夜の深淵が、世界を飲み込んでいた。
人里から幾重にも山を越えた先に打ち捨てられた廃寺は、もはや自然の一部となり果て、崩れかけた堂宇の隙間から、地衣類の湿った匂いと朽ち木の甘い腐臭が漂ってくる。斎鬼は、その本堂の壁に背を預け、静かに目を閉じていた。
月光すらない闇の中、彼の意識は己の内側へと深く、深く潜っていく。
体の芯に、一匹の獣が棲みついていた。その獣は、常に飢え、常に渇き、四六時中、鉄の爪で彼の内臓を掻き毟り続けている。喉の奥が焼けつくように熱い。胃袋が己自身を喰らわんと、ねじ切れるような悲鳴を上げている。鬼となって以来、片時も忘れたことのないこの地獄の感覚が、今夜は一段と鋭く牙を剥いていた。
胡蝶カナエとの稽古は、彼に光を見せた。鬼殺隊の柱が数多の死線を越えて練り上げた呼吸法、その剣技の精髄。それは、斎鬼が独力では決して辿り着けなかったであろう強さの頂きを、遥か雲上の頂きを、確かに指し示してくれた。
だが同時に、光は影を濃くする。
頂きに続く崖の険しさを、そして、その崖を登るための己のあまりの無力さを、彼は痛感していた。強くなればなるほど、技を繰り出せば出すほど、この人を喰らわぬ体は根源的なエネルギーを渇望する。このままでは、力を得るどころか、魂ごとすり減って消え失せるだけだ。
力が足りない。
脳裏をよぎるのは、一度だけ見た上弦の鬼。その威圧感。戦う姿を見てなくとも、今の自分ではその領域に指先すら届かないことはわかる。ただ飢えに耐えるのは、怠慢だ。それは覚悟ではなく、諦観だ。
斎鬼は、ゆっくりと立ち上がった。ただ闇雲に鍛錬を繰り返すのではない。この呪われた肉体を生かし続け、なおかつ強くなるための糧を得るため、『猟』を始めなければならなかった。
それは、獣でも鬼でもない、彼という異形の存在が生きるために課せられた、孤独な儀式だった。
一歩、廃寺の外へ踏み出すと、夜の空気が肌を撫でる。
森が、生きていた。
飢餓は、彼の五感を常人のそれとは比較にならぬほど、病的なまでに鋭敏にさせていた。湿った土が水を吸い上げる微かな音。風に乗り、数里先の沢から運ばれてくる苔の匂い。木の葉の裏で息を潜める夜盗虫の気配。そして、闇の奥で木の実を食む、鹿の心音までもが、彼の鼓膜を直接揺さぶるかのように響いてくる。
この森の全てが、命の集合体だった。
彼はまず、沢筋へと向かった。目当ては、特定の植物。人間だった頃、猟師の父が教えてくれた知恵が、鬼となった今、彼の命綱となっていた。
『正治、この草はな、根を噛むと血の巡りが良くなる。冬山で凍えそうな時は、こいつが命を助けてくれるんだ』
父の不器用で優しい声が、記憶の底から蘇る。あの頃は、ただの山仕事の知識としか思っていなかった言葉の一つ一つが、今では彼の血肉となっていた。
月光のない闇の中、彼は指先の感触と、鼻腔をかすめる僅かな青臭い匂いだけを頼りに、目当ての薬草を探し当てた。根を数本引き抜き、土を払って口に含む。舌を刺す強烈な苦味と土の匂いが口内に広がり、胃の腑へと落ちていく。やがて、体の芯からじんわりと熱が生まれ、血の巡りが活性化していくのが分かった。
だが、代償もあった。全身に力が満ちる感覚と引き換えに、森が発していた微細な音や匂いが、少しだけ遠のく。感覚が、鈍磨する。
「…これでは駄目だ。再生には使えるが、実戦では命取りになる」
彼は静かに吐き捨て、自らの肉体を実験台にして得た情報を、深く刻み込んだ。再生、膂力の増強、五感の鋭敏化。この三つを満たす「糧」を見つけ出さなければ、先はない。
***
彼はさらに森の奥深くへと分け入っていく。
やがて、彼の足がぴたりと止まった。
空気の匂いが変わった。獣の濃密な匂い。縄張りを主張する、圧倒的な生命力の気配。
闇の向こう、木々の影が折り重なる場所に、それはいた。
この森の生態系の頂点に君臨する、巨大な雄熊。月もない夜にあってなお、その黒い巨体は周囲の闇よりもさらに深く、禍々しいほどの存在感を放っている。岩を砕くほどの前脚、分厚い脂肪と筋肉に覆われた胴体。その一挙手一投足が、この森の法そのものだった。
斎鬼は、音もなく木の幹に身を潜め、その『主』を観察した。
父の声が、再び蘇る。
『山の恵みに敬意を忘れれば、いつか自分が獲物になる。俺たちは、山に生かしてもらってるってことを、決して忘れるんじゃないぞ』
そうだ。これは捕食ではない。この身を永らえさせ、大願を果たすために、この偉大な森の主から、その命の一部を分けてもらうための儀式なのだ。
彼は、潜むのをやめた。隠れて奇襲をかけるのは、この主に対する冒涜だと感じたからだ。ゆっくりと、しかし一切の敵意を込めずに、彼は熊の前に姿を現した。
侵入者を認め、熊の喉の奥から地響きのような唸り声が漏れた。空気が震える。次の瞬間、その巨体が信じられないほどの瞬発力で斎鬼へと突進してきた。
斎鬼は日輪刀を抜かなかった。鞘に収めたまま、腰の手斧を抜き放つ。目的は殺すことではない。この偉大な生命への敬意を払い、最小限の出血で、その命を頂くこと。
岩石のような前脚の一撃を、紙一重で身を翻してかわす。薙ぎ払われた爪が、背後の大木の幹をバターのように抉り取った。まともに受ければ、鬼の肉体とて無事では済まない。
彼はあえて、熊の爪が肩を掠めるのを許した。肉が裂け、骨が軋む激痛が走る。だが、その一瞬の隙を突き、彼は熊の懐深くに潜り込んでいた。
狙うは、首筋の一点。
父に教わった、獣を最も苦しませずに仕留めるための急所。
「…御免」
呟きと共に、手斧が叩き込まれた。ゴッ、と鈍い音がして、熊の巨体が痙攣し、やがてゆっくりと大地に崩れ落ちる。その目は、最期の瞬間まで、侵入者への怒りの炎を宿していた。
絶命した主の前で深く頭を下げ、静かに手を合わせる。そして、傷口から流れ出る血を、両手ですくい、少量だけ口に含んだ。
瞬間、腹の底から灼熱の塊がせり上がってきた。体中の血管が沸騰し、筋肉が爆発的に膨張する感覚。肩の傷が、おぞましいほどの速度で肉を盛り上がらせ、塞がっていく。これが、生命力。自分が喰らってきた人間たちも、皆、持っていたもの。
罪悪感が、彼の魂を苛む。だが、彼はその感情を、奥歯で噛み砕いた。
これは赦しではない。罰を受け続けるための、枷だ。借り物の力に溺れるな。これを結果に変えなければ、この命を奪った意味がない。
静かにその場を後にする。森は、主を失った悲しみと、新たな生命の循環の始まりを告げるように、ただ深く沈黙していた。
***
月が、雲間からようやく姿を現していた。
銀色の光が降り注ぐ、少し開けた岩場。そこが、斎鬼の鍛錬の場だった。
全身に満ちた熊の生命力を、彼は練り上げようとしていた。ただの暴力的な力ではなく、制御された一撃へと昇華させるために。
まず斎鬼は、カナエに教わった「花の呼吸」の型を静かに舞った。蝶が花から花へと舞い移るように、流麗で、円を描く動き。その一挙手一投足は、力の消耗を最小限に抑え、次の動きへと滑らかに繋げるための、極めて合理的な体捌きだ。その完成された美しさに、彼は改めて感嘆する。
以前に比べれば、格段に様になっているその舞。だが、彼は途中で動きを止めた。
――違う。これだけでは足りない。
この型は、あまりにも完成されすぎている。手練れの鬼であればあるほど、この美しい型の流れから、次に来る一撃を正確に予測するだろう。美しさは、それゆえに隙となる。
だが同時に、その予測は無意識で行われる。ならば、この定石そのものを罠として使えないか。
彼は再び深く息を吸い、花の呼吸で体内に酸素を取り込むと、流れるように肆ノ型・紅花衣の初動に入った。体を捻り、遠心力を生み出しながら、刃が美しい円弧を描き始める。
仮想の敵が、その動きを捉える。手練れであれば、思考は定石に行き着くはずだ。――この回転から来るのは、体を包み込むような広範囲の斬撃。ならば距離を取って捌くか、懐に潜り込んで迎撃するか。どちらにせよ、相手の意識は「円の斬撃」に集中する。
試す価値はある。回転が頂点に達する、その刹那。もし、ここを“分岐点”としたら。
斎鬼は、本来ならば回転を続けるはずの上半身の動きを、鬼の脚力と体幹で強引に固定した。大地に根を張るように下半身を安定させると、回転運動で生み出した全てのエネルギーが、行き場を失って体内で荒れ狂う。その奔流の向きを、肩甲骨と上腕の筋肉を瞬時に再生・強化させることで、前方への直線運動へと無理やり捻じ曲げた。
骨が軋む感覚。筋繊維が引き千切られ、即座に繋ぎ合わさる熱。人間であれば自壊しているだろう無茶な体捌きを、破壊と再生を同時に行う鬼の肉体だけが、理不尽に可能にする。
空気を鋭く切り裂く音がした。
刃は、円舞の軌道から完全に逸脱し、全ての力を一点に収束させた刺突となって、眼前の巨木を深く、鋭く抉っていた。一瞬の静寂の後、巨木はメシリと内部から崩れる音を立て、ゆっくりと大地に倒れ伏した。
――いける。威力は損なわれていない。
斎鬼は、再び同じ構えを取る。
同じように紅花衣の初動に入り、体が回転の頂点に達する。同じ“分岐点”。
だが、今度は刺突ではない。彼は、回転の勢いを今度は腰と背筋の再生能力で強引に殺し、溜め込んだ全ての力を、父が斧を振り下ろしていたあの無骨な動きで、真下へと叩きつける。
重い衝撃音が響き、刃は巨木の切り株に叩きつけられ、大地に深い亀裂を刻んだ。同じ初動から、全く異なる二つの攻撃。一つの幹から無数の枝が伸びるように、一つの型の流れの中に、いくつもの「分岐点」を作り、そこから予測不能な攻撃を繰り出す。
周囲の木々や岩を仮想の鬼に見立て、その新たな技を試していく。地形を読み、風を読み、相手の呼吸を読み、逃げ道を塞ぎ、罠へと追い込んでいく。それはもはや剣の稽古ではなかった。彼の原点である、知恵と経験の全てを注ぎ込んだ、「猟」そのものだった。
***
東の空が、わずかに白み始めていた。
鍛錬を終えた斎鬼の体からは、湯気のようなものが立ち上り、呼吸は荒く、全身の筋肉が悲鳴を上げている。熊から得たエネルギーはほとんど使い果たし、再びあの忌まわしい飢餓感が鎌首をもたげ始めていた。
だが、彼の瞳には、疲労の色よりも遥かに強く、確かな手応えの光が宿っていた。
――この程度では、まだ足りない。
犯した罪は消えない。命には命をもって償う。今なお、それは変わらない。それでも。
静かに目を閉じる。
友達になろうと屈託なく笑った、胡蝶カナエの顔。彼女が信じてくれた、この鬼の可能性。彼女が夢見た、鬼と人が手を取り合えるかもしれないという儚い世界。
強くなる。もう、取りこぼさないように。
孤独な鬼の誓いは、誰に聞かれることもなく、夜明け前の冷たい空気の中へと、静かに溶けていった。