境界の斎鬼   作:eebbi

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萌芽

 朝の鍛錬場。今日もそこでは、舞うような剣技と鋭い突きが咲き乱れていた。しかし、ひとつだけ違うことがある。それは、どこか浮足立った空気が漂っていることだった。

 

 きっかけは数日前。その日、しのぶの元に一通の書状が届いた。その内容を見た瞬間から、今日が待ち遠しくて仕方がなかった。

 木刀を握る手に力が入る。早鐘を打つ心臓の拍子に身を任せ、深く踏み込む。そうして繰り出された突きは容易に捌かれ、姉さんの木刀に、こつんと頭を叩かれた。頭蓋に響く鈍い痛みに、頭を押さえる。

 

「……痛い」

 

「しのぶ、落ち着きなさい」

 

 姉さんが、こちらを半眼で見据えている。そうはいっても、ずっと待ち侘びていたものなのだ。落ち着けという方が無茶だった。

 

「……仕方ないじゃない」

 

 自分でも驚くほど拗ねた声が出てしまった。顔を伏せ、視線だけを向けると、姉さんが嬉しそうに微笑んでいた。その表情は、憑き物が落ちたように翳りがない。そのまま、温かい手がそっと叩かれた箇所を撫でる。

 

「今日はここまでにしましょうか。そろそろ鉄珍さんも来るだろうから」

 

 そう言うと、木刀を片付け始めた。小さく頷き、姉さんの背を追う。ちょうどその時、正面からアオイが走ってきていた。

 

「来たみたいね、しのぶ」

 

 姉さんがまた頭を撫でる。その優しさがむず痒くて、思わず顔を睨んでしまう。

 

「……子ども扱いしないで」

 

 笑みが深くなった。顔が熱い。けれど、決して不快ではなかった。

 冬の寒さがすっかりなくなり、廊下を温かな空気が満たしている。もう少ししたら、窓の外にたくさんの蝶が舞うようになるだろう。そっと、姉さんと色違いの髪飾りに触れる。毎年訪れるあの穏やかな風景。姉さんの隣で眺めるあの陽だまりが、ただただ愛おしかった。

 

 客間の扉が見えてきた。トントンという足音が、高鳴る鼓動に合わせて軽やかに響く。

 姉さんが扉を開ける。部屋の中に、ひょっとこ面をかぶった小柄な翁――鉄地河原鉄珍がぽつんと座っていた。

 

「鉄珍さん、ご足労いただきありがとうございます」

 

「おう。約束の品、届けに来たよん」

 

 鉄珍さんは、姉さんの日輪刀をずっと担当してくれていた人だ。あの夜、姉さんが日輪刀の製作を打診してくれたあと、機構の開発にも協力してもらえることとなった。扱いが難しいからと、わざわざ足を運んでくれたのだ。

 部屋の中央。机の上に置かれた細長い箱。その中に、自分だけの日輪刀が入っている。これがあれば、この手で鬼を殺せる。とめどなく湧き上がる昏い欲望に、笑みが浮かんだ。

 

「ちぃとばかし骨が折れたが、見事なもんができた。さあ、見てみぃ」

 

 取り出された一振りの刀。鞘から滑り出る際の、金属が擦れる涼やかな音。窓から差し込む陽光さえ切り裂くような、鋭い輝きを放っている。

 柄に取り付けられた押釦。鞘にはダイアルがあり、その先端には三か所、九種類の薬品を格納できるようになっている。物打を大きく削ぎ落した形状はすべてを突き穿ち、そこから流れ込む毒は、あらゆる鬼に無様な死を届けるだろう。

 

 ようやく手が届いた、鬼を殺し、姉さんを、蝶屋敷のみんなを守る力。両親を失った絶望、姉さんの見出した希望、そして、揺るがない憎悪。そのすべての終着点がここにある。口元が吊り上がるのを止められず、言葉が漏れた。

 

「……ありがとうございます」

 

 そこからは、使い方を教わり、試し切りを繰り返した。不満などあろうはずがなかった。気付けば数刻が経ち、日昳後の時刻となっていた。

 鉄珍さんは日が暮れる前に帰ると言い残し、屋敷を後にした。その背中に、深く、深く頭を下げる。

 

 その背中が見えなくなった頃。鞘から刀を抜く。これでもう、言い訳はできない。刀身を見つめ、柄を強く握りしめる。ふと隣から、柔らかい、けれどどこか寂しげな声が鼓膜を揺らした。

 

「……良かったわね、しのぶ」

 

 その声に視線を向けると、いつもの優しい微笑みがあった。手の中にある刀は、驚くほどに軽い。けれど、この刃に宿る姉さんの夢と信頼の重さを感じながら、決意を込めて大きく頷いた。

 

***

 

 柱合会議まであと一週間を切った。足を取る沼から抜け出したようにしのぶの剣技は鋭さを増し、鍛錬の末、ついに体が心に追いつき始めていた。

 

 その傍ら、目の前の地図に向き合う。東京近郊の、鬼の出現が明らかに少ない区域。その中に線で描かれた計画と、赤く塗りつぶされた調査完了範囲。

 宇髄さんとの連携により、徐々に調査が進み始めていた。しかしこの進捗では、終わりは遠い先の話だった。

 

「……私も、行きたい」

 

 それが、紛れもない本心だった。ここに斎鬼くんのような鬼がいるのなら、すぐに保護したい。温もりを失い夜闇の底に沈む孤独と、血肉に塗れた壮絶な飢餓から、どうにかして連れ出してあげたい。それに、目覚めたときそんな仲間がいたら、きっと彼は喜んでくれる。あの雪解けのような微笑みが、今はただ恋しかった。

 泥沼な思考を遮るように、入り口が無遠慮に開かれた。

 

「胡蝶姉、地味に調子はどうだ」

 

 いつもの調子の宇髄さんがいた。しのぶとの打ち合わせが終わったのだろう。

 

「おかげさまで。……しのぶの方はどうですか?」

 

 宇髄さんは不遜な笑みを絶やさず、堂々と口を開く。

 

「条件が付くだろうが、そっちは問題ない。お前の指導で、技も派手に良くなってる」

 

 珍しい言葉に、一瞬戸惑った。同時に、心がわずかに熱をもつ。すぐに切り替え、なんとか声を出した。

 

「……ありがとうございます」

 

 肺に溜まっていた空気を吐き出す。すべて順調だ。ただ一つ、この地図の上で赤く塗りつぶされた、静かな空白を除いては。

 宇髄さんがチラリと地図を見た。そして、神妙な面持ちで告げる。

 

「……そいつのことだが、地味に気になることがあった」

 

 そうして差し出される一枚の紙。それは報告書だった。読み進めると、その中の一節に目が留まる。

 

「……開けた場所で、仲間を見失いかけた」

 

 視界の端で、宇髄さんが頷く。

 

「うちの連中が、そんな地味なミスするはずがねぇ」

 

 その言葉に小さく頷く。宇髄さんの部下の高い練度は、よく分かっている。

 

「証拠はねぇが、血鬼術だと踏んでる。仕掛け人は、それで地味な小細工をしてやがる」

 

 仮にそうなら、可能性は相当に狭まる。臆病な鬼か、狡猾な鬼か、それとも、希望の光か。頭を必死で回す。彼ならどう考えるだろうか。あと必要な情報は何か。刹那、ひとつの結論に至る。

 

「……人への被害は、出ていますか?」

 

 きっと、これが核心。額に汗が滲む。微かに差し込む希望に鼓動が高鳴った。鼻を通る古紙とインクの匂いが、わずかに心を落ち着かせる。視線の先。宇髄さんの口を開くまでの時間が、無限のように感じられた。

 

「――その空白ができてから、鬼の被害はほぼゼロだ」

 

 汗が一滴、地図へと落ちる。その音が、やけに大きく鼓膜を揺らした。心臓が激しく動き、その音が外まで響いているような気がした。

 熱を持った吐息が漏れ出る。きっと、そこにいる。彼と二人で見つけた希望が、花を咲かそうとしている。胸を灼く熱い塊を押さえつけるために、羽織を強く握った。

 

「……すぐに。すぐに調査しましょう」

 

 震えそうな声を必死で抑える。湧き上がる衝動を止められなかった。

 

「簡単に言うけどなぁ……。やるなら、ド派手にいくか」

 

 どこか呆れたようなその声に、耳を貸す余裕はなかった。

 

***

 

「そんじゃ、後は手筈通り、派手派手にやってくれや」

 

「わかってます。宇髄さんも、失敗しないでくださいよ」

 

 今後の調査方針が固まり、宇髄さんは夕暮れの道を帰っていった。大きな得がないのに、この屋敷に足を運んでくれることが、ひたすらにありがたかった。

 

 屋敷の中へと踵を返す。そうと決まれば、出発の準備だ。風柱邸までの距離を思い出す。

 

「……この時期なら、三日ってところかしら」

 

 それが、彼の顔を見られない期間。胸に訪れた空洞に促されるように、あの部屋へと足を向けた。

 

 部屋に漂う消毒液の匂い。月明かりが、斎鬼くんの横顔をぼんやりと照らしている。手に伝わる斎鬼くんの体温。温かい、心の氷を溶かしてくれる大切な光。

 

 ――いつまでも地味な面してんじゃねぇぞ。

 帰り際、斎鬼くんに向かって放たれた言葉。宇髄さんらしからぬ、静謐な響きの声だった。

 

 斎鬼くんが掴んだ繋がりが、今もなお、ここに温かな雫を落とし続けている。数週間前まで凍えて仕方なかったこの部屋が、陽だまりのような温もりを取り戻していくようだった。

 

「……斎鬼くん。あの場所に、きっといるわよ」

 

 耳元でささやいた、祈りを込めた言葉。聞こえていないだろうか。探しに行こうなんて言って、起き上がってくれないだろうか。

 

「絶対に見つけるから。一緒に、連れ出してあげましょう?」

 

 節くれだった手を握りしめる。あの時握り返してくれたこの手は、力なく開かれたまま。また少し、力を込める。

 

「……だから、早く起きてね」

 

 部屋を包む温もり。しかしそれは、凍えた心を温めるにはまだ足りなかった。

 

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