その日、風柱邸へ向かうカナエの足取りに、迷いはなかった。
数日後に迫った柱合会議。斎鬼が築き上げた戦術としのぶの柱就任。その二つを鬼殺隊に認めさせるには、周到な根回しが不可欠だった。そしてその鍵は、下弦との戦いに居合わせた不死川くんだ。彼の深い鬼への憎悪が、吉と出るか凶と出るか。この高い壁を、最初に崩さなければ意味がない。
脳裏を、出発の日のしのぶの顔が過ぎる。自分が一人で行くと告げた時の、納得できないと訴える強い瞳。けれど、最近のあの子は変わった。斎鬼くんに対する態度も、以前のような殺気立ったものではない。
どこか突き放したような、それでいて無視できない何かを認めているような、複雑な色を帯びている。
「……心配させちゃってるわね」
それは誇らしくもあり、同時に胸を締め付ける。番犬のように誰彼構わず牙を剥いていたあの子が、守るべきもののために静かに牙を研ぐようになった。その成長が、愛おしかった。
ふと、斎鬼のことを思う。風が新緑の香りを運び、街が春の陽気で活気づくほどに、あの部屋で眠り続ける彼の孤独が際立つようだった。
「……帰ったら、起きてたりしないかしら」
幾度となく泡となって消えた願いが、口をついて出る。彼が繋いでくれた未来を、無駄にはできない。この交渉は、彼が蝶屋敷で生きるための、そして私たちの夢が生き残るための戦いなのだ。
カナエは、懐にある資料にそっと触れた。斎鬼が血を吐くような思いで紡ぎ出した、数多の命を救うための作戦書。これが、今の自分の日輪刀だ。
思考を切り替え、前を見据える。視線の先に、目的地である屋敷の、見上げるほどの木造の門が見えてきた。ひとつ深呼吸をし、心を戦闘のそれへと切り替える。
手に力を込め、重い音とともに門扉を開いた。
その先にある、最も硬く、最も哀しい心をこじ開けるために。
***
客間に、晩冬の澄んだ日差しが差し込んでいる。畳の匂いが部屋に満ちていた。窓の外を見る。稽古で削がれたのであろう、奇妙に曲がった木々や荒れた地面が、どこか威圧的に広がっている。小さく呼吸を整え、こわばる肩をほぐす。その時、正面の扉が無愛想に開かれた。
「不死川くん、お邪魔します。突然ごめんなさいね」
鋭い目つきで、不死川くんがやってきた。真っ先に目に付く体の傷痕。
「……治療しに来てって言ってるじゃない。傷痕、また増えてるわよね?」
不死川くんが視線を外す。そのまま、話題をそらすように口を開いた。
「……何の用だァ。世間話しに来たじゃねぇだろ」
予想通りの反応だ。でも、ここで逃がすわけにはいかない。この無数の傷はきっと、彼の憎悪の深さそのもの。それがいつか彼自身を滅ぼしてしまわないように、少し語気を強めて告げる。
「もう。これからは蝶屋敷に来なさい。返事は?」
決して顔をこちらに向けない。意地を張るその様子に、小さく笑いが漏れてしまった。鋭い視線だけがこちらに向く。ここで、次の手を打つとしよう。
「……おはぎもあるわよ。それならどうかしら」
訪れる沈黙。鳥の囀りが外から聞こえた。時計の針の音が、淡々と部屋に響いている。やがて、不死川くんが観念したように息を吐いた。
「……気が向いたらなァ」
「よろしい」
今はこれで許してあげよう。不死川くんが、畳に胡座をかいた。その仕草がことさら乱暴に見える。懐から書類を取り出す。空気を変えるように、神妙に口を開いた。
「今日来た理由は、次の柱合会議で、不死川くんに協力してもらいたいからよ」
彼がこちらに視線を向けたことを確認して、言葉を続ける。不死川くんなら、この言葉に乗ってくるはず。
「これがうまく行けば、隊士たちの犠牲は大きく減ることになるわ。これ、見てくれるかしら」
資料を渡す。それは、しのぶの実験レポートだ。彼の視線が資料の上で細かく動く。興味は引けている。
「……あなたが駆けつけてくれた、あの下弦との戦い。決め手はしのぶの毒だったでしょう?」
そこで、不死川くんが不快そうに眉を顰める。しかし、何かを押し殺すように口を歪めていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「……ああ、妙な注射で死んでたなァ」
小さく息を吐く。これを見ていなかったら、計画が大きく変わるところだった。しかし、ここからが本題だ。資料を持つ指に力が入る。
「ええ。……この毒の開発で、しのぶを柱にしたいの。あなたも、賛成してくれないかしら?」
鋭い視線に射抜かれる。その口が、即座に反論に動いた。
「実力がねぇ奴は、柱に相応しくねェ。それだけだ」
間髪入れず小さく頷くと、用意していた案を提示する。
「その通りよ。だから、柱合会議の場でそれを判断してあげてほしいのよ」
不死川くんの視線が、遠い何かを探すようにわずかに揺らぐ。その先にあるものはきっと、過去の喪失。だが、反論する理由はないだろう。これが、最後の一押し。
「……あの子、みんなを守りたいって、本当に頑張ってるの。だから、お願いできないかしら」
本心からの言葉。それを告げて頭を下げる。数瞬の間が流れ、小さく息が漏れる音が聞こえた。
「別に、反対する理由はねェ」
「……ありがとう」
第一段階は済んだ。だが、本当の勝負はここからだ。バレないように、ゆっくりと息を吸う。
「話はこれで終わりかァ?」
「いえ、もう一つあるわ」
日が遮られ、不死川くんの顔に影が差す。発した声は震えていない。訪れるであろう拒絶に耐えられるように、羽織を左手で握りしめた。もう一方の手で、一冊の書類を差し出す。
「この戦術立案を、鬼殺隊の標準にしたいのよ」
訝しげな視線。だが、書類に目を通す内に、その表情が抜け落ちていった。奇妙な変化に、手が汗ばむ。部屋に、乾いた紙をめくる音だけが響く。その一つ一つの音が、自分の心臓の音と重なるようで、息が詰まった。
半分ほど読み進めたところで、不死川くんが顔を上げた。その表情は未だ読み取れない。
「……これを、あの鬼が考えたってことだろォ」
息が止まる。それを見抜いているとは思っていなかった。しかし、低く唸るような声には力がない。
「……ええ、そうよ。……彼が考えてきた戦術は、たくさんの隊士の命を救ってきた」
その言葉に、不死川くんの表情が初めて歪む。これだ。きっとここが争点になると判断し、言葉を重ねる。
「隠の情報網があれば、過去の事案の情報があれば、この精度はもっと上がるわ」
わずかに息を吸い込む。雲に隠れていた太陽が再び顔を出し、部屋を明るく照らした。震えも、凍えも、もうなかった。
「彼の想いは、みんなを救うの。だから、どうか協力してもらえないかしら?」
そう言って、また頭を下げる。額を汗が伝う。温度のわからない沈黙が部屋を包み、斬首の刻を待つような怖気を抱かせる。不死川くんが、小さく呟いた。
「なんで、あの鬼にこだわる」
そこには、憎悪も怒りもない。ただ、純粋な問いかけ。脳裏を過ぎる、斎鬼くんの頑張り。絶望的な孤独を乗り越え、ついに願いを見つけた、あの微笑み。心が、口を動かしていた。
「――彼が、人だからよ」
言葉足らずだと内心自嘲する。でも、これがすべてだった。そして、斎鬼くんを憎むからこそずっと見てきた不死川くんなら、きっとこの意味が分かるはずだと、そう願っていた。
不死川くんが、隊服を握りしめていた。その瞳は戸惑うように揺れている。やがて、諦観したように深く息を吐いた。固く目を瞑り、声を絞り出す。
「……勝手にしろ。もう、邪魔はしねェ」
そう言うと、斎鬼くんの作戦書を持ち、部屋を出ていこうとする。その背中が、常よりも少しだけ小さく見えた。ふと、あの日の柱合会議の後に見た、空っぽの背中と重なる。気づけば声をかけていた。
「不死川くん!……ありがとう」
一瞬立ち止まり、しかし返事をせず部屋を出ていった。胸元の羽織を強く握りしめる。全身を熱い血が駆け巡り、手がわずかに、歓喜に震える。
「斎鬼くん、やったわよ……!」
窓の外の空は、雲一つない晴天になっていた。