境界の斎鬼   作:eebbi

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陽だまりと影

 月が照らす静謐な街路。そこに、調子の良い足音が二つ響いていた。藤の香りが漂い始め、二人の瞳が輝きを強める。

 

「姉さん、やったわね!」

 

 その表情は、常では考えられないほど溌溂としている。カナエの手を握り、腕を気持ち大きく振りながら歩く。視線は力強く、真っすぐ前を向いている。

 

「ええ。頑張ったわね、しのぶ」

 

 そう言ったカナエも、どこか浮足立った雰囲気を醸し出している。高鳴る鼓動そのままに、軽やかに歩を進める。その視線は月に固定され、懐かしむように目を細めた。

 

 二人の先に、蝶屋敷の門が見えてきた。やっと、いい報告ができる。しのぶの足が、また少し速まる。それがいつか、駆け足になっていた。

 

 門の前、繋いだ手は離れない。互いの顔を見つめる。笑みを浮かべ、小さく頷いた。

 寝ている子たちを起こさないように、ゆっくりと門扉を開く。顔を覗かせ、二人が玄関の方向を見た。そこにある五つの人影。それらが二人の姿を捉えると、我先にと駆け寄ってきた。

 

「お帰りなさい!」

 

 アオイが目を輝かせ、歓声を上げた。しかしその奥に、少しだけ揺らぎがある。その後ろで遠慮がちに顔を覗かせるすみも、しのぶにくっついているきよも、カナエに頭を撫でられているなほも。皆が、安心したように頬を緩ませている。

 温かい喧騒の中で、カナエはふと、この輪の中に足りない一つの影を思った。胸の奥のちくりと寂しさを、笑顔で誤魔化す。

 

「カナヲもおいで」

 

 カナエのその言葉に、トコトコとカナヲが近づく。そっと、カナエの手が頭を撫でる。

 思い出したように、しのぶが懐から手拭いを取り出し、アオイに渡した。

 

「アオイ、美味しかったわ。ありがとう」

 

 アオイの顔に、花が開いたような笑みが浮かぶ。そのまま、七つに増えた影が屋敷の中へと消えた。

 再び屋敷に明かりが灯る。そこには、陽だまりのような笑い声が満ちていた。

 

***

 

 喧騒が去った夜。カナエは一人縁側に腰掛け、庭を眺めていた。穏やかな香りが漂い、激動の余韻を冷ましていく。

 

 帰りを待っていたみんな。待ち疲れてしまったのか、結果報告の最中に船を漕いでいた。寝室へと送ると、すぐに気持ち良さそうな寝息を立て始めた。その愛おしい姿を思い出し、そっと胸をおさえる。

 

 みんなが寝静まったあと、しのぶはあくびをしながら私室へと向かった。疲れる一日だっただろう。それでも、ひとつの曇りもない輝く笑顔を浮かべていた。ゆっくり休んで、明日また、あの笑顔を見せてくれたらいい。込み上げてくる熱を、小さく吐き出す。

 

 けれど、今日もまた、彼は目覚めなかったらしい。穏やかに眠りながら、一歩一歩、死へと足を進め続けている。体が大きく震えた。

 

「……こんな日くらい、起きてくれてもいいじゃない」

 

 慰めにすらならない、けれど本気で祈っていた、無意味な言葉。彼を想うたびに軋む心が、どうしようもなく足を動かしていた。

 廊下を満たす、消毒液と薬草の匂い。随分と久しぶりに嗅いだような気がした。自分の衣擦れの音だけがやけに大きく響く。熱を持つ捉えどころのない気持ちのまま、静かに足を進めた。

 

 あの笑顔の中に足りなかった、この扉の向こうで眠る一人の姿。毎日、湧き上がる熱に胸を膨らませこの部屋へと向かい、冷水を掛けられる。それでも、その熱をどうしても止められなかった。取手を強く握る。わずかに上がる心拍数。息を深く吸い、扉を開いた。

 

「……そうよね」

 

 時が止まった、冬の湖面のような空気。今日もまた、心が刃毀れを起こす。必死で研いだ刃が毎日毎日、少しずつ削られていく。細った心で立ち続けることに、いつか限界が来てしまうことが怖かった。

 

「……斎鬼くんは、すごいわね」

 

 洞窟で飢える孤独。血に塗れてしまう恐怖。終わりの見えない地獄の日々。それに、たった一人で何年も耐え続けていた。その壮絶さは、きっと筆舌に尽くしがたいものだっただろう。

 

「ねえ、あなたの作戦、褒めてもらえたわよ」

 

 あの地図の部屋で、よく机に伏せていた後ろ姿を思い出す。私室で寝るように言っても、まったく直らなかった。そっと髪に触れる。手に伝わる、硬くて鋭い感覚。もともとは黒かったのに、地獄の日々の中で変わってしまったと言っていた。

 

「しのぶは、蟲柱だって。私も隠を統括することになったの。大出世よ。すごいでしょ?」

 

 返事はない。心の熱が流れ出るのを止めたくて、節くれだった手に触れた。そっと、手のひらのマメをなぞる。自分の手よりずっと大きいその手を、強く握りしめた。その体温で、止まらない思いが、次々と溢れ出てしまう。

 

「あなたに、居てほしかった。しのぶも私も、とっても頑張ったのよ」

 

 冬は終わり、春の香りが鼻を通る。だというのに、彼の孤独に訪れた雪解けを、彼だけが知らない。カーテンの隙間から注がれる月の明かりが、今日は彼に届いてくれなかった。さっきまであった陽だまりの熱が逃げていく。本当はダメなのに、体を揺すってしまう。

 

「ねえ、起きて」

 

 声が潤む。どんなに祈っても、いつまで経っても反応はない。手を強く握っても、頬に触れても、感じられるのは無機質な体温だけ。凍える心が、声を詰まらせた。

 

「心細いから、早く起きてよ」

 

 胸に頭を預ける。淡々と刻まれる鼓動が、喪失を克明に刻みつけた。

 

***

 

「いてっ」

 

 蝶屋敷の医務室に声が響く。しのぶは、自分の足に巻かれる包帯を見つめていた。昨日の最後の技。あの時の足の痛みが、今になって牙を剥いてきたのだ。すぐに見抜いた姉さんに、医務室に運び込まれた。まだまだ未熟だと、手を強く握る。

 

「もう。無理しちゃダメよ」

 

 正面に座る姉さんが、怒った顔をつくっている。しかしすぐに破顔すると、優しい声で続けた。

 

「……でも、本当にいい技だったわ。また一緒に稽古しようね」

 

 その言葉に、小さく頷く。少し大きくなった鼓動の心地よさに任せて、またあの鍛錬場に足を向けたくなる。

 

「稽古は治ってからよ。癖になったらよくないわ」

 

 先回りされた。最近、こういった見透かされることが多くなったように感じる。ハの字眉で笑う姉さん。頬が少し熱を帯びる。顔を背けて、ぽつりと呟いた。

 

「……柱が初日から怪我してたら、面目が立たないもの」

 

 視線だけを姉さんに向けると、包み込むように柔和な笑顔を浮かべていた。また、顔がほてる。

 

「なら、早く治して、また頑張ろうね。悲鳴嶼さんなんて、すぐに倒せるようになるわ」

 

 また拳を握りしめる。背負うと決めたものへの思いを、鋭く研ぎ澄ます。決意を込めて、大きく頷いた。

 

***

 

 歩くたびに鈍く痛む足を引きずって、屋敷の廊下を歩く。開いた窓から、春の香りとともに一羽の蝶が入ってきた。ひらひらと舞い、前を歩く姉さんの肩に留まった。

 

「あら。あなたも一緒に行く?」

 

 姉さんは蝶に好かれる。この光景も、毎年の風物詩だ。こうして迎える春が、積み重ねの正しさを教えてくれる。小さく笑みが漏れた。

 その時、ふとその横顔が気になった。

 

「……姉さん、大丈夫?」

 

「……大丈夫よ。どうしたの?」

 

 一瞬だけ浮かんだ、寂しそうな笑み。あの下弦との戦いから浮かべるようになったそれ。きっとまだ心が、あの部屋に囚われているのだ。窓から入る温かい陽光が心の底まで届かず、影をはっきりと形づくっていた。

 姉さんの手を握る。最近その手に増えたマメを、そっとなぞる。そのまま、足の痛みをこらえて駆け足でその手を引いた。

 

「何でもない。早く行こう」

 

 向かう先は地図の部屋だ。頭を切り替える。これからの動きを練らないといけない。

 姉さんと宇髄さんと話した時から、ひとつ問題になっていたことがあった。それは、あの山の戦いの予兆。無惨が戦略的に攻撃を仕掛けてくること。そして、あの戦いが、蝶屋敷の近くだったこと。すでに、姉さんからお館様には伝えてもらっている。最悪の可能性も考えないといけなかった。

 

 部屋が見えてきた。ここからは、ただの隊士としての戦いではない。人を、隊士を、蝶屋敷を。そして、何より姉さんを守るための戦いだ。そのすべてを包むように、わずかに汗ばむ手を握りしめた。

 

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