境界の斎鬼   作:eebbi

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満たされた器

 冬の空に広がる澄み渡った青。雲ひとつない晴天の中、ひとつの黒い点が消えていった。預けた一通の手紙。カナエは悪戯な笑顔を浮かべた。

 

「斎鬼くん、喜ぶかしら」

 

 もしそうだったなら嬉しい。意外と寂しがり屋な彼のことだ。ひょっとしたら、感動で泣いてしまうかもしれない。その姿を想像し、胸が躍る。彼からの返事を楽しみに、屋敷の中へと踵を返した。

 向かう先は地図盤の部屋。そこで待ち受けるものに、すぐに頭を切り替える。脳裏に浮かぶのは、斎鬼くんの手紙に書かれていた危険性。

 

 ――無惨が、こちらの策に気づいているかもしれない。

 しのぶとの話でも出ていた、真っ当な懸念だった。すぐに着手する必要がある。

 ただ、問題が一点。それは、蝶屋敷と音柱の区域以外の事案が入手できないことだ。二つの区域だけでは、異変が意図的なのか自然発生なのかを、判別できない可能性があった。

 

 協力を得るにも、斎鬼くんの名前が出る以上、人は選ばないといけない。悲鳴嶼さんと不死川くんは真っ先に外れる。最近就任したばかりの炎柱と蛇柱に頼むのは、反応が予想できない。そうなれば、残るは一人だった。

 

「やっぱり、冨岡くんかしらね……」

 

 あの部屋の入り口が見えてきた。積み上がった報告書を思い出し、ため息を吐く。また、途方もない作業の始まりだ。

 部屋の前についた。入り口の取手を持ち、目を閉じる。瞼の裏に、斎鬼くんの手紙の筆跡を思い浮かべる。どこか焦ったような、珍しく乱れのある字だった。きっと今も、この屋敷を心配している。少しでも安心させられるように、すべてを注ぎ込まなくてはいけない。小さく息を吐く。

 

「……やり切るのよ」

 

 目を開く。取手を力強く握り、決意を込めて扉を開いた。

 

***

 

 夜の狭霧山には、今日も硬質な音が響いている。間断なく繰り返されるそれは、終わりの気配を全く見せない。

 斎鬼の感覚は、目の前の竈門の動きを正確に予想していた。竈門がわずかに息を吸う。一瞬の間。体を沈め、その力が足に伝わる。それが、竈門の癖だ。そして竈門が動き出した瞬間、すべては完了していた。乾いた音とともに、木刀が宙を舞った。竈門は手を悔しげに見つめている。しかしすぐに我に返ると、木刀を拾った。

 

 再び構える。竈門の瞳の輝きに恥じぬよう、意識を集中させる。竈門は半身の姿勢。体で木刀を隠しながらの接近。互いの間合いに入る。右足を前に出し、深く踏み込んでくる。ここから繰り出される動きは一つだけ。上段からの振り下ろし。予想通り、またも木刀が舞った。

 幾度となく繰り返される光景。ついに竈門の体力が限界を迎え、その場に倒れ込んだ。

 

「……竈門。その程度では、妹を守ることはできない」

 

 喉まで出かかった自嘲の言葉を飲み込む。思い浮かぶのは、何人かの柱の顔。同じ柱であったカナエでさえ、あれだけの苦労をしたのだ。鬼殺隊という組織で鬼の妹を守り切ることは、並大抵の努力では不可能だ。

 竈門が真剣な瞳でこちらを見つめている。自身とは正反対の、心を持った真っ直ぐな剣だ。だからこそ、実力が結果に直結する。

 ふと思い出した言葉――地味な小細工。いつかの宇髄との修行で捨て去ったものだ。あるいは、心のまま刀を洗練させるのもまた、ひとつの道なのかもしれない。

 

「お前はその心のまま、真っ直ぐに刀を振り続ければいい」

 

 よくわからないと、表情が物語っていた。しかし、真剣な表情のまま大きく頷く。ようやく息を整えた竈門が、口を開いた。

 

「正治さんの剣は、重いです」

 

 重い。真意は分からないが、ある意味でそれは当然だった。

 

「……鬼だからな」

 

「そういう意味ではなくて」

 

 被せ気味の否定。今度は、こちらが意味を理解できなかった。竈門の目が、言葉を探すように揺れている。やがて、ポツリと口を開いた。

 

「……剣筋は鋭いのに、迷ってるような、悲しい匂いがします」

 

 どこか自信なさげに呟かれた言葉。その言葉の意味を、最後まで理解できなかった。

 

*** 

 

 「炭治郎って呼んでください!」と言いながら去っていく背を見送り、小屋に帰ってきた。日輪刀の刃こぼれがないことを確認しようとした時、文机に手紙が置いてあることに気がついた。カナエからのものだったが、いつもより厚みがある。すぐに封を開けると、いつもの倍はあろうかという枚数。胸が騒ぐ。何かあったのかと思い、心が急く。

 

 手紙を素早くめくり、中身を流し見る。内容はいつも通りの日常。だが、半分以上の紙の筆跡がカナエのものではなかった。綺麗な字。習いたての子どもの字。形は崩れているが、丁寧に書こうとした努力が滲む字。

 一枚めくる。姉さんが寂しそうだから、腹が立つがさっさと帰ってこい。これはしのぶだ。次の一枚。大会の収拾がつかないから、何とかしてほしい。これはアオイの手紙。

 次の勝負では絶対に負かすから、早く帰ってきて。傷が治って、訓練できるようになった。このままじゃ、稽古をつけてもらう前に退院してしまう。

 一枚一枚、すべて顔が思い浮かぶ。蝶屋敷の皆が書いた手紙。きっと、皆にとってはなんてことない手紙。

 

 ポツリと、紙に何かが垂れた。文字が滲まないように慌てて拭こうとした時、視界が滲んでいく。胸の奥から、どうしようもない熱が溢れ出した。固く蓋をしたはずの感情が、どんどんと膨れ上がっていく。体が熱を持ち、息が荒くなる。涙が次々と頬を伝い、拭っても拭っても、一向に止まらなかった。

 

 沈黙した部屋に、ただ嗚咽だけが響く。壁に背を預け、視界がぼやけて読めなくなった手紙たちを、そっと胸に抱えた。指はざらついた感覚を伝えるだけなのに、この上なく温かいものに感じられた。

 

 時間の感覚を失い、胸を灼く心地よい熱に、ただ身を任せる。次第に視界が戻ってきた。この紙に乗せられたすべてを逃したくなくて、一文字ずつ丁寧に読む。皆の思い、皆が与えてくれた熱のすべてを、凍てついた心の器に注ぎ込む。その中でもひときわ熱を大きくした、カナエの手紙の一節。

 

「……そうか。良かった」

 

 ――カナヲがメンコで遊んでいた。

 きっといつも通りの無表情で、メンコを投げていたんだろう。あの廊下で見た、花が咲いたようなカナエの笑顔を思い出す。そして、優しさは伝わっているという、あの言葉。これが自分のおかげなど、思い上がりも甚だしい。それでも、今はこの穏やかな激情に逆らいたくなかった。窓の外を見る。まだ、夜明けまで時間はある。一度しまった日輪刀を手に取り、再びあの広場へと駆け出していた。

 

***

 

 その日、鱗滝は一枚の和紙の前で思考していた。書状を書くか否か。その宛先は岩柱、悲鳴嶼行冥。斎鬼を見定め、必要ならば斬る。その嘆願への答えを出す時が来たと、そう考えていた。

 鋭い剣筋と、その奥に潜む悲しみと葛藤。足をとるその泥濘がある時からなくなったことを、鱗滝は鮮明に感じ取っていた。

 

 水の呼吸の修行が始まり、五日が過ぎた夜のことだった。そこに現れた斎鬼の瞳が、これまで以上に鋭くなっていた。迷いを断ち切ったような、進むべき道を見つけたような、力のこもった双眸。

 

 呼吸は未熟。常中など、まだまだ先の話だ。だが、わずかに残る鬼の身体能力から繰り出される型は、すでに流麗な軌道を描き始めていた。水の呼吸がもつ、守り勝つという性質。それが、彼の心と体を駆り立てているように見えた。

 

 その日も、立ち合いを行う。正面の斎鬼が張り詰めた空気を放ち、空間を支配する。譲れないもののために、空間のすべてを利用せんとするような、異常な集中力。

 先手は斎鬼からだった。縮地による刹那の接近。木刀の軌道が読めない、力感のない構えだ。受けを捨て、斎鬼が間合いに入るより一拍速く、わずかに踏み込んだ。そうして振るった木刀が、斎鬼に直撃する瞬間だった。

 

 ――参ノ型 流流舞い。

 あまりにも滑らかな受け流し。一瞬、姿勢が崩れた――と偽る。好機と見た斎鬼が、反撃の一撃を振るう。それを容易に捌き、手首を打ち木刀を弾き飛ばした。

 斎鬼は手首を押さえ、動きを思い返すように宙を見上げている。しかしそれよりも、先の見事な型が目に焼き付いていた。前日までとは比べ物にならない、迷いのない剣技だった。

 月が雲間に入り、斎鬼の横顔を照らし出した。空にある浮かぶ月を、慈しむような瞳で、眩しそうに見上げている。気づけば、その問いを投げかけていた。

 

「斎鬼。お前は何のために刀を握る」

 

 斎鬼の表情がわずかに翳る。だが、すぐに雪解けのように淡く、しかし確かな熱をもった笑みに変わる。そして、大切な思い出にそっと触れるように、柔らかい声音で答えた。

 

「……俺の宝物を、守るためだ」

 

 ――再び、目の前のまっさらな和紙を見つめる。そこに書くべき言葉は、すでに見えていた。

 

「あの鬼は、きっと希望になる」

 

 胡蝶カナエが引きずり出したであろう光に、自分もまた、希望を見い出している。すべての隊士が救われる未来のため、重く大きな一歩を踏み出した。

 

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