境界の斎鬼   作:eebbi

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希望

 狭霧山の夜は遅い。毎夜、絶え間なく剣戟の音が響き、その鋭さは日に日に増していく。

 その日の炭治郎との稽古は、昨日とは一線を画すものだった。思考よりも先に、刃が流れる。ひとつの目的へと導くかのように、軌道を自ら生み出していった。この不思議な感覚に、戸惑いを覚えていた。

 

 つられるように炭治郎の動きが洗練されていく。口元が自然と吊り上がる。互いのすべてを出し切って、ひとつの剣劇を創り上げるような心持ちだった。

 

 数えきれないほど剣を交えた。地面には汗の跡が広がり、山の静寂には荒い呼吸音のみが響いている。座り込んで休む炭治郎を見る。ふとその視線がこちらを向き、掠れた声を発した。

 

「今日の正治さんの剣、優しい匂いがしました」

 

 また匂いだ。それが何かはわからないが、鬼を見抜いたそれは、信用できるものだと考えていた。視線が宙に向く。その言葉の真意が何か知りたかった。

 考え込んでいる姿を見かねたのか、炭治郎が再び口を開く。

 

「一昨日から、花の匂いがすごく強くなった気がします」

 

 一昨日の出来事。思い当たるものなど一つしかなかった。この手に深く染み込んだ、手紙の温もり。不揃いな文字たちと想いに彩られた、カナエからの、蝶屋敷の皆からの手紙。あの日から、決して消えない炎が心に灯り続けている。胸の奥からこみ上げる熱に委ね、静かにつぶやいた。

 

「……そうかもしれないな」

 

 自分の望んだ道。あの陽だまりを守れていれば、その先に待ち受けるものなど些細なことだった。

 それを聞いた炭治郎が、輝くような笑みを浮かべる。その笑顔に見覚えがあった。そっと、炭治郎の隣に腰かける。見上げた空に浮かぶ、きれいな三日月。その明かりが、二人の影を長くのばしていた。カナエと出会った日も、空には三日月が浮かんでいた。欠けているのに、それでもそっと闇を照らし続ける輝きが、なぜかお似合いだと思った。

 

「……お前は、カナエに似ているな」

 

「カナエさん、ですか?」

 

 知らない名前に、ポカンとした表情を浮かべている。口に出したものの、どう伝えたらいいのかわからない。思わず視線を月に向けた。出会った時から今までの思い出が、浮かんでは消える。あれこれ考えて、結局、確かなことだけが言葉になった。

 

「……俺の、何よりも大切な恩人だ。芯があって優しいところが、そっくりだ」

 

 その言葉に、炭治郎がはっとした表情を浮かべる。何かを大事に噛み締めるように、三日月を見上げた。

 

 両親を失いながら、鬼にさえも手を伸ばすカナエ。唯一生き残った鬼の妹を、守ろうともがく炭治郎。惨劇から始まった二人の道が、交差しようとしている。その場所に鬼である自分がいることに、きっと意味がある。今が踏み出す時だと、不思議な確信があった。

 

 冬の冷たい風が汗を冷やす。言葉を発するため、呼吸を整える。空を流れる雲がやたらとゆっくりに見えた。意を決して、隣に視線を向ける。

 

「炭治郎。お前の妹に、会わせてくれないか?」

 

 炭治郎が、躊躇いなく大きく頷いた。

 

***

 

 凍えた空気が支配する、ほこり臭い小屋。石油ランプの灯りが視界のすべてだった。ささくれが刺さる冷たい木の手触りを感じながら、眼前で穏やかに眠る鬼――禰豆子を見つめる。しばらくの静寂の後、隣の炭治郎が力なくつぶやいた。

 

「ここに来てから、ずっと寝てるんです」

 

 普通、鬼が眠る必要はない。食事もなしに何週間も眠り続けているのは、異常だった。炭治郎もその可怪しさに薄々気づいているのだろう。眉尻が下がっている。

 しのぶのようにはいかないが、頭の中に浮かぶいくつかの仮説。それを確かめれば、道は開けるかもしれない。

 

「……人を食べることに、関心がなかったのか?」

 

 炭治郎は首を横に振る。それは、あの壮絶な飢餓感に耐えた証拠だ。脳が灼け、五感が血液と人肉に塗れる絶望的な感覚がよみがえる。膂力の低下とともに、薄れつつあるそれ。

 逆らい難い本能的な欲求を理性のみで抑えることは、この小さな体にはあまりにも酷だった。抱えたものの大きさに、思わず声が漏れる。

 

「……頑張ったな」

 

 目の前で家族を殺され、望んでもいない化け物にされ、その末に家族の亡骸を喰らいたくなる。一瞬、視界の端が赤く染まった。腹の奥から湧き上がるドス黒い濁流に、拳を握りしめる。

 

 隣の炭治郎に目を向けると、柔らかい笑みを浮かべていた。すっと頭が冷える。その笑みの真意は推し量れない。しかし、自分の苦悩を脇に置いて、他者に慈しみを向けられてしまうその在り方が、とても眩しく感じられた。あの夜、あの三日月の下で感じたものと同じ眩しさ。

 

 そこから先に言葉はなく、呼吸さえ聞こえるほどの静寂が部屋を包んだ。きっと、この眠りは彼女にとっての戦場なのだ。鬼の本能と。無惨の身勝手な支配と戦うための。眉間に力が入る。

 

 ――鬼を人に戻せる可能性。

 しのぶが実現を示唆したその薬。それがあれば、きっとこの地獄から救い出せるのだろう。もはや、その一歩を躊躇う理由はなかった。

 

「俺がここに来たのは、鬼を人に戻す可能性を探るためだった」

 

 炭治郎が息を吞む音が聞こえた。隣を見る。その瞳には、夜明けのような光が灯っている。新たな希望を大切に抱えるように、晴れた笑顔が浮かんだ。

 

「カナエの妹が、薬を創ろうとしている。そのために、禰豆子の血と細胞がほしいと言っていた」

 

「――いいですよ。きっと禰豆子も許してくれます」

 

 その言葉に躊躇いの色はなかった。その瞳が、なによりも雄弁に信頼を語っている。ランプがつくる境界の内側を、穏やかに熱が満たしていく。

 

「……ありがとう」

 

 心の器に、またひとつ大切な熱が加わった。かけがえのないそれをそっと包むように、胸に手を当てた。

 

***

 

 いつも通り凍えた部屋。だが、そこには確かな熱があった。

 机に広がる採取器具。その傍らに、血液と組織の入った密封容器がある。血液が入った容器を掲げ、ランプの光を反射する深紅のそれを見つめる。カナエの夢、しのぶの憎悪、炭治郎の安堵。この赤が、その収束点となりうる希望の色だった。

 鎹鴉に預けるため、容器を詰める。あとはこれが届けば、しのぶなら突き進んでいくだろう。まず一つ、役目は果たした。ふっと息を吐く。

 

 背を預けた壁の冷たさが体温を奪い、胸の奥の熱の輪郭がはっきりとしていく。

 あの手紙を手に取り、意味もなくパラパラとめくる。そこら中に書かれた、その言葉を指でなぞる。指に伝わる感覚が心地よい。

 

「……すぐに帰るから」

 

 鱗滝の稽古を、乗り越えたいという衝動が生まれている。そうすれば、あの陽だまりを守れる。あの笑顔たちを、もっと輝かせられる。

 手紙を便せんに戻し、そっと引き出しにしまう。目を瞑り全集中の呼吸を始めようとした瞬間。

 外から鎹鴉の鳴き声に意識が引き戻された。夜中に飛んでくるのは初めてのことだ。わずかに、胸騒ぎがした。

 

 採取した組織をもって表に出る。夜闇に紛れて、慌てたように飛んできた。手紙を一通携えている。それを受け取り、疲れたと騒ぐ鴉に袋を渡す。

 

「すまないが、急ぎで頼む」

 

 渋々といった様子で飛び立つ姿を見送った。手の中にある、蝶屋敷からの手紙。いつもと違う、夜更けの来訪だった。月が雲に隠れ、深い闇が山を包む中、その一通の手紙だけが、不吉な気配を放っているように感じられた。

 

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