夜の闇が蝶屋敷を包んでいる。門の向こうの黒が、出てくるものを喰らおうと待ち侘びているかのようだった。その門の前に、数名の人影があった。
「忘れ物はない?」
声がこわばってしまう。軽く見回し、斎鬼くんが小さく頷いた。後ろにいたしのぶが、一言声をかける。
「いざとなったら、迷わずその毒を使いなさい」
作ったような固い声色。彼が帰還してから、以前の鋭さがなくなっているような気がしていた。
斎鬼くんが、懐にある毒を確認する。そして屋敷に目を向け、目を鋭く尖らせた。
「ありがとう。……行ってくる」
「……気をつけてね」
彼が首肯し、門へと足を向けた。拳を握りしめ、日輪刀に手を掛ける後ろ姿が、体の芯を冷やして仕方なかった。
***
斎鬼くんが偵察に出た翌日。蝶屋敷は落ち着き、隊士たちは治療に努めていた。
あれから、斎鬼くんからの連絡はない。それが何より不安を煽った。意識が戻った隊士たちから聞いた情報。それをもとに、目の前の地図を見なくてはいけないのに、感情に飲み込まれてしまう。
「……大丈夫、よね」
不吉な予感が胸の奥でとぐろを巻いていた。その時、大きな音とともに部屋の扉が開かれた。
アオイが立っている。その手には、一通の手紙。わずかに、赤黒い何かが付着している。
「――アオイ、それは……!」
心を押さえつけていた凍てついた塊が、形になっていく恐怖。震える手で受け取ったそれは、斎鬼くんからのものだった。端が鋭く切り裂かれた紙、そこにわずかについた血の跡。呼吸が浅くなる。幾度となく見てきた最悪の光景が、脳裏によみがえる。
「斎鬼さんのことだから、きっと大丈夫です」
アオイの瞳が揺れている。声の震えを、隠せていなかった。
「……そうね、大丈夫。大丈夫よ」
深呼吸をする。体の芯の冷えはなくならない。それでも、この手紙を読まなくてはいけないと、胸元を強く握る。
「ありがとう、アオイ。しばらく、みんなのことは頼んだわ」
アオイがぎこちなく微笑み、頭を下げ部屋を出ていった。動揺する頭で、手紙を懸命に読む。
――下弦の弐がいた。
これは想定の範疇だ。問題は血鬼術だった。負の感情の増幅と幻覚。斎鬼くんの血鬼術とは、相性が最悪な可能性が高い。
蝶屋敷に運び込まれた隊士たちの傷は、明らかに日輪刀によるものだった。そして、皆が口を揃えて、混乱して鬼だと思って斬ったら、それが味方だったと証言していた。
過去に一つだけあった、似た事例を思い出す。かつて彼と話し合ったときの地図を取り出し、机に大きく広げた。淡泊な地図を彩る色とりどりのマーカー。膨大なルート設計と、その取捨選択の跡。もう一度深く、静かな呼吸する。
「……少しでも、楽にしておかないとね」
彼は帰ってくる。そう信じて、視線を地図に落とした。
***
「……まだ、想定が甘いかしら」
窓から差し込む光が、いつの間にか月明かりに変わっていた。目の前の地図には、隊士の数と配置が並んでいる。
過去の事案の血鬼術と同様の強度だとすれば、過剰な対策ができている状態だった。しかし、今回は下弦だ。もっと重層的に対策をすべきだとも思っていた。あとは、彼の情報次第。
「……斎鬼くん、早く帰ってきて」
蝶屋敷に漂う血の匂いが鼻をつく。底冷えする何かで胸がいっぱいになり、その言葉が漏れ出てしまった。集中が切れた時、外から言い争う声が聞こえる。三人の声。その中の低い声を聞いた瞬間、走り出していた。
部屋を飛び出し、その音源へと駆ける。玄関でもめる三人の影が見えた。しのぶとアオイが、斎鬼くんを問い詰めている。その体には、血が滲んだ包帯が巻かれていた。顔色も良くなく、不自然に壁に手をついている。
「斎鬼くん!」
真っ黒な光を灯す彼の瞳が、こちらを捉える。
「カナエ、作戦を考えるぞ」
しかし、それを断ち切るような声が響いた。
「姉さんからも、治療が先だって言って!」
しのぶが強い口調で言う。その言葉で、言い争いの原因が分かった。彼の尋常ではない雰囲気に気圧されながらも、何とか口を開く。
「治療が先よ、斎鬼くん」
しのぶが、よくやったとでも言いたげにこちらを見つめる。アオイがため息をついた。斎鬼くんが医務室へと連行されていく。その背を目で追いながら、あの部屋へと踵を返した。
「……地図、持っていきましょうか」
いくら緊急事態だとはいえ、働きすぎるのも困りものだと、ため息を吐いた。
冷えた廊下を歩く。脳内を覆っていた霧が去り、頭が回り始めていた。部屋から地図を手に取り、眺めながら医務室をめざす。廊下の先から緊張感のない声が聞こえてきた。
「もっとちゃんと圧迫しないと駄目です」
張り詰めていた空気が、その声でふっと緩んだ気がした。またアオイに叱られている。みんな、斎鬼くんに遠慮がなくなってきていた。光が漏れだす扉を開ける。
斎鬼の肩に、塞がりかけの痛々しい裂傷がある。消毒が染みるのか、顔を歪ませていた。思わず視線を逸らしたとき、ふと部屋にしのぶがいないことに気が付いた。
「アオイ、ありがとう。しのぶは?」
アオイが小首をかしげる。
「しのぶ様でしたら、あの後どこかに行かれましたが……」
その時、廊下から足音が聞こえた。入ってきたしのぶが、大量の資料を抱えている。
「姉さんも来てたのね。ちょうどいいわ」
斎鬼くんの前に広げられる地図と大量の資料。古紙とインクの匂いが、消毒液の匂いに混じり合う。マーカー塗れの地図と毒の資料が無造作に置かれ、医務室は一瞬にして作戦室に変貌した。斎鬼くんの瞳が鋭くなる。
「……配置と装備だな」
過去の事案の地図を手に取り、続ける。
「五人体制は同じだ。だが、一人が血鬼術にかかった時の手段として爆薬を持たせる」
顎に手をあて何かを考え、しのぶに目を向けた。
「下弦に効く毒はあるか?足止めでもいい」
斎鬼くんが鬼の情報をまとめた資料を机に置く。それを手に取り、しのぶが目を通し始める。
斎鬼くんは第一波の駒を動かしながら、その中に自由な駒をひとつ置く。
「これは俺がやる。爆薬の音で探知しながら支援に入る」
「……血鬼術は?」
血鬼術という選択肢が出てこない。ずっと気がかりだったことだ。感情を集めるそれには、この鬼の血鬼術は毒なのではないかと。斎鬼くんが目を逸らした。確信を得る。
「大丈夫じゃ、ないのね」
「……大きな支障はない」
体の傷以上に消耗している姿が、妙に不安を掻き立てる。
治療を終えたアオイが、頭を下げ部屋を出ていった。しのぶがその背を見送っている。
「この鬼の血鬼術は、掛かるとどうなるわけ?」
毒の資料に目を戻し、しのぶが問いかける。斎鬼くんの視線が一瞬しのぶに向き、天井に移った。やがて、過去の事例を指差し、呟くように口を開く。
「この事例より格段に上だ。恐らく、認識できない音による感情の増幅。強度が上がると幻聴と幻覚。あとは、物が鬼に見え始める」
証言通りだ。そこで、唐突に顔を歪め口を噤んだ。しばしの間のあと、小さい声で呟く。
「最後は……トラウマが引きずり出される」
その言葉が引っかかった。斎鬼くん自身が体験したという直感。思わず、鋭い口調で問いただしてしまった。
「……斎鬼くん、なんでそれがわかるの?」
冷たい声色。彼が顔を背ける。やがて、観念したように口を開いた。
「……掛かったからな。血鬼術を使ったのが原因だ。思えば、山に入った瞬間から既におかしかった」
ひとつ息を吐く。作戦の前提に置くのを避けた判断は間違いではなかった。
「奴の狙いは殺し合いだ。掛かったと思わせれば、隙ができる」
「――どうやって生き残ったの?」
しのぶが横から声を挟む。斎鬼くんが爆薬を取り出し、机に置いた。
「これだ。大きな音を出せば、何とか意識を保てる」
それに、と続ける。その表情がまた歪んだ。
「奴は獲物が苦しむ様を楽しんでいる。同士討ちか、見物してからとどめを刺すかだ」
血を吐くように告げられた、確信を持った言葉。そうと分かれば、動きは固まった。最後に釘を指す。
「……血鬼術は、絶対に使っちゃダメよ」
斎鬼くんが小さく頷いた。横から、しのぶが一枚の資料を机に置く。
「この毒よ。……絶対に殺しなさい」
それは、最も毒性が高いもの。適応の危険性を度外視した選択だった。
ふわりと、お茶の香りが部屋に漂う。アオイが持ってきたお茶を手にとって、一時休戦となった。茶碗を握る手に力が入る。あとは、成功させるだけだった。
***
翌日の夜。作戦の伝達を終え、件の山に向けて、二十三名の隊士が蝶屋敷を発った。その後ろ姿を、落ち着きのない様子でカナエが見守っていた。
鬼への恐怖や憎悪が少ない隊士を軸に、先遣隊と支援に分ける。分隊が恐慌状態に陥った場合には、斎鬼くんが何とかしてくれるはずだ。
――崩れた分隊のもとに、奴は必ず現れる。
怒髪天を衝く勢いの斎鬼くんの姿が、目に焼き付いている。感情を制御できていない不安定さ。
そして、お館様からの書簡に書かれた、救援の柱の名前。腕を強く握りしめる。
「……頼んだわよ」
早鐘を打つ胸を押さえる。月が隠れ、薄暗くなった道を進む彼らの背を、祈るように見送った。