり。どうしても求めてしまう、あの居場所。しかし、己の最期だけは揺るがせてはいけないものだった。膨れ上がる混沌とした熱で、怒気が漏れ出す。

 

「そんなもの、俺が求めていいはずないだろ……!」

 

 自分でも驚くほどに低い声。はっとして、息を吐いた。夜の冷気が頭を冷やす。話はここまでと背を向け、声をかけた。

 

「……早く寝たほうがいい」

 

 返事を待たず、一歩を踏み出す。

 

「――正治さんは、鬼じゃないと思います」

 

 背後から聞こえる声から、耳を塞いだ。

 

***

 

 鱗滝は私室で一人、二通の書状を読んでいた。一通は、義勇から来た斎鬼の受け入れの依頼。元花柱、胡蝶カナエを上弦から守ったという鬼。

 そしてもう一通。義勇のものと同時に来た、岩柱、悲鳴嶼行冥からの書状。内容は、斎鬼を見極め、鬼殺隊を揺るがすのならば斬ってほしいという嘆願。

 山の中で繰り広げられていた、半刻前のやりとりを思い出す。

 

「……贖罪か」

 

 鬼が、殺した人を背負い、その罪の意識で苦しみ続ける。酷く人間的だと感じていた。

 胡蝶カナエが大事に匿う、鬼殺隊所属の鬼。大方、あの目に宿る鈍い輝きに絆されたのだろう。それが鬼殺隊に所属しているのならば、お館様が認めたということだ。

 目を閉じ、瞼の裏で記憶を呼び起こす。たった二日しか経っていない。しかし接触したあの時から、人を襲う素振りも、鬼の瞳に宿る狂気も、欠片も存在しなかった。そこには、人間的な慈しみや悲しみしかない。

 

「あの鬼はいつか、鬼殺隊を揺るがす」

 

 他ならぬ、その存在自体によって。あの鬼は、憎しみを原動力にする鬼殺隊にとっては猛毒だ。そして、その判断の遅れがいつか人を殺す。

 炭治郎との出会いが、吉と出るか凶と出るか。視線をゆっくりと日輪刀に向ける。そっと触れ、その冷たさを感じる。しかし、それを抜き放つ事が、どうしてもできなかった。

 

***

 

 暗闇が包む蝶屋敷の縁側。石油ランプの灯りが、夜の闇との境界線を引く。その光の中に、カナエとしのぶの姿があった。カナエの手にはいくつかの書状。視線が小刻みに動き、次々と紙をめくる。その隣でしのぶは、カナエに寄りかかるように座り、レポートを読んでいた。二人の前には、湯気がたつ茶碗が二つ。アオイが用意してくれたものだった。お茶の温度と、肩から伝わる互いの体温が、夜の冷気を押し除ける。

 カナエの手がふと止まった。その手には一通の手紙。そしてクスリと笑い、視線が宙を舞い始めた。しのぶが眉を顰める。その思考を邪魔するように、口を開いた。

 

「姉さん、これ見て」

 

 カナエの視線が、しのぶが指さす一節に向かう。そこに記されているのは、鬼の特性と、殺傷に必要な毒の作用時間、そして、遺された灰の成分。その表の中に、いくつか異常な数値がある。

 

「血鬼術が強力な鬼は、作用時間が短い、ってことかしら」

 

 しのぶが小さく頷く。そして、一言付け足す。

 

「でも、ここを越えると効きにくくなるわ」

 

 一定以上に強い鬼は、やはり毒に抵抗できるということ。そしてしのぶは、別の数値を指さした。それは、実験開始から5日目のデータ。今度は、カナエが小首をかしげる。

 

「作用時間が長くなったわね。……どういうこと?」

 

 ペラっと紙をめくる音が響く。開かれた頁には、二つのグラフがあった。ともに縦軸は作用時間だが、一つは鬼が喰らった人数の推定、もう一つは実験開始からの日数との関係を表している。

 カナエがはっと息を呑む音が聞こえた。そして、恐る恐る口を開く。

 

「……適応されてる?」

 

 しのぶが大きく頷いた。有意な差はないが、実験回数が増えるごとに、着実に作用時間が長くなっていっている。

 

「毒の情報は、無惨に伝わったと考えたほうが良いわ」

 

 しのぶの表情が、悔しげに歪んだ。レポートを持つ指が、紙に皺をつくる。

 

「なんで、この程度のことに気づかないのよ」

 

 震える手に、カナエがそっと触れる。柔らかな温もりが、しのぶの思考を今に連れ戻した。カナエが微笑んでいる。

 

「でも、毒は完成したじゃない。それだけで、まずは十分でしょ」

 

 そう言いながら、カナエは傍らから何かを取り出している。そうして差し出されたのは、お館様宛の、一通の書状。目を通して、しのぶは息を呑んだ。

 

「日輪刀、つくってみない?」

 

 そんな権限はないはずだとか、まだ早いだとか、そんな理屈は、この慈愛の前では無意味だった。姉が、自身の道を懸命に信じてくれている事実だけが、しのぶの心の中を熱く支配する。震える唇を無理やり開いた。

 

「……つくりたい。……ありがとう、姉さん」

 

 カナエが笑みを深める。しのぶはカナエの手を取り、その身体に深くもたれかかった。

 

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