静寂が辺りを包む夜、古い社の境内は二人だけの稽古場となる。
鬼である斎鬼と、鬼殺隊の柱である胡蝶カナエ。未知の鬼の情報と柱による稽古。誰にも知られてはならない取引は、そうして幾度となく繰り返されていた。
月光が、その境内を白く照らし出している。
真剣で打ち合う音が止み、しばしの静寂が訪れた。息を整えるカナエに対し、斎鬼は刀を握りしめたまま、訝しげに眉をひそめていた。
「……まだだめか」
ぽつりと漏れた呟きに、カナエは小首を傾げる。
「何か、うまくいかないことでも?」
「やはり、お前の『兆し』が読めない」
斎鬼は、いら立ちを隠さずに言った。彼の血鬼術は、相手の次の動きや攻撃を、「凶兆」として捉える能力のはずだ。だが、カナエと打ち合っていると、その感覚が妙に鈍る。
血鬼術による「兆し」。斎鬼はこれに、呼吸音、踏み込む足が立てる微かな音、周囲にある情報の全てを組み合わせようとしていた。
「稽古とはいえ、これは真剣での打ち合いだ。だというのに、お前から感じる『兆し』が外れる」
「前も言いましたけど、殺気など向けていませんから」
悪戯っぽく笑うカナエに、ふと疑問を抱く。鬼を前にして、この柱は殺意を抱かないのか。
その時だった。カナエの雰囲気がふっと変わる。それまでの柔和な空気が消え、柱としての研ぎ澄まされた闘気が、肌を刺すように放たれた。
「行くわよ、斎鬼くん。今度は本気で」
その言葉に、咄嗟に構える。
カナエの姿がぶれる。次の瞬間、彼女は懐深くに踏み込んでいた。
「花の呼吸、肆ノ型 紅花衣」
以前は受けきれなかったであろう、衣のように体を包む捻りの効いた斬撃。だが今は、その太刀筋が緩やかな光の流れとして見えていた。血鬼術が、呼吸のリズムが、踏み込みの音が、その「兆し」を読み切っている。
――ここだ
斎鬼は、正面からは受け止めない。突進してくる猪の力をまともに受け止めず、体を捌いて首筋に刃を入れるように、最小限の動きで刃の軌道を逸らす。甲高い音を立てて刀が滑る。同時に呼吸を整え、足元の筋肉を瞬時に再生させることで衝撃を殺し、体勢を崩すことなく、次の一撃に備えた。
カナエは、一撃をいなされたことに驚き、即座に距離を取った。そして、信じられないものを見るかのように、目を丸くしている。
「今の動き……!」
彼女の声は、驚きに満ちていた。
「すごい!本気だったんだけど…本当に驚いたわ」
純粋な賞賛にむずがゆさを感じつつ、咄嗟に行った自分の動きに、斎鬼自身が戸惑っていた。
――今までより、太刀筋が鮮明に見えた。
その様子を見たカナエが、笑みを深める。
「何か掴めそう?」
「……ああ」
繰り返される密会。鬼と鬼狩りという相容れないはずの二人を隔てる壁が、静かに溶けていく。
***
「さて、今日はここまでね」
そう言うと、カナエは帰り支度を始めた。境内の朽木に腰掛けながら、すっかり見慣れたその姿を眺める。同時に、これまでのことをぼんやりと思い出していた。
復讐を誓ったあの日。同族を狩る日々。カナエとの奇妙な出会い。
柱と鬼。本来、相容れない二人だ。それにしては、距離が近くなりすぎていた。
「……なぜだ?」
無意識に、かねてより抱いていた疑問が口をついて出る。
刀をしまっていたカナエが顔を上げる。
「鬼は、お前の両親を殺したのだろう。憎いはずだ。殺したいはずだ。それに、恐怖だって。なのに、なぜそんな風に笑える? なぜ、俺を前にして、そんなに優しいままでいられるんだ?」
その問いにカナエの笑みがふっと消え、月を見上げる横顔に、かすかな寂しさの色が差した。
「……ええ、怖いですよ。もちろん」
静かな声だった。
「あの日、私としのぶの前で、両親はなすすべもなく殺されました。あの時の恐怖と、鬼への憎しみは、今もこの胸に焼き付いて消えません」
目を伏せながら紡がれる言葉。奪われた者の苦しみ。その一つひとつが、斎鬼を苛む。
「でも……」
カナエは言葉を続ける。
「私は――いえ、私たちは本当は知っているの。鬼だって、元は私たちと同じ人間だったということを。何かとても悲しいことや、耐えがたいほど辛いことがあって、鬼にならざるを得なかったのかもしれない。そう思うと、憎しみだけをぶつけても、決して救われないような気がして……」
彼女の声は、夜の静寂に吸い込まれるように、か細く震えていた。
「だから、私は夢見ているんです。いつか、鬼と人が手を取り合える日が来ることを。……馬鹿げた夢だと笑う?」
鬼殺隊という組織とはきっと相容れない、孤独で、儚い夢だった。斎鬼は静かに首を振る。
「……笑わない」
ぽつりと、斎鬼が呟いた。
「時たま、奴らの最期の思考を拾うことがある。塵になる、その瞬間の…後悔、悲しみ、守りたかった誰かへの想い。奴らは皆、最期は…人間に戻って死んでいく」
「それは……」
その声には、驚きと戸惑い、そしてわずかな喜色が混ざっていた。
「人間だった頃――正治という名だった頃、親父は猟師をやっていた」
気がつけば、斎鬼は口を開いていた。愚かな鬼の、くだらない後悔だ。
「厳格な人だったが、その背中が誇らしかった。……山で獲物を仕留めた後、親父はいつも、獲物の亡骸の前で静かに手を合わせていた」
脳裏に蘇るのは、土と火薬の匂いが染みついた、不器用で大きな手。その手が、自分の頭を優しく撫でてくれた温かい記憶。
「『猟は、命のやり取りだ。ただ奪うだけだと思うな。山の恵みに敬意を忘れれば、いつか自分が獲物になる』……それが親父の口癖だった」
父の口癖をなぞる斎鬼の視線が、ふと自分の節くれだった手に落ちる。かつて父のそれとそっくりだと、母に笑われた手だ。
「その言葉の意味も忘れ、命を奪い続け、化け物に成り下がったのが、今の俺だ」
自嘲の笑みが、唇の端に乾いたように張り付いた。
「……こんなものに、お前の夢を笑う資格はない」
表情と語気とは対照的に、手が血がにじむほど固く握られている。捨てきれない父親への思慕が、深く刻まれていた。
沈黙が流れる。
風が木々を揺らす音だけが、二人の間に響いていた。やがて、カナエがそっと、しかし芯の通った声で言った。
「……あなたは、化け物なんかじゃないわ」
斎鬼が息を呑んだ。
「あなたは、その教えを忘れてなどいない。だからこそ、人を喰らうことをやめ、飢餓という苦しみを受け入れているのでしょう? 奪った命の重さに、今もこうして向き合っている。……それは、お父様の教えを守ろうとする、紛れもない『正治』という人間の心よ。とても、尊いことだわ」
気付くと、固く握っていた手が、カナエの手に包まれている。
化け物ではない、人間だと。この鬼狩りは、そう言った。
斎鬼が何も言えずにいると、カナエはふいに、それまでの柱としての柔和な微笑みとは違う、もっと明るく屈託のない笑顔を見せた。
「ねえ、斎鬼くん!」
突然変わった口調に驚き、斎鬼が顔を上げる。
「もう敬語はやめ。私のことも、カナエって呼んで!だって、私たちはもう『取引相手』なんかじゃないんだから」
目の前に仁王立ちするカナエが、ビシッと指をさした。
「あなたは、自分の罪と向き合う覚悟を決めた!私は、向き合えば鬼とだって分かり合えるって信じてる。立場は違っても、向いてる方向はきっと同じのはず」
その瞳には先程までの儚げな光はなく、力強い輝きに満ちている。
「だから……私たち、友達になろう!」
夜の静寂に、彼女の明るい声が弾ける。斎鬼は、呆然としていた。
友達。鬼である自分が、鬼殺隊の柱と?あまりにも突拍子もない提案に、脳裏で数えきれないほどの思考が渦を巻く。拒絶しろ。馴れ合うな。独りで罪を償い、独りで無惨を追い、独りで地獄に堕ちるのだ。
だが、目の前で「ね!いいでしょ?」と満面の笑みで答えを待つ彼女を見ると、己の意地にこだわることが馬鹿らしく思えてくる。
長い、長い沈黙が流れた。
やがて、斎鬼はふっと、息を漏らすように笑った。それは、喜びとも困惑ともつかない、ひどくぎこちない笑みだった。
何年も忘れていた、筋肉が引きつるような感覚。
「……馬鹿なことを言う」
絞り出すような声でそう言いながらも、その口元には、確かに笑みが浮かんでいた。
「……好きにしろ」
それが、彼の精一杯の返事だった。
その返事を聞いて、カナエは花が開くように明るく笑った。
利害の一致から始まった共犯関係は、互いの過去と痛みを分かち合う、奇妙で、そしてかけがえのない、確かな信頼関係へと踏み出したのだった。
***
「斎鬼くん。笑った顔、他の人には見せないほうがいいかも」
「……二度と笑わん」