境界の斎鬼   作:eebbi

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夜明けの足音

 不快な湿気が肌にまとわりつく小屋の中、斎鬼は書状の文字を追いかけていた。蝶屋敷から送られてきた書状。そのほとんどが、屋敷の日常で埋め尽くされていた。ふわりと胸に訪れる冷たさ。しかし、あの夜の自身の言葉が、この感情を否定してくる。

 

「……どうしたいんだろうな、俺は」

 

 あの陽だまりが恋しい。失いたくない。守りたい。そのために、これまでやってきたことに嘘はない。しかし、それを許してはいけないこともまた、事実だ。

 心が泥濘に足を取られていても、書状を読むことは止めない。日常が終わり、冷静な報告が始まる。その変化に、ふっと笑いがこぼれた。

 

「普通、順番が逆だろうに」

 

 空白地帯の調査は、大きくは進んでいないようだ。未だに何かの気配すら感じられず、深く踏み込むには危険性が高いと書かれている。

 もう一つの報告は、しのぶの毒について。毒による討伐が成功したこと。日輪刀の開発に取り掛かること。その中のある一節に目が止まった。

 

 ――鬼全体が、無惨を介して毒に適応している可能性がある。

 二人の判断なのだから、恐らく誤りはない。しかし、鬼の経験までもが無惨に伝達されるのだとすれば、あらゆるものの運用を見直す必要がある。視線を天井に向け、ぼんやりとその模様を眺めた。水気を含んだ木が、パキッと音を立てている。幾度となくそれを聞き流していた時だった。ひとつの可能性に思い至る。

 

「……今の討伐効率は、警戒されるか」

 

 討伐地点、頻度、要因。これらも伝達されるのであれば、疑われて当然だと思った。そうなれば、あの臆病な男が手を打たないはずがない。元凶を排除するために動いている可能性がある、と。

 刹那、浮かぶ血の匂い。あの陽だまりが、血に塗れる光景。血の海に沈むカナエの姿。呼吸が浅くなる。心臓が、冷たい手で掴まれたように軋んだ。

 早急に対策を打つ必要がある。和紙を一枚用意した。そこに記すのは、敵の動きへの備え。直近の討伐事例の分布、その鬼の強さ、そして、出現の規則性と異常な変化の把握。討伐に成功した案件の重点的な調査を書き添え、鎹鴉に手紙を託した。

 

「……何もなければ良いが」

 

 不気味なほどに赤い夕焼け空。その赤に飲まれていく鎹鴉を見送る。胸の奥の不穏な影が、着々と大きくなっていた。

 

***

 

 空気を切り裂く一振り。しかし、まだ洗練されていない。もう一振り。雑音が混ざる。

 いつもの素振り。心を苛む感情も、言いしれぬ不安も、この一太刀で断ち切る。その祈りを込めて、刀を振るう。

 

「……ダメだな」

 

 構えを解く。どうしても、脳裏にこびりついた雑念が離れない。周りを取り囲む木々の静かなざわめきが、自身の孤独を浮き彫りにしていた。失われた隣の温もり。いつの間にこんなに弱くなったのだろうか。

 

 気が散る原因はもう一つ。背後の木の後ろから注がれる、一つの純粋な視線。毎夜繰り返されるその気配が、誰のものであるかは問うまでもなかった。

 気づかれないように、その様子を窺う。木刀を持っている。稽古終わりでつらいだろうに、その瞳は変わらず強く輝いている。

 

 ここに来た目的を考えれば、関係を進めなければならない。相手から歩み寄られなければ、関係ひとつ進められない自分にうんざりする。自虐的な笑みを浮かべ、竈門が潜む木へと近づいた。

 

「……何か用か?」

 

 竈門が驚いたように体を硬くする。だが、すぐにいつものようなはっきりとした口調で口を開いた。

 

「稽古をつけてください!」

 

 いつかの隊士たちの姿が重なる。温かさが湧き上がる心に蓋をし、返事をした。

 

「呼吸のことは教えられない」

 

 竈門は、目的が違うとでも言うように首を大きく横に振る。その様子を見て、小さく首肯した。竈門が明るく笑う。その笑顔が、また心を抉った。

 

 木刀に持ち替え、広場の中央に立つ。開けた空間に差し込む月明かりが、二人を照らし出す。始まりの時を待つかのように、木々のざわめきが止まった、その瞬間。

 

 竈門が、木刀を振り上げ駆け出した。その姿が目前に迫る。振り下ろされる木刀。瞬間、手首を掴む。刃を、横へ逸らした。竈門の視線はまだこちらを捉えている。空を切った姿勢から、強引な切り上げ。一歩引きそれを躱す。足を払う。砂埃が舞い、竈門が地に伏せた。

 竈門が跳ねるように立ち上がった。その目は、まだ諦めていない。

 

「……来い。こんなものではないだろう」

 

 竈門の瞳が、強い光を宿す。ふと、いつかの宇髄もこんな気持ちだったのだろうかと、頭を過った。

 冬山の澄んだ空気に、木刀がぶつかり合う音が響き渡る。一合ごとに湧き上がる、陽だまりのような熱。その感覚に身を任せ、過ぎる時間も疲れも忘れていく。互いの言葉にならぬ心を木刀に乗せ、いつまでも打ち合っていた。

 

***

 

 穏やかな陽光が、蝶屋敷を包んでいる。普段から賑やかな屋敷が、その日は一段と騒がしかった。理由はメンコ大会。方式は()()()で、参加者は八名のトーナメント式だ。アオイは、すっかり馴染んでしまったその光景を眺めていた。

 

「本当に、よく飽きないわね……」

 

 隣のしのぶ様が眉間を抑え、呆れたように呟く。その様子に、苦笑しながら小さく頷いた。パチン、とメンコを叩きつける音が響き、その度に歓声が上がる。この異様な盛り上がりは一体なんなんだ。

 

 大会の度に、先にやることを済ませなさいと言い続けていたら、訓練にしっかり取り組むようになったのも手に負えない。遊びのためなら真面目になるのかと、素直には喜べなかった。

 

 ふと、大会の度にあの輪の中で大はしゃぎしているカナエ様が、今日はいないことに気がついた。部屋を見渡すと、いつもの無表情を浮かべたカナヲに、何やら話しかけている。メンコをカナヲに握らせ、その目の前でやり方を教えている。パチン、という音とともに、器用にメンコをひっくり返した。それを見つめるカナヲの表情は変わらない。

 

 外から鎹鴉の声。アオイが動く前に、カナエ様が受け取りに出ていった。一人になったカナヲが懐を探る。いつも通り、コインを取り出そうとして――。

 

 その手を止め、立ち上がった。カナエ様が渡したメンコを叩きつける。綺麗な動作で行われたそれが、メンコをひっくり返した。その時、大会メンバーが大歓声を上げる。思わず耳を塞いだ。視線の先では、戻ってきていたカナエ様がカナヲの手を取り、すごいすごいと飛び跳ねている。

 

 かつて家族を失い、失意と恐怖に支配されていた頃、カナエ様としのぶ様が与えてくれた温かさ。凍てついた心を溶かしてくれたあの雪解けが、カナヲの姿に静かに重なっていく。

 胸に過ぎるのは、今は屋敷を空けている不器用なあの鬼の姿。斎鬼さんが大会の度にカナヲに声をかけ、その度に肩を落としていたことには気づいていた。ふっと笑みがこぼれる。

 

「……良かったですね」

 

 少しずつでも、みんなが前に進んでいる。その事実が、心に穏やかな光を灯していた。

 

***

 

 狭霧山には、夜が訪れていた。鱗滝は、私室で書状に目を通していた。しかし、その思考は別の場所にあった。

 

 炭治郎と斎鬼の邂逅からしばらくして、毎夜、木刀で打ち合う音が響くようになった。その様子を見たとき。斎鬼の剣技の歪さが目についた。胡蝶カナエから習ったのだろう。花の呼吸の動きを基本とした剣技だ。しかしその動きには、全盛期のイメージに肉体が追いつかないかのような、ぎこちなさがあった。

 木刀を持ち外に出る。向かう先は、あの広場だ。

 

 土を踏みしめる音が鳴る。歩みを進めるにつれ、無駄のない空気を切る音が聞こえてくる。その音は日を経るごとに洗練され、そこに宿る意志は鋭くなっていた。

 

 月光の下、広場の真ん中で素振りを続ける一人の鬼。瞳に宿る温かく強い光とは対照的に、表情が抜け落ちた顔。世界に自分しかいないかのような集中力で、ここではないただ一点を鋭利に見つめている。きっと胡蝶は、この瞳の奥にある光に魅せられたのだろう。

 

 気配を知らせるように近づく。斎鬼の視線がこちらに流れた。

 

「斎鬼。お前は、呼吸が使えるか?」

 

 斎鬼が首を横に振り、淡々と口を開く。

 

「……鬼の体には、負担が大きすぎた」

 

 その言葉に納得する。鬼の膂力で剣技を支えていたのだろう。しかし、それが成立しなくなっている。

 

「お前に、水の呼吸を教える。今の体なら使えるだろう」

 

 斎鬼が怪訝そうに眉を顰めた。そのまま、すっと目を瞑り、大きく息を吸い始めた。静寂の中、大きな呼吸音が響く。幾度かの呼吸を繰り返し、斎鬼が驚いたように目を見開いた。その様子を見て、口を開く。

 

「ついてこい」

 

 後ろから聞こえる足音。その足取りは、わずかに軽やかな音を鳴らしていた。

 

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