境界の斎鬼   作:eebbi

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血の帰還

 斎鬼が狭霧山に到着してから、三週間ほどが過ぎた。その日も、無機質な部屋に金属がぶつかり合う甲高い音が響いている。

 しのぶの目に映るシャーレを満たすのは、人の細胞と斎鬼の血液。しかし、そこに何も変化はない。

 

「いきなりうまくはいかないわね。……あの鬼、さっさと持ってきなさいよ」

 

 憎まれ口しか出てこない自分に辟易する。大きくため息をついた。人が鬼になる要因は無惨の血を摂取すること。それを、この実験室でも再現できると考えていた。しかし先に進まないため、道具を片付ける。

 綺麗になった作業台。そこには、一枚の紙が広げられていた。

 

「……やっぱり、あとは日輪刀ね」

 

 構想は出来た。ダイアルで三つの成分を刀に仕込み、刺突とともにいずれかを射出する。一つは誘導因子、一つは細胞膜の穿孔成分、もう一つが本丸の毒だ。これらを順番に打ち込める機構をつくる。それが、強力な鬼を殺すための最適解だった。

 残る問題は、技術の確立と自身の練度だ。刀鍛冶の里へと送った構想案。その返事が待ち遠しかった。

 

 その時、外から慌ただしい、しかしどこか慎重な足音が近づいてきた。そして、そのままガタリと入り口が開く。

 

「姉さん、慌ててどうしたの?」

 

 珍しい様子。少し安堵したような、新しいおもちゃを手に入れたような笑みを浮かべている。

 

「しのぶ、来たわよ」

 

 そう言って作業台に広げられる、血液と組織保管用の密閉皿。理解した瞬間、口元が吊り上がるのを堪えられなかった。我慢できず手に取り、その赤黒く輝く液体を光にかざす。

 憎い鬼の血。しかし、姉さんとあの鬼が見出した希望でもあった。玉虫色の感情が生み出す熱に蓋をして、やるべきことに取り掛かる。

 

「ありがとう、姉さん。……本当に、ようやく来たわね」

 

 ため息を吐きながら挟んであったメモを見ると、組織は皮膚と筋肉のみのようだ。しかし、これで何かが分かるはずだと、期待を込めて準備に取り掛かる。

 

「……ごめんなさい、しのぶ。先に見てもらいたいものがあるの」

 

 姉さんがおずおずと声を発した。きっと、あの地図のことだろう。危険性を考えたらそちらを優先すべきだと考えて、別の器具を取り出す。

 

「大丈夫よ。でも、保管だけさせて」

 

 そう言って作業を終え、姉さんの背を追った。

 廊下を歩く音が、どこかいつもより早い。それがこの先に待つことの重大さを表すようで、鼓動が徐々に速くなっていく。先の見えない静かな暗闇が、廊下に重く漂っている。

 やがて、あの部屋の入り口に到着した。姉さんに続いて部屋に入ると、そこには、さらに増えた大量の地図が広がっている。一枚手に取る。ここ数ヶ月の討伐事例を図化したものだった。

 

 姉さんが数枚の地図を並べる。すぐに気づく違和感。

 

「……鬼が増えてるわね。他のも見ていい?」

 

 姉さんが小さく頷いた。あるのは蝶屋敷、音柱、水柱の担当区域。音柱と水柱の地図には異常はない。蝶屋敷の地図に目を映したとき、一つだけ気になる部分があった。一瞬手を止めたとき、すっと姉さんがそこを指さした。

 

「やっぱり、気になるわよね」

 

 蝶屋敷の近くで、鬼の出現が異常なほどに減少している場所。

 

「……こっちは、囮じゃないかと思っているの。しのぶはどう思う?」

 

 姉さんの声が強張っている。

 思考に集中する。増加している地域。しかも、討伐事例の周辺にまた追加されているように見える。投入されているのは、多少手がかかる程度の鬼。

 

 ――そこに、隊士を留めさせるため。

 思い浮かんだ可能性。心臓を握られたような、底冷えする感覚が広がる。

 

「……どのくらい前から、こうなってる?」

 

「――だいたい五日前からよ」

 

 予期していたかのような返答。姉さんが、悔し気に顔を歪ませ、腕を強く握っている。きっと数日以内に、大きな戦いが起きる。その上、隊士の移動ルートからここを特定される可能性もある。

 

「お館様と斎鬼くん、あと宇髄さんには連絡したわ。……禰豆子ちゃんのが間に合って良かった」

 

 少し柔らかい声音。手は打ってある。であれば、あとは備えるだけだ。

 

「動きを考えないと」

 

 相手次第では、毒の実戦投入を視野に入れよう。この状況では、上弦が来ないことを祈るしかない。

 部屋の灯りは消えず、夜通し声が漏れ出していた。

 

***

 

 狭霧山の片隅にある小屋。昼下がりの陽光が遮られた、薄暗い小屋。その日、床一面に大量の地図が広がっていた。

 鬼気迫る表情でそれを追うのは斎鬼だ。視線が次々移動し、紙が擦れる音が絶え間なく響く。その脳内に無数の仮説が生まれては立ち消えた。指が微かに震える。結局、結論はカナエとしのぶと同じだった。

 

 傍らにある手紙を読む。そこに蝶屋敷の温かさはなく、淡々と状況のみが書かれている。少し荒い字が、カナエの焦りを如実に語っている。

 

「……どう動くべきか」

 

 蝶屋敷の近くの、不気味な空白。そして、それと遠く離れた地域に出現している異常な数の鬼。意図的と見て間違いない。弱い鬼を捨て駒にして時間を稼ぎ、本命の狙いを隠す。臆病者らしい小細工だ。問題は、こちらの情報を伏せながら来たる鬼を討伐する術だった。

 

 下弦であれば何とかなるだろう。しかし上弦だったら、手はない。額の汗が滴り落ち、眼下の地図を濡らした。

 

 カナエの手紙には、宇髄への人員の依頼と、お館様への報告は済んでいると書かれている。すでに手は打たれている。柱が一人でも来てくれれば、状況は大きく変わるだろう。

 あと何が必要かを考え、ひとつの答えにたどり着く。

 

「……周辺の民間人への被害だな」

 

 カナエのことだ、もう動いているだろう。しかし、もし被害が露見していれば、上弦の可能性はかなり下がる。奴らはもっと狡猾だと、その悪辣な姿を思い浮かべた。

 

 脳裏に浮かぶ、花の香りで満たされた笑い声が響く縁側。あの場所を、血の匂いと呻き声で汚してはならない。急いで手紙をしたためる。和紙が湿り、わずかに文字が歪んだ。

 手紙を送り、大きく息を吐いた。だがすぐに立ち上がり、荷物をまとめる。

 

 決戦の時は、刻一刻と迫っていた。

 

***

 

 夜。雪が積もる山の中を、ひとつの影がひたすらに駆け抜けていた。雪を踏みしめる音すら聞こえない。景色が後方へ猛烈な速度で流れていく。風を切り裂く自身の音だけが、世界の全てだった。

 気持ちが急く。わずかな遅れが致命的になりかねない状況だ。

 

 狭霧山を発ったのは一刻前。脳内には、二人の言葉が反響していた。

 

 ――禰豆子が起きたら、会ってあげてください。

 屈託のない笑顔を浮かべた炭治郎の言葉。不安だろうに、きっと喜ぶと背中を押してくれた。

 

 ――稽古が必要ならば、便りを送ってこい。

 期待を裏切った己に、鱗滝は機会を与えてくれた。

 

 カナエ、蝶屋敷の皆、宇髄、炭治郎、鱗滝。気づけば、たくさんの手が己の背中を押してくれていた。拳を握りしめる。凍えるような寒さの中、体の芯には確かな温かさがあった。

 大きく息を吸い込み、足に力を込める。爆発的な速度で、闇夜を駆け抜けた。

 

***

 

 昼下がりの蝶屋敷に、張りつめた空気が漂っていた。アオイは、その元である二人の主の目に、言いしれぬ不安を感じていた。

 

 ここしばらく、カナエ様としのぶ様はあの地図の部屋にこもりきっている。お茶を持っていっても、笑みを浮かべる余裕すらない、鬼気迫る様子だった。絶えず鎹鴉が屋敷を飛び立ち、またやってくる。みんなも違和感を覚え始めているようだった。

 

「……できることをしないと」

 

 二人の負担を減らす。それだけでもやらなくては。あの時託された紙の重さを思い出す。視線の先で、きよが洗濯物を取り込んでいる。庭では、すみが訓練を監督していた。なほが、昼餉の用意をしている。

 みんなが頑張っている。心に火をともしながら医務室へと足を向けたとき、木刀を持ち鍛錬場に向かうカナヲの姿が目に入った。誰にも言われずとも、隠れて鍛錬しているのだろう。

 

「きっと大丈夫」

 

 言い聞かせるように呟く。蝶屋敷はみんなでひとつだ。ちょっとやそっとでは揺らがない。

 

***

 

 宇髄邸から送られてきた書簡を見て、カナエは頭を抱えていた。

 

 ――行方不明者が出ている。派手に仕掛けてくるかもしれない。

 鬼の情報はない。しかし、後手に回っていることは確かだった。一刻も速く突入すべきだが、無闇に進ん戦っても死者を増やすだけだ。鬼による明確な被害が出ていない以上、柱も動かせない。

 

「姉さん、毒の準備は終わったわ」

 

 疲れた様子でしのぶが報告している。ここ数日、この会議を進めながら毒の作成までしてくれていた。

 

「……ありがとう、しのぶ。助かるわ」

 

 頭の中にあるのは、踏み込んだ調査という選択肢。山に入って、直接見に行けたら。過去の自分だったら、己の手でそうできていた。

 戦えなくなった自分の手を見つめる。いつの間にか、隊士たちを危険に晒すことが、以前にも増して怖くなっていた。

 

「直接の調査……。しのぶ、どうするといいかしら……」

 

 しのぶが唸る。目を瞑り、眉間に力が入っている。口元で何かを唱え、思考を回している。目を開き、結論を出した。

 

「……リスクは許容すべきだと思う。これ以上、後手に回るのは避けたいわ」

 

 結論は同じだった。ふっと息を吐き、覚悟を決める。そして口を開こうとした、その時。

 屋敷が騒がしいことに気がついた。しのぶも、どこか落ち着かない雰囲気を放っている。

 

「見てくるわね」

 

「私も行く」

 

 汗ばんた手で扉を開く。その瞬間鼻を突く、最悪な匂い。息が荒れる。幾度となく見てきた赤い光景が、脳裏によみがえる。

 

 隣をしのぶが駆け抜ける。その背を追った先にあったのは、幾人もの隊士が、血を流し運び込まれている光景だった。アオイがこちらに駆け寄ってくる。

 

「ち、近くの山で、戦闘が、あったみたいです!」

 

 汗を流しながら、動揺で揺れる瞳を必死に押さえて、懸命に報告している。間に合わなかった。考えうる限り、最も酷いの状況だった。

 そんな様子を見たアオイが、凛とした声で宣言する。

 

「カナエ様、しのぶ様。屋敷は任せてください。絶対に、誰も死なせません」

 

 まっすぐな視線がこちらを射貫く。そして、返事を待たずに対応に戻った。その頼りがいのある背中を見送る。

 

「姉さん、私が行くわ」 

 

 目の前のしのぶが、拳を握りしめ、燃えるような瞳で口を開いた。地の底から響くような声。ヒュっと喉が鳴る。それでも、何とか声を絞り出した。

 

「……ダメ。危険よ」

 

「それは、柱としての意見?」

 

 奥歯を噛み締めた。言葉が喉に詰まる。視線を逸らし、血を吐く思いで口を開いた。

 

「……あなたの、姉としてよ」

 

 しのぶが溜まった息を吐き出す。そしてそのまま声を発する瞬間、言葉を被せた。

 

「――しのぶが行くなら、私も行くわ。全集中の呼吸も、使えるようになったから」

 

 短時間であれば、戦闘もできる自信があった。日輪刀を取りに行こうとしたところで、しのぶが唇をわななかせながら叫んだ。

 

「ダメ!」

 

 そして、はっとしたように口を噤んで、俯いてしまう。鉄錆の匂いと指示を飛ばす叫び声の中、切り離されたような冷たい沈黙が落ちる。やがて、どちらともなく口を開こうとした時だった。

 慌てた様子で入り口が開かれる。鬼気迫る表情で走り込んできたのは、待ち侘びた姿だった。

 

***

 

「……間に合わなかったか」

 

 第一声がそれだった。爪が食い込み、手から血が滴っている。壮絶な表情で、血の匂いで満ちた屋敷を睨んでいた。

 

「斎鬼くん、こっちに来て」

 

 初めて気がついたように視線が流れる。目が合い、わずかに表情が緩んだ。あの部屋へと、踵を返す。しのぶはどこかへ走り去っていった。

 

「カナエ、鬼の情報は?」

 

「わからないわ。隊士の回復を待つか、調査するしかない」

 

 斎鬼くんが頭を掻きむしる。その眼はすわり、額に太い筋が浮き出てきた。

 

「俺が行く。見つけ次第、斬る」

 

 これまで見たことのない、危ういほどの怒気。低く濁った声に、わずかに総毛立つ。この状態で行かせるのは危険だと直感が告げるが、それ以外の手もなかった。

 

「カナエ、柱は来るのか」

 

「いいえ、被害が出てなかったから……」

 

 それを聞いた彼が、私室に足を向ける。激昂を隠さないその背に、声をかけた。

 

「あくまで、偵察だからね」

 

 その言葉に、返事はなかった。私室につながる廊下に視線を向ける。その先で、また筆を執る必要があるだろう。

 

「……祈るしかないわね」

 

 すべてを吸い込むような闇に向けて、歩みを進めた。

 

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