あの夜から、二人の密会が始まった。
場所は、人里離れた古い社。苔むした石灯籠は口を閉ざし、風に揺れる注連縄の影だけが、二人の共犯関係を見届けている。鬼である斎鬼にとって、藤の花の香りは本来忌むべきもののはずが、今ではカナエの訪れを告げる、待ち遠しい合図に変わりつつあった。
「……本当に良かったのか?」
最初の夜、斎鬼はカナエに問うた。
「俺のような鬼と関われば、立場が危うくなるだろう」
「ええ。でも、覚悟の上よ」
カナエは、穏やかに微笑む。
「鬼殺隊を騙しているようで、少し胸は痛むけれど……。でも、私はあなたという可能性に懸けてみたいの」
彼女の瞳は、どこまでも真剣だ。斎鬼は、それ以上何も言えなかった。
「あ、そうだ」
声とともに、カナエは一枚の絵姿を斎鬼に見せた。醜く歪んだ、鬼の似顔絵だ。
「この鬼を知らない?近頃、若い娘ばかりを攫っているそうなの。でも、その手口が巧妙で、尻尾が掴めない」
その絵姿を見て、わずかに眉をひそめた。
「……こいつの匂いなら、嗅いだことがある」
下弦だった頃、縄張りを巡って争った鬼の一匹だった。人を喰らうためなら、どんな卑劣な手も使う、狡猾な鬼だ。
「本当!?」
「ああ。奴は、血鬼術で沼を作り出し、その中に潜む。沼はどこにでも作り出せるから、姿を捉えるのが難しい。だが……」
斎鬼は記憶を探りながら続けた。
「奴には癖がある。必ず、獲物を攫った場所の近くに、本拠地となる大きな沼を作る。そして、月が最も欠ける新月の夜に、沼の底で獲物を喰らう」
「……新月は、明後日の夜ね」
「ああ。奴の沼は、普通の人間には見えない。だが俺なら、その気配を辿れる」
「……案内、してくれるの?」
「そういう話だっただろう」
***
二日後の新月の夜。
斎鬼が示した沼地は、不気味なほど静まり返っていた。カナエは息を殺し、木の上からその水面を見つめる。斎鬼は、少し離れた場所で同じく闇に潜んでいた。
やがて、一人の娘がふらふらと、何かに引き寄せられるように沼のほとりへとやってくる。鬼の血鬼術による誘引だ。娘が沼に足を踏み入れようとした、その瞬間。
「そこまでよ」
カナエの静かな声と共に、沼の中から三つの影が飛び出した。沼の鬼だ。だが、鬼たちが娘に襲いかかるよりも早く、カナエの刃が閃く。
――花の呼吸、弐ノ型・御影梅。
舞うように繰り出される斬撃は、三体の鬼を的確に捉え、その頸を同時に刎ねた。鬼たちは、断末魔の叫びを上げる間もなく、塵となって消えていく。
斎鬼から事前に聞いていた情報――鬼は三体に分裂すること、そして本体は存在せず、三体同時に頸を斬らねばならないこと――その全てが、この一瞬の勝利を導き出していた。
戦いを終えたカナエの視線が、斎鬼が潜む森へと向かう。斎鬼は、音もなく彼女の前に姿を現した。
「……見事だな」
「あなたのおかげよ。情報がなければ、こうはいかなかったわ」
カナエは、柔和に微笑む。だが、斎鬼の表情は硬いままだった。
「これで、今回の取引は終わりだ」
そう言って背を向ける。だが、その足は、すぐには動かなかった。脳裏には、先程のカナエの剣技が焼き付いている。同時に、己の戦い方の限界も。このままでは、ダメだ。
夜明けまで鬼を足止めする。それは、人を守るという点では意味があるかもしれない。
だが、彼の真の目的は『無惨を討つ』こと。そのためには、鬼を効率的に滅し、力を蓄え、鬼殺隊の柱が振るうような、洗練された技を身につけなければならない。
今のやり方では、あまりにも遠い。
「……一つ、取引をしないか」
長い沈黙の末、斎鬼は血を吐くような思いで言葉を発した。
「取引?」
「以前に言ったように、俺は、お前に鬼の情報を提供する。鬼殺隊では知り得ない、鬼の内側の情報を」
カナエに向き直り、決意と覚悟を込めて告げる。
これは、カナエにとってもリスクのある行為だ。
「その代わり、俺に日輪刀をよこせ。そして、お前の技を、間近で見せろ」
それは、斎鬼にとって、最大の屈辱であり、最大の覚悟だった。鬼が、鬼狩りに教えを乞う。罪人である自分が、断罪者である相手に、力を求める。
彼の孤独な贖罪の信念が揺らぐ行為だった。だが、無惨を討つという大義の前には、もはやそんな矜持は無意味でもあった。
辺りを、夜の静寂が支配した。
カナエの表情から、ふっと柔和な色が消える。彼女は答えず、ただ射抜くような厳しい瞳で斎鬼を見つめていた。その視線は、彼の覚悟の奥にある本質と、その提案が孕む底知れない危険性を、同時に測っているかのようだった。
「……本気で、言っているの?」
静かだが、鋼のように冷たい声だった。
「鬼に日輪刀を渡す。それが何を意味するか、理解しているはずよ。隊律違反なんて言葉では済まされない。鬼殺隊そのものへの、裏切り行為よ」
彼女の脳裏に、仲間たちの顔が浮かんでいた。鬼を憎み、家族を奪われ、それでも刃を振るい続ける隊士たち。そして、誰よりも鬼を憎んでいる、たった一人の妹、しのぶの顔。
――あの子がこれを知ったら、どれほど傷つき、私を軽蔑するだろう。
その想像だけで、心臓が氷の指で掴まれたかのように痛んだ。
「あなたが、その刀で人を襲わないと、どうして信じられるの?あなたの目的が無惨を討つことだとしても、その過程で人を喰らわないと、どうして断言できるの?」
問い詰める言葉は、刃となって斎鬼に突きつけられる。だが、彼は動じなかった。ただ黙って、カナエの言葉を、その葛藤の全てを受け止めている。その揺るぎない瞳が、逆にカナエの心を揺さぶった。
――分かっている。この問いが、無意味であることくらい。
彼は、人を喰らわぬ覚悟を、すでにその身で示している。今日の沼鬼の討伐も、彼の情報がなければ成し遂げられなかった。彼の知恵は、これからどれだけの命を救うだろう。合理的に考えれば、彼に投資する価値は計り知れない。
でも、理屈ではない。これは、あまりにも――。
「……怖い、のよ」
ぽつりと、カナエの本音が漏れた。柱としての仮面が剥がれ落ち、一人の人間としての、か細い声だった。
「あなたを信じたせいで、誰かが死んだら?私のせいで、しのぶが傷ついたら?そう思うと、怖くて足が竦む」
その痛ましい告白を聞いても、斎鬼の表情は変わらない。彼は、ただ静かに口を開いた。
「……なら、いい。俺は、俺のやり方でやるだけだ」
その言葉に、カナエははっと顔を上げた。彼は、同情も、説得もしない。ただ、事実を突きつける。彼の道と、自分の道。選ぶのは、お前だと。
その突き放すような言葉の中に、カナエは彼の揺るぎない覚悟と、自分に向けられた不器用な信頼を感じ取っていた。
カナエは、ゆっくりと目を閉じる。そして、深く、息を吸った。
全ての恐怖を、罪悪感を、覚悟と共に飲み込んで。
「……いいえ」
目を開けた時、その瞳にはもう、迷いの色はなかった。
「あなたの取引、受けましょう。私も、もう逃げるのはやめる」
彼女は、自分の腰に差した日輪刀に手をかけた。
「これは渡せないけれど……」
そして、努めて穏やかな、しかしどこか吹っ切れたような微笑みを浮かべた。
「柱になる前に使っていた古い刀なら、一振りあるわ。…そうね、次の三日月の夜に、ここへ持ってきてあげる」
斎鬼の胸の中に渦巻く安堵と自己嫌悪。それらを飲み込みひとつ頷くと、闇の中に消えた。
取引は成立した。無惨を討つための、最も合理的で、最も忌まわしい一歩。
一人残されたカナエは、彼が消えた闇を見つめながら、そっと息を吐いた。その息は、安堵と、これから背負うものの重さに、微かに震えていた。
視点のコントロールが難しい…
ここが変!ということがあれば、教えてください。