境界の斎鬼   作:eebbi

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第六章:再生
生きた証


 その日も、カナエは一人その部屋にいた。しんと静まり返った部屋。そこで眠る、目の前で浅い呼吸を繰り返す斎鬼くん。その胸に耳を寄せると、確かな鼓動が聞こえる。手から伝わる熱とこの音だけが、彼がまだこの世界にいる数少ない証拠だった。

 

 春を待ち侘びる庭の木々が、小さく揺れている。じきに蕾をつけ花を咲かすだろう。その頃、彼は目覚めるのだろうか。彼が好きだった花の香りが満ちれば、あの声を聞かせてくれるのだろうか。

 みんなが進んでいく。自分の時間だけが、前へ進んでくれなかった。

 

 その時だった。廊下から複数人の足音。扉が開く。三人の隊士がそこに立っていた。手にはトランプを持っている。

 

「カナエ様、お邪魔します!」

 

 元気な声。あれだけの戦いの後だというのに、あっという間に足を進め始めた。その姿が眩しくて、つい彼へと視線を落としてしまう。

 

「……いいのよ。私の部屋じゃないんだから」

 

 三人が近寄り、斎鬼くんの顔を覗き込んでいる。やがて、顔を見合わせ、足元でトランプを広げ始めた。

 

「今日はここでやってもいいですか?」

 

 小さく頷くと、いつも通り楽しそうに遊び始めた。時折、寝てたら負けちゃいますよなどと、斎鬼くんを煽っている。静寂が満ちた部屋が、一瞬で温かさを取り戻していく。それを感じながら、ただずっと、その姿を見つめ続けていた。

 

 彼が縁側で始めた遊びたち。それが今や当たり前になり、こうして温かさを与えてくれている。はたと気づく。彼が生きる証拠が、こんなところにもあった。凍てついた心の表面が、ほんのわずかに溶けていくような気がした。

 時間が過ぎるのも忘れていた。この温もりに身を任せていたかった。意識を引き戻したのは、またしても廊下の足音だった。

 

「――こんなところにいたんですね!ほら、戻りますよ!」

 

 アオイがいつものように隊士を叱っている。これもまた、いつものことだった。抵抗する三人の姿を見ながら、ふとよみがえった光景。負けが込んでムキになった、斎鬼くんの姿。

 前も、なほの弱すぎという言葉で火がついたのか、トランプをいつまで経っても離さず、集まった隊士もろともアオイに叱られていたことがあった。

 ふっと笑いが漏れた。心の中に、大切なものがたくさん生きていた。

 

「アオイ。みんな、頑張ってくれてるから」

 

 アオイが不服そうに、しかし口元を緩めながら返事をする。

 

「……仕方ないですね」

 

 そう言うと、頭を下げ部屋を出ていった。隊士たちは、ありがとうございますと騒いでいる。けれど、違う。

 

「……ありがとうは、こっちのセリフよ」

 

 三人が顔を見合わせ、晴れやかに微笑んだ。

 

***

 

 しのぶはその日、鍛錬場にいた。ひたすらに突きを繰り返し、憎たらしい鬼の幻影を、幾度となく貫く。目指すは、一ヶ月後の柱合会議。そこでこの型を披露し、下弦を殺せる毒と合わせて柱に推薦する。それが、三人の結論だった。

 

 問題は、日輪刀だった。開発が遅れている。新規の機構なため、それは仕方がないことだった。しかし、焦りは止められない。つい鍛錬にも力みが出てしまっていた。

 

「……ダメね」

 

 落ち着かないといけない。姉さんのこと、柱合会議のこと、蝶屋敷のこと。ぐるぐると同じところを思考が巡って、足元を見失っていた。

 肺の淀んだ空気を吐き出し、再び構える。息を深く吸い、虚空を睨む。そこに、鬼を描く。心の奥底でとぐろを巻く熱を、日輪刀に込めた。狙いを定める。踏み出し、その切先が、鬼に突き刺さる――。

 

「……今のは、踏み込み過ぎよ」

 

 姿勢を整えたところで、背後から声。久々に聞く、意思のこもった声。たとえその原因があの鬼だとしても、やはり世界で一番大事な人の声だった。

 

「姉さん、見てくれてたの?」

 

 少しやつれている。それでも、以前の温かい笑みがわずかに戻っている。姉さんは小さく頷くと、木刀を持った。

 

「今の間合いだったら、こういなされた時、体勢が崩れるわ」

 

 自身も木刀に持ち替える。それを動かしながら、間合い、体の使い方、駆け引きなどを緻密に教えてもらう。花の呼吸にはない、姉さんが使ったことのない突き。だというのに、助言はこの上なく的確だ。柱としての技術。命の駆け引きを繰り返してきたそれに、まだ自分は遠く及んでいなかった。

 

 立ち合いを繰り返していた時だった。姉さんの息が異様に荒れていることに気付いた。脳裏に、あの日の深手がよみがえる。肺まで達していたその傷。血鬼術によって、肺の内部も破壊されていた。血の気が引く。

 

「……姉さん、ありがとう。少し休もう?」

 

「――大丈夫よ!」

 

 空回りした明るい声が、刃のように胸を抉った。その中に拒絶の響きがあり、姉さんの顔は苦しげに歪んでいた。そっと近寄って、体を支える。

 

「姉さん、無理しないで。肺だって、まだ治ってないんだから」

 

 その言葉に、姉さんが俯く。そして息が漏れるような声で呟いた。

 

「……大丈夫なのよ」

 

 そのひどく悲しげな声が、耳にこびりついて離れなかった。

 

***

 

「しのぶ様、お茶をお持ちしました」

 

 蝶屋敷の縁側。月明かりが差し込むその場所に、今日はしのぶ様が座っていた。冬の終わりが見えてきたここは、以前のような寒さは失われ始めていた。だというのに、そこにあったはずの温もりも、失われていた。

 

「……アオイには、苦労かけたわね」

 

 しのぶ様が、ぽつりと呟く。そしてふっと、自嘲気味に息を吐いた。その瞳がこちらを向く。

 

「……少し、話をしてもいいかしら」

 

「もちろんです」

 

 しのぶ様の隣に腰掛ける。ふわりと風が吹き、木々がざわめく音が縁側を包む。見上げた空には、きれいな満月が輝いていた。緩やかな静寂を破り、しのぶ様が話し始める。

 

「……きっと、私が姉さんを苦しめてるんだと思うの」

 

 言葉の意味がわからなかった。沈黙が、次の言葉を促す。

 

「私は早く柱になりたい。みんなを、姉さんを守れるようになりたい」

 

 それで、と続ける。拳を強く握っている。

 

「……憎い鬼を、殺してやりたい」

 

 懇願するような、何かを押さえつけるような声色。かつての張り詰めた雰囲気が脳裏を過ぎる。すべてを犠牲にしてでも、毒を創ろうとしていたしのぶ様の姿。それが、少し柔らかく、そして揺らいでいる。

 

「でも、きっと姉さんは、一緒に戦えないことに焦ってる」

 

 夜の鍛錬場を思い出した。駆けつけたときの悲壮な表情。思い返すと、あの姿を見られたくなかったのかもしれない。

 

「……そうかも、しれないですね」

 

 しのぶ様がお茶に口をつける。目の前に広がる庭。少し前まで、毎夜そこで鍛錬をする人影があった。いつの間にか当たり前になり、それが、欠けてしまった。カナエ様は、失ったものを取り戻したくて、今もあの部屋で手を握っているんだろう。そしてしのぶ様は、その現実を誰よりも深く理解している。

 

「……悔しいけど、きっと姉さんには、あの鬼が必要なのね」

 

 何かを手放すような、吐息まじりの呟き。きっと、二人は補い合っていた。力を、知恵を、心を。互いの失ってしまったものを、互いが持っていたのだろうと思う。

 

「でも、姉さんはあげない。私が認めるまで、絶対に」

 

 芯のある声。きっと、ただの妹としてのわがままだ。斎鬼さんが蝶屋敷に来てから、初めて聞いた本音のように感じた。しのぶ様が、熱を持った息を吐いた。

 

「……ありがとう。話は終わり」

 

 立ち上がり、台所へと歩いていく。

 

「私が片付けますよ」

 

 肩越しに、しのぶ様は柔らかく微笑み、そのまま歩いていってしまった。

 

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