あの決戦から、二週間が過ぎた。柱合会議まで二週間余りとなり、鍛錬場から響く踏み込みと風切音は、日に日に鋭さを増していた。
温かい陽気が漂う部屋。目の前の彼は、今だ眠り続けている。体温、呼吸、鼓動。そのすべてが正常で、傷口はふさがっているのに、その目は決して開かなかった。
「……花、散っちゃうわよ」
庭の桜が蕾をつけている。このままきれいな花を咲かせて、やがて散っていくだろう。そうして彼は人の世から取り残され、ひとつひとつ、季節を取りこぼしていく。
手から伝わる体温が、ふっと消えてしまう。その想像が、絶え間なく心を苛む。鼓動がうるさい胸に手をあてる。
「……待ってるから」
体がちぎれるような痛みを伴って、手を離す。重い足を引きずって、あの部屋へと向かう。彼が帰る場所を守るために。手に残る温度を抱きしめたくて、拳を強く握った。
一歩廊下へ踏み出せば、外からは隊士たちの笑い声が共鳴し、庭の花の香りが鼻をくすぐる。陽光を反射して輝く床の上を歩くほどに、光が濃くなるほどに、自身の心の影が浮き彫りにされていくようだった。
「カナエ様!こんにちは!」
「こんにちは。いい天気ね」
庭で訓練していた隊士が、わざわざ挨拶しに来てくれた。その腕には傷痕がある。あの戦いの斬り合いでついた傷だった。
「傷はもう大丈夫?」
「もう全然です!ほら!」
そう言って型を見せる。まだぎこちなさがある。けれど、すぐに飛び越えていくだろう。自分など、置き去りにして。その成長が眩しく、喜ばしい。けれど、あの部屋の自分たちだけが取り残されていく。息が詰まり、無意識に胸元の隊服を握りしめていた。
「ありがとう、良かった。……アオイが呼んでるわよ?」
その言葉にぎょっとした隊士が、頭を下げて戻っていく。アオイに目配せ。苦笑を浮かべ、彼を連れて行った。
柱合会議で、斎鬼くんの作戦を全面展開する。宇髄さんとの策略は、彼の状態によって破綻した。それでも、ただひとつ捨てきれないものがあった。
部屋にたどり着き、扉を開ける。熱のない空気が肌をなでる。古紙の匂いしかなくなったこの部屋は、一人で座るには大きすぎた。
一枚の地図を手に取る。斎鬼くんがいたあの空白。そして、あの日二人で見つけた、東京近郊の希望。そっと指でなぞる。ざらついた感覚の中に、彼の温度が感じられた気がした。
調査は止まっている。それは、斎鬼くんの血鬼術を前提に進める予定だったからだ。でも、その希望も失われた。人を襲わない鬼が、そこにいるかもしれないのに。
息苦しさで、大きく息を吐いた。吸い込んだ空気に、インクの匂いが混じる。慣れたその匂いが、どうしようもなく寂しかった。
廊下から足音が聞こえた。そっと扉が開き、きよが顔を覗かせる。こちらの姿を捉えると、恐る恐るといった様子で部屋に入ってきた。その目が揺れている。
「……カナエ様、正治さんにお手紙です」
その言葉が、また心を抉る。奥歯を噛み締め、痛みをこらえる。どうにか受け取れた手紙には、竈門炭治郎とある。あの、人を守った鬼――禰 豆子ちゃんの家族だ。
衝動に流されるまま封を開ける。中に描かれているのは、近況と斎鬼くんとの思い出。
知らない斎鬼くんの姿が、たくさん描かれている。師としての姿。剣士としての姿。ただ一人の、『人』としての姿。その中の一節が、目に止まった。
――優しい花の匂い。
彼から香ったと記されたそれは、いつかの手紙で彼が感じたと言っていた陽だまりの匂い。そしてそれこそが、斎鬼くんと炭治郎くんの始まりだったのだ、と。
「きよ、ありがとう」
この先の姿を見せたくなくて、震える声を必死で押さえる。きよは何かに気づいたように、そっと頭を下げ踵を返した。
パタンと扉が閉まる。それが、糸を切った。
込み上げる熱が、視界を滲ませる。ポツポツと、手の甲に涙が落ちる。胸の内を一杯に満たす温もりで、息が苦しくなる。彼が生きた証が、自身の存在理由が、こんなところで見つかった。
涙を強くぬぐい、ぼやけた眼下の地図へと向き合う。
「……恥ずかしいところは、見せられないわ」
彼がつないだ希望を、必ずつかみ取る。
足を、薬草と毒の匂いが満たすあの部屋に向けた。
***
「慎重に扱わないと……」
しのぶの目の前には、二つの試験管が並んでいた。一つは、斎鬼自身の血液。そしてもう一つが、彼が狭霧山から送ってきた、禰 豆子という鬼の血液だった。
鬼の血液は、一定温度以下であれば長期保存できた。眉間に力が入る。その生存能力は、憎たらしいほどに高かった。
無惨の血液が、人に与える影響。それを確かめる実験を、今まさに行おうとしていた。機材を準備する。無感情に、硬質な音が響く。万が一にも血に触れないように、机にゴム引き加工された布を引き、自身も羽織る。厳重な対策をした上で、準備が完了した。
シャーレに用意した人の細胞。それが、鬼の、無惨の血でどう変化するのか。その答えを求め、顕微鏡を覗いた。
通常の培養培地で、細胞を記録する。ここからが勝負だ。
斎鬼の血液を滴下する。時計を確認し、その推移を見る。秒針の音だけが部屋を支配する。張り詰めた静寂の中、十分、二十分と経っても、そこに変化はない。小さな変化ひとつ見逃さぬよう、呼吸も忘れ観察する。半刻が経った。ため息をひとつ。実験の計画はここまでだと、シャーレを回収した。
次が本命だ。鬼になったばかりの血液。無惨の血液が最も濃いと思われるそれが、どんな結果をもたらすか。姉さんが信じる、鬼を人に戻す薬。それを実現する種が、見つかるか否か。
わずかに震える手をぐっと掴み、些細な失敗も起こさぬように慎重に滴下する。時計を確認し、シャーレを覗いた。変化は、一瞬だった。
きれいな形をした人の細胞。それが、波のように醜く豹変していく。それが視界を埋め尽くすと、円形の中は地獄と化した。胸の中で綯い交ぜになった感情が、行き場を失っていた。顕微鏡から目を離し、ぼんやりと天井を見つめる。
「……つながったわね」
そう言った自分の声が震えていた。
過去の研究。鬼の細胞を長期にわたって培養したとき、その数が減少していることがあった。理由はわからない。だが、斎鬼が人に戻りつつある事実。そしてこの結果が、理由を指し示しているように思った。
この仮説で、姉さんが少しでも元気になってくれたらいい。そう思って、迅速に、しかし慎重に片付けを行う。思わず口元が緩んでいた。資料を抱え、逸る気持ちを抑えて、廊下へと飛び出る。
――体に柔らかな衝撃。咄嗟に、ぶつかった人影を見上げた。
「あら、しのぶ。慌ててどうしたの?」
そこにいた姉さんだった。目が、わずかに赤い。しかし、昨日までなかった光が確かに灯っていた。きっと、何か良いことがあった。体の力が抜け、ふっと息が漏れる。
「ちょうど、姉さんのところに行こうと思ってたのよ。こっち来て」
そう言って手を取り、部屋に入る。姉さんは、きょとんとした表情で後ろを歩いている。
「それの話かしら?」
抱えた資料を指さした。小さく頷く。机に広げるのは、膨大な実験の結果だ。これから話す内容で、姉さんがどんな表情を浮かべるか。心地よい鼓動を感じながら、口を開いた。
「――人の血を断てば、鬼を人に戻せるかもしれないわ」
姉さんが、凄艶な笑みを浮かべた。