境界の斎鬼   作:eebbi

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必勝

「姉さん!準備できたわ!」

 

 朝。蝶屋敷にしのぶ様の声が響く。隊士の声も、鳥の鳴き声もいつもと同じ。しかし、今日は少し慌ただしかった。今日は、ついにやってきた柱合会議の日だ。

 カナエ様が、奥の廊下から駆けてくる足音が聞こえた。抱えた鞄には、何かの書類が入っている。

 

「お待たせ。行きましょうか」

 

 その顔に浮かぶ、柔らかな笑み。あの日見た翳りは振り払われ、その顔には春めいた陽だまりが戻ってきていた。

 

「こちら、お作りしました」

 

 道中で食べてもらおうと作ったおむすび。カナエ様の笑みが深まる。その後ろから、しのぶ様が顔を出した。その顔に少し緊張した笑みを湛え、口を開く。

 

「ありがとう、アオイ」

 

 その言葉に、小さく頷いた。玄関の外に見える、花を咲かせ始めた桜。三冬尽きて、ようやく春がやってきた。口元が緩む。視界の端のカナエ様が、悪戯めいた笑顔を浮かべた。

 

「折角だから、桜、見ていきましょうか」

 

 その時、屋敷の奥から一人の足音。目を向けると、カナヲのものだった。

 

「カナヲも一緒にどう?」

 

 カナエ様の言葉に、カナヲは何も言わず着いてきた。

 また今年も、たくさんの蝶が舞っている。ここに置いてもらったあの日から、変わらない光景。柔らかな花の香りが庭を包み、降り注ぐ春先の日差しが心地よく熱を届ける。

 向かう先にあるのは、一際大きな一本の桜の木。カナエ様が、優しく幹に触れる。

 

「この桜の木はね。初代花の呼吸の剣士が植えたものなのよ」

 

 カナエ様の視線が、一瞬屋敷に向く。その視線に宿る祈り。その方向は、斎鬼さんの眠るあの部屋だった。

 

「名前は、『必勝』よ」

 

 無意識に、手に力が入る。しのぶ様が、はっと息を呑んだ。そして、ぽつりと呟く。

 

「絶対に勝とうね、姉さん」

 

 カナエ様の瞳に強い火が灯る。そのまま力強く頷いた。

 

「そろそろかしら。……行ってくるわね」

 

「……お気をつけて。お帰りを待ってます」

 

 カナヲと一緒に頭を撫でられる。その心地よさに身を任せていると、ふっと温もりが離れた。春の陽気が注いでいるのに、そこから微かに熱が逃げていく。

 徐々に遠のく、大きな二つの背中。不安を押し殺し、踵を返す。カナヲは、木刀を持って鍛錬場に歩いていった。

 斎鬼さんが眠るあの部屋を見つめる。きっと今も、迫りくる死と戦っている。

 

「……『必勝』ですよ、斎鬼さん」

 

 そう言って視線を外した時。屋敷から大きな声が響いた。

 

「――訓練の時間です!」

 

 また、いつもの喧騒と向き合う時間だ。ため息を吐き歩き出す。雲ひとつない空に輝く太陽が、屋敷を明るく照らしていた。

 

***

 

 産屋敷邸の庭。藤の香りが漂うそこを、張り詰めた空気が支配している。半年に一度だけ開かれる柱合会議。今回もまた、一人も欠けることなく全員が集まることとなっていた。

 

「冨岡くん、あの時はありがとうね」

 

「……言われたことを、やっただけだ」

 

 それでもと、いつもの笑みを浮かべた姉さんが、冨岡さんに話しかけている。竈門兄妹のことだろう。すっかりいつも通りの様子に、顔が緩んだ。

 見渡すと、集まっているのは五名。宇髄さんと不死川さんはまだのようだ。慣れない雰囲気に居心地の悪さを感じていた時、庭にひとつ声が響いた。

 

「柱合会議に、なぜ柱ではない人間がいる?」

 

 木の上に座っている男――蛇柱、伊黒小芭内。新しく就任した柱だ。その視線の先にいるのは、姉さん。

 

「うむ!元柱とは言え、規律は守るためにある!皆が心を一つに戦うためにな!」

 

 炎柱――煉獄杏寿郎が言葉を重ねた。一瞬、姉さんの柔らかな笑みが、古傷を抉られたように微かに歪んだ。

 

「――上弦と戦ったこともない人間が、口を出さないでください」

 

 自分が総毛立つほどの怒気を孕んだ声。気づいたら、日輪刀を握っていた。反応した蛇柱の不快な視線が、こちらを捉える。

 

「柱ですらないお前が口を出すな。……お館様の許可を得ているんだろうな?」

 

「もらったに決まっているでしょう。……今に見てなさい」

 

 柄を握った手が怒りに震える。姉さんの心を、覚悟をを傷つけたその喉を、この憤怒の刃で引き裂いてやりたかった。その時、手に何かが触れる。

 

「……しのぶ、ありがとう。私は大丈夫よ」

 

 姉さんが手を握っていた。その温度が、憎悪に燃える頭を一気に冷やす。深く息を吐いた。

 

「伊黒さん、煉獄さん、お邪魔してごめんなさいね。少し、話があるのよ」

 

 凛とした、包み込むような声。それに矛先を失ったように、蛇柱が黙り込んだ。そのザマに胸が空く。

 

「なんだ、随分地味な空気じゃねぇか。俺がもっとド派手にしてやるよ!」

 

 神妙な空気が包む庭に、すっかり聞き慣れた、場違いな声が響いた。不遜な物言いとは裏腹に、その目には推し量るような色が宿っている。誰ともなく顔を見合わせ、沈黙する。宇髄さんが、珍しく口を噤んだ。

 

***

 

「おはようみんな。今日も、いい陽気だね」

 

 安らぎを与える不思議な声が、産屋敷邸の空気に溶けていく。そこに佇むのは、鬼殺隊の最高責任者――産屋敷輝哉。その前で跪きながら、カナエは頭上から響くその声を聞いていた。庭を満たしていた鋭い空気が、穏やかに絆されていく。

 

「今回もまた、誰も欠けずに柱合会議を迎えられたこと、嬉しく思うよ」

 

 痣が以前より広がり、痛々しく右目を覆っている。その視線が、柔らかくこちらを見つめた。

 

「カナエも、つつがないようで安心したよ」

 

 包み込むようなその声に、この先で待つ戦いへの緊張が、わずかに解けていく。思わず、ふっと息を吐いた。

 

「お館様におかれましても、御壮健で何よりです」

 

 肩がこわばり、声が喉に詰まった。しかしその言葉に、お館様が小さく頷く。それを合図に、微かに厳かな空気をまとう。そして、本題を切り出した。

 

「今日は、いくつか重要な議題があるんだ」

 

 隣に座るしのぶが、唾を飲んだ。手に力が入っている。密かに目を向けると、視線が交わった。微かに揺れる瞳に、微笑みかける。しのぶが目元を緩め、大丈夫と無言で口を動かした。

 

「一つ目は、先日あった下弦との戦いについてだ。カナエ、お願いできるかな?」

 

 返事をして、立ち上がる。用意するのは、斎鬼くんとともに作った地図と作戦書。蝶屋敷の安全を、彼の未来を、ここで切り開く。

 配った資料に視線が向いたのを確認し、口を開く。

 

「先月、蝶屋敷の管理区域で、下弦の弐との戦闘がありました」

 

「よもや!しかし、柱がいないはず!隊士たちに犠牲は出なかったのか!」

 

 その言葉に、完璧な反応だと内心笑みを浮かべる。

 

「犠牲者はゼロ名です。その要因が、配った地図と作戦でした」

 

 あの日、彼と徹夜で考えた渾身の作戦。今もなお胸を深く抉り続けている、この作戦が彼を殺しかけた事実を、書類を持つ指に力を入れ、無理やり押さえつける。

 

「それは、蝶屋敷に住んでいる隊士の斎鬼くんが考えたものです」

 

 空気が凍る。斎鬼、その名前が、肌を焼くほどの緊張を押しつけてきた。隊服を強く握り、こらえる。

 

「例の元下弦か。鬼の言う事を鵜呑みにするとは、愚の骨頂だな」

 

 嘲るような声。彼のすべてを否定するかのように続けた。

 

「そうやって何人が死んだ。鬼の言葉など、俺は信じない」

 

 視界の隅で、しのぶが視線を鋭くする。そっと羽織を握り口を開こうとしたその時、悲鳴嶼さんが口を挟んだ。

 

「伊黒、お前の疑念は正しい。……しかし、斎鬼の在り方はあの日、この場所で示された。それもまた、心せねばなるまい」

 

 沈黙が落ちた。敵意、憎悪、端倪。好意的ではない視線が、今も残る背の古傷を抉るようで、微かな痛みが走る。彼を知ってくれれば、きっと分かってもらえるのに。そんな無意味な思考が、脳内を闊歩していた。心の出血でできた泥濘を振り切り、わずかにこわばる口を開く。

 

「下弦の弐との戦闘では、しのぶの開発した毒がとどめになりました」

 

 不死川くんに目配せする。その視線を受け、思い出したくないかのように、重い口を開いた。

 

「……本当の話だァ。胡蝶の毒で、下弦は死んだァ」

 

「よもや!下弦を滅ぼす毒があろうとは!素晴らしいな!」

 

 しのぶが少し頬を緩めた。その表情が、口を開く力を与えてくれる。

 

「隠の偵察をもとに、彼と私で考えた作戦を使用した戦闘での死者は、今だゼロです」

 

 浅い呼吸を整える。額を汗が伝った。次第に上がる心拍数を飲み下す。反応を見る余裕などとうに失われていた。

 

「この作戦の立案を、全面展開させていただきたいです。それが、隊士たちを守る力になります」

 

 頭を深く下げる。言い切れた。しかし、頭が上げられない。その先に待つ視線が彼を否定することに、耐えられなかった。

 

「……それを信用する材料がどこにある。それで隊士が死んだなら、どう責任を取る」

 

 歯を食いしばり、ゆっくりと体を起こす。伊黒さんの視線を受け止める。そこに燃える憎悪の炎。きっと、自身の言葉は届かない。

 

「これは、テメェらみてぇな才能を持ってねぇ奴らが、地味に死なねぇための作戦だ。犬死にする確率が下がるってんなら御の字だろうが」

 

 宇髄さんが強い口調で告げる。押し切らないといけない。口を開こうとした、その瞬間だった。

 

「斎鬼は希望になる。そう、鱗滝殿から書状が届いている。……実際に隊士の救われた話を、伊黒も知っているだろう」

 

 悲鳴嶼さんの静謐な声。懐から書状を取り出した。涙を流しながら、言葉を重ねる。

 

「人を助け、罪を償おうと足掻くのならば、それを見届けるのもまた、我々柱の役割かもしれぬ……」

 

 紛れもなくそれは、斎鬼くんの在り方を認める言葉だった。

 その時、隣から、息を詰める気配がした。視線を向けることはできない。けれど、不死川くんの隊服が硬く握りしめられ、その指の関節が白んでいるのが分かった。

 顔に刻まれたおびただしい傷痕が、何かと戦っているかのように、常よりも深く、禍々しい影を落としている。その肩が微かに上下していた。誰もが次の言葉を待つ重い沈黙の中、風が彼の白髪を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえた。

 

「……ソイツの策は、使える」

 

 不死川くんが口を開いた。その瞳に浮かぶ綯い交ぜになった色。過去の痛みを思い出すように顔を歪ませ、次の言葉を躊躇うように口を震わせ、しかしはっきりと、言葉を続けた。

 

「あの山の戦い方は、間違いなくこれだった」

 

 その視線がこちらを捉える。やがて、顔を背けながら告げた。

 

「……力のねぇ隊士どもの中には、これで助かるやつも出るだろうよォ」

 

 そう言うと、不死川くんの手が僅かに緩んだ。再び訪れる沈黙の中、風が藤の香りを運んでくる。かつて、彼との待ち合わせの合図だった香りに、そっと胸に手をあてる。前に進むほど、彼の努力が、願いが、結実していく。鬼殺隊に根付いた憎悪が、揺らいでいた。

 

「話はまとまったかな。まずは弱い鬼から試してみるのがいいと思うけど、どうかな」

 

「悪鬼を滅し、隊士の命を救うと言うのなら、何も言うまい!」

 

 伊黒さんは、眉を顰めながらも口を固く閉ざしている。こわばっていた肩から、力が抜けた。

 

「カナエ。蝶屋敷に、隠の管理を任せようと思う。情報収集もしやすくなるだろう?」

 

「……はい。ありがとうございます」

 

 深く頭を下げる。ようやく、彼の居場所がひとつ出来た。しのぶに視線を向けると、覚悟のこもった瞳で、小さく頷いた。 

 

***

 

 産屋敷邸の庭の空気が、わずかに緩んだ。春の風が木々を揺らし、鳥の羽ばたきが鼓膜を震わせる。

 姉さんの戦いが終わった。次は、自分の番だ。しのぶは覚悟を込めて、手を握りしめた。

 

「次の議題は、新しい柱についてだ。カナエからあった毒の成果も含めて、胡蝶しのぶを柱にしたいと考えている」

 

「毒の発明は素晴らしいことだ!しかし、実力不足の者が柱となれば規律に関わる!そうだろう、胡蝶!」

 

 間髪入れず答えたのは炎柱。その視線はこちらを推し量ろうとしている。

 

「そうだね杏寿郎。しのぶは条件を満たしていない。しのぶ、お願いできるかな?」

 

 返事をして立ち上がる。やるべきことは一つ。この場で、自身の力が柱に値することを示す。鬼を殺す毒、そしてこの剣で。本当の仕事は、ここからだ。

 

「今ここで、私の力を見定めていただきたいです」

 

 すでに、手は回してもらった。だが、柱の名に値するかは、この剣で証明するしかない。揺るがない大岩のような厳かな声が空気を揺らした。

 

「……いいだろう。皆も、文句はあるまい」

 

 悲鳴嶼さんが背を向け歩き出した。それを横目で見ながら、木刀を取り出し握りを確かめる。正面の庭に降り立ち、中央へと歩いた。

 一歩一歩、大きくなる鼓動。髪を揺らす心地よい風を感じる。そっと、髪飾りに触れた。

 

 瞳を閉じ、震える呼気を整える。新緑の香りが鼻を通る。春の陽気が、体を温めた。そして目を開き、正面に立つ悲鳴嶼さんを鋭く睨む。あの日、私たちを助けてくれた姿。そのあまりの大きさに、わずかに気圧される。

 

 足を強くつねる。ここで負けたら、姉さんの、宇髄さんの、認めるのは癪だが、あの鬼の努力を無駄にすることになる。鬼を殺す力を、示さなくてはいけない。

 

 深く息を吐き、肺を空にする。冷たい木刀を、柔らかく、しかし強固に握る。足の裏に加わる重心を感じ取り、爪先に力を込めた。

 

「行きます」

 

 視界が狭まる。鋭く呼吸。敵を捉え、深く踏み込む。

 

 ――蟲の呼吸、蜂牙ノ舞 真靡き

 一撃必殺の突き。だが、容易にいなされる。返す刃を捌き、離脱。三間先の悲鳴嶼さんを見据える。まるで大きな川の流れに小石を投じるように、手応えがなかった。不甲斐なさに、唇を噛む。ダメだ、頭を冷やせ。この間合いからの踏み込みは危険。姉さんから教わったことだ。

 

 悲鳴嶼さんは動かない。見定めようとしているのだろう。その圧倒的な存在感を前に、呼吸が浅くなる。木刀を握りしめ、弱さを殺す。胸を借りるつもりで、すべてを出し切るしかない。

 汗で湿る柄を握り直す。後ろ足を引き付け、再び間合いを詰める。懐から六連撃。しかし、それすら弾かれる。腕が痺れるほどに、重い。些事と切り捨て、間合いを取り、再度接近する。

 

 幾度となく響く硬質な音。渾身の突きは大樹を小枝で叩くかのように手応えがなく、掠る気配すらない。奥歯を強く噛み締める。絶対に一矢報いる。そう誓ったのに。

 

「……負けて、たまるか」

 

 再び、距離を取る。肺が悲鳴を上げ、心臓が肋骨を叩く。これから繰り出すのは、まだ完成には程遠い、諸刃の剣。だが、使わずして負けたら、背中を押してくれたみんなに顔向けできない。息を深く吸い込み、地を蹴る。

 

 ――蟲の呼吸、蜈蚣ノ舞 百足蛇腹

 視界がうねった。上下左右など存在せず、地面、木々、屋根を飛び回る。敵の目が、まだこちらを捉えている。加速。足が、わずかに軋む。鋭い痛みを噛み殺し、背後に回る。刹那、深く踏み――。

 

 軽い音とともに、木刀が弾かれた。

 膝が崩れ落ちる。届かなかった。託された信頼を、この手で裏切ってしまった。呼吸が荒れ、視界が滲む。手のひらに爪が食い込み、鋭い痛みが走った。無様な敗者にはお似合いだ。

 その時、頭に大きな手が置かれた。 

 

「素晴らしい剣技だった、しのぶ。……これでもなお、実力を疑う者はいるか?」

 

 悲鳴嶼さんの柔らかい声が響いた。屋敷を見る。皆が、称えるような視線でこちらを見つめていた。滲んだ視界で姉さんを探す。視線が合った。陽だまりのような笑みで、大きく頷いた。肩の力が抜ける。抱えきれない重荷を下ろすように、深く息を吐いた。

 

「……やっと、届いた」

 

 震えた声が、小さく漏れ出た。

 

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