反応をいただけるのは嬉しいですね。
その夜もまた、蝶屋敷が眠りにつく頃、胡蝶カナエは自室の闇の中でひとり、座していた。日中の喧騒が嘘のように静まり返った屋敷に、自身の心臓の音だけがやけに大きく響く。染みついた薬草の匂いが救えなかった命の記憶を呼び起こさせ、ずしりと重く空気に沈んでいた。
あの日、あの鬼と約束を交わして以来、それはカナエの夜の習慣となっていた。繰り返される儀式のように、彼女は文机の引き出しに手を伸ばす。指先が触れた桐の小箱は、夜の空気を含んで氷のように冷たい。蓋を開ける。現れた母の形見の簪は、障子から差し込む月光を吸い込んで、青白い燐光を放っていた。
母の形見であるこの簪に触れることで、彼女は自らの覚悟を夜ごと問い直すのだ。そっと摘み上げると、指先に纏わりつくような冷たさが、彼女の呼吸を浅くする。
この冷たい感触の向こう側に、確かに母の温もりがあった。脳裏で蘇る優しい声と笑顔が、胸の奥を鋭く刺す。胃の腑が凍るような感覚に襲われ、か細い息と共に言葉が漏れた。
「父さん、母さん……ごめんなさい」
声は、震えていた。簪を握りしめる指の関節が、血の気を失って白くなる。視線は、部屋の隅に置かれた長持へと縫い付けられた。あの箱の中。鬼を滅するための鋼が、主を待たずに眠っている。それを、鬼に渡す。覚悟は決めたはずなのに。毎夜、それが揺らぐ。
「私は……あなたたちの仇である鬼に、力を与えようとしています」
この手は、しのぶを守り、導くための手だ。鬼殺の剣を振るうための手だ。それなのに、あの男の『悲しい目』が脳裏をよぎるたび、この手は迷ってしまう。
一体でも多くの鬼を滅し、誰にも自分たちと同じ思いをさせない。そう約束したはずなのに、自分は鬼に肩入れしようとしている。
「私の夢は、あなたたちの無念を踏みにじることに…なるのでしょうか」
これは、あまりにも危険な賭け。あまりにも身勝手な願いだ。簪を持つ手がわなわなと震え、彼女はそれを小箱へと叩きつけるように戻した。カタリ、と乾いた音が、彼女の決意のように響いた。やめてしまおう。明日、彼に会ったら、この話はなかったことに、と。
そう決意したはずなのに、足は長持から離れない。
脳裏に蘇るのは、厳しくも優しい父の声だった。大きな手に撫でられながら聞いた言葉。
『いいか、カナエ、しのぶ。重い荷に苦しんでいる人がいれば半分背負ってやれ。悲しんでいる人がいれば、その心に寄り添ってやりなさい』
固く閉じた瞼の裏に、あの男の姿が灼きつくように浮かび上がる。稽古の中で見せた、鬼の膂力とは裏腹の、あまりにも人間的な剣筋。そして、自らが犯した罪の記憶に苛まれ、苦悶に眉を寄せる横顔。
「父さん……あの人は……まさしく、罪という重い荷を背負い、苦しんでいる人でした」
鬼殺隊士として、鬼は斬らねばならない。けれど、父の娘として、苦しむ者を見過ごすことなどできない。
「もし」
握りしめていた拳から、ゆっくりと力が抜けていく。
「もし、あの人が変われたなら。この憎しみの連鎖を、あの人が終わらせてくれるのなら…それこそが、本当の意味で、あなたたちの魂を救うことになるのかもしれない…」
カナエは、張り詰めていた息を、長く、細く吐き出した。震えは、まだ止まらない。けれど、その瞳には先程までの迷いを振り払うような、悲壮な光が宿っていた。
静かに立ち上がり、長持へと歩み寄る。足袋に包まれた足裏が、一歩一歩、畳の感触を確かめる。冷え切った長持の蓋に手を置く。この蓋を開ければ、もう後戻りはできない。しのぶを、仲間たちを、そして天国の両親を裏切る道かもしれない。
「けれど、私は進みます。父さんの娘として」
ギィ、と重い音を立てて蓋が開かれる。それは、彼女が新たな運命の扉を開いた音でもあった。
月は何も語らず、その後戻りのできない選択のすべてを、青白い光で照らし続けていた。
***
次の三日月の夜、斎鬼は約束の場所である古い社の境内で、静かにその時を待っていた。
夜の闇は、彼にとって慣れ親しんだ揺りかごのようなものだ。だが、今夜ばかりは、その闇がひどく落ち着かなかった。
やがて、森の奥から、ふわりと花の香りが漂ってくる。胡蝶カナエだ。彼女は、月明かりの下に静かに姿を現すと、その手に携えていた一本の刀を、斎鬼へと差し出した。
「約束のものよ」
それは、カナエがかつて使っていたという、古い日輪刀だった。鞘も鍔も、彼女が今使っているものと比べれば簡素だが、その刀身からは、使い手の練度を示す静かな気迫が感じられた。
斎鬼は、黙ってその刀を受け取った。
鬼である自分の手が、鬼を滅するための刃を握る。その矛盾に、指先がわずかに震えた。何年も忘れていた、鉄の冷たさと重みが、ずしりとのしかかるようだった。
「……礼は言わん」
「ええ、これは取引だもの」
カナエは、穏やかに微笑んだ。
その日から、二人の密やかな稽古が始まった。
稽古は、斎鬼が想像していた以上に過酷なものだった。初めて握る日輪刀は、手斧や手刀とは全く違う重心と間合いを持つ。闇雲に振るうだけでは、ただの鉄の板を振り回しているのと変わらない。
斎鬼は即座にそれを理解すると、我流を捨て、カナエの動き、その呼吸、足の運び、筋肉の躍動、その全てを網膜に焼き付けることに徹した。
数合、木刀で打ち合っただけで、斎鬼はカナエとの間に存在する、埋めがたいほどの実力差を痛感させられた。それは単なる剣技の巧拙ではない。動きの根源にある、力の生み出し方そのものが、鬼である自分とはあまりにも異質だった。
この差を埋めなければ、無惨は愚か、下弦の頸にさえ到底届かない。
長い沈黙の後、斎鬼は日輪刀を握る己のプライドを、奥歯で噛み砕くように口を開いた。
「……カナエ」
その声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「お前たちが使う『呼吸』とは何だ。それを知らなければ、俺はいつまで経ってもお前の足元にも及ばない。……教えてくれ」
教えを乞う。鬼が、鬼狩りに。
その真摯な問いに、カナエは悪戯っぽく笑うでもなく、静かに頷いた。
「ええ、いいわよ」
彼女は刀を鞘に収めると、ゆっくりと、丁寧に語り始めた。
「私たちは、特殊な呼吸法で肺を大きくして、血中に大量の酸素を取り込むことで、人間の身体能力を極限まで引き上げているの。それは、一撃の威力を高めるだけでなく、技を繰り出す際の力の消耗を最小限に抑える技術でもあるわ」
斎鬼は、その言葉を一言も聞き漏らすまいと、全神経を集中させた。身体能力と体力の向上、そして、呼吸には適性があること。カナエが語るその理論を、鬼である自らの肉体に当てはめて思考する。
――血中の酸素量……それに、適性。
人間と鬼では、体の構造が根本から違う。だが、身体能力はもちろん、呼吸によって再生を促進、あるいは制御できるのではないか。
人を喰らわぬ彼にとって、最大の課題は常に「力の消耗」だった。もし力の消耗を抑えつつ、再生速度を飛躍的に高められるなら、その効果は大きい。
「やってみよう。見様見真似だが」
「あら、言うのは簡単だけど…」
カナエに指導を受けながら、「花の呼吸」の基本の型を再現しようと試みる。深く、長く、息を吸い込み、全身の隅々にまで酸素を行き渡らせるイメージ。
次の瞬間、彼の身に異変が起きた。
「――っ、ぐ、がっ…!?」
ゴボリ、と喉の奥で何かが沸騰するような音がした。
全身の血管が脈打ち、肺が焼かれるように痛む。視界が揺れ、日輪刀を握る腕が痙攣し、足元がおぼつかない。
「斎鬼くん!?」
カナエの鋭い声が飛ぶ。
「馬鹿!無理に合わせようとしないで!あなたの体は人間とは違うんだから!」
カナエに言われるまでもない。力の消耗を抑えるどころか、これでは夜明けを待たずして自滅する。斎鬼は即座に呼吸をやめ、再生に努めた。ぜいぜいと肩で息をしながら、彼は己の浅慮を呪う。
そうだ、この体は、人間ではないのだ。常人が扱うには強大すぎる力を、さらに増幅させようとすれば、器そのものが内側から破壊される。あまりにも単純な理屈だった。
「…どうやら、鬼の体には向いていないらしい」
自嘲する斎鬼に、カナエは静かに首を振った。
「そうじゃないわ。きっと、あなただけの呼吸を見つけなければならないのよ。私の真似をするんじゃなく、あなたのための呼吸を」
その夜は、それ以上の稽古にはならなかった。
独り、ねぐらの廃寺に戻った斎鬼は、壁に背を預け、苦悩の底に沈んでいた。
カナエの言うことは正しい。だが、『自分だけの呼吸』とやらが一体何なのか、皆目見当もつかない。焦りが彼の心を蝕んでいく。
思考の袋小路に迷い込んだ彼の脳裏に、ふと、遠い日の記憶が蘇った。人間だった頃、父に連れられて初めて冬の山に入った日のことだ。
『いいか、正治。大熊を仕留める猟師はな、熊のように吠えたりはしない』
雪を踏みしめながら、父は静かに言った。その吐く息は白い。
『獲物に見つからないよう、気配を殺し、音を殺す。息を潜め、何日だって待ち続ける。そして、機が来るその一瞬に、全ての命を叩き込むんだ。俺たちの猟は、そういうもんだ』
――凪いだ水面のように息を潜め、一瞬に全てを懸ける。
そうだ。カナエの「花の呼吸」は、常に体内で力を循環させ、舞うように戦い続ける、華やかで持続的な呼吸だ。だが、自分に求められているのはそれではないのかもしれない。
鬼の気配を殺し、闇に溶け、再生と潜伏に特化し、ただ一度の好機を待つ。そして、その一撃に、己の全てを懸ける。
――それが、俺に最も適した戦い方ではないか?
***
前回の密会から、一月ほど経ったある夜。斎鬼は、再びカナエの前に立っていた。
「カナエ。もう一度、打ち合ってくれ」
「…何か掴めたの?」
「ああ。きっと」
木刀を構え、二人は静かに対峙する。
カナエが動いた。花の呼吸、弐ノ型・御影梅。流麗な舞から繰り出される連撃が、斎鬼に襲いかかる。
防戦一方。だがその中で、好機を待ち続けていた。
――ここだ。
連撃と連撃の間隙。カナエが息を吸う一瞬。斎鬼は大きく息を吸い込み、直後、体が爆ぜた。
蓄積した全ての力を、足の裏から腰、肩、そして腕へと一気に伝達させる。踏み込んだ足の骨が砕け、筋繊維が引きちぎれる。
それはもはや剣技ではない。父が斧を振り下ろしていた、あの無骨で合理的な一撃。その刃が、カナエの木刀の芯を、完璧に捉えていた。
お互いの木刀が、半ばからへし折れている。
カナエは信じられないものを見るように、目を見開いて立ち尽くしている。
「…今のは…」
その言葉と同時に、斎鬼の目がくらみ、足の力が抜ける。
足元が、口から吐いた血で濡れていた。
「大丈夫!?」
「……まだ、負担が大きいか」
「もう…しばらく、それ使うのは禁止よ」
それはまだ、完成には程遠い荒削りな技だった。しかし同時に、着実な前進を示していた。
***
斎鬼の再生の後、稽古はお開きになった。
片付けをしながら、カナエが呟いた。
「それにしても…あなたのその目、不思議ね」
「どういう意味だ?」
「さっきの稽古、まるで、私の動きが先に見えてるみたいだった」
さすがの観察眼だと、斎鬼は内心舌を巻く。
「…血鬼術だ。お前の殺気を読んでいる」
「あら、殺気など向けていませんよ」
カナエは、悪戯っぽく笑う。
斎鬼はふと考えた。彼の血鬼術は、相手の攻撃の「兆し」を読むものだ。これまで、それを単純に「殺気」だと解釈してきた。鬼も鬼狩りも、誰もが剥き出しの殺意を放っているものだと。
だがたしかに、目の前の柱からは、その種の禍々しい気配がほとんど感じられない。ならば、俺が感じ取っているこの「兆し」は、一体なんだ?
***
「聞いたか?『同族狩り』の話」
「ああ、人を助け、同族を狩る鬼がいるという、あの噂か」
「馬鹿馬鹿しい。鬼は鬼だ。人を助けるはずがない」
風柱・不死川実弥は、その報告を聞くなり、顔に青筋を浮かべて怒鳴り散らした。
「ふざけた鬼がァ!鬼が鬼を狩るだァ?そんな戯言を信じる奴がいるのか!見つけ次第、俺が頸を斬ってやる!」
彼の激昂は、多くの隊士たちの総意でもあった。鬼は、憎むべき敵。それ以外の何物でもない。
その噂が、自分たちのすぐ近くで起きている現実の出来事だとは、知る由もなかった。