境界の斎鬼   作:eebbi

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第二章:事変
運命の夜


 あの夜以来、二人の間の空気は確かに変わった。夜に繰り返される密会が、緊張感を孕んだ稽古であることに変わりはない。

 だが、その合間に交わされる言葉には、以前にはなかった穏やかさが含まれていた。

 

「はい、これ」

 

 その夜、稽古を終えたカナエが斎鬼に差し出したのは、小さな布の袋だった。中からは、ふわりと甘い香りが漂う。

 

「しのぶが作ったおはぎ、美味しいのよ。あなたも、たまにはこういうものを食べないと!」

 

 しのぶは私の妹ね、などと一人で喋っている。

 

「……鬼は、人間の食べ物を美味いとは感じない」

 

「もう、そういう理屈っぽいところ!」

 

 カナエはそう言って笑いながら、無理やり袋を斎鬼の手に握らせる。そのやり取りは、まるで歳の近い兄妹のようだった。

 斎鬼は戸惑いながらも、その温かさを無下にはできなかった。

 

「……カナエ」

 

「ん?」

 

「悪いが、今日はここまでにしよう」

 

「何かあるの?」

 

「ああ。近くの山に、厄介な鬼がいるという話だ。片付けてくる」

 

 斎鬼の言葉に、カナエは一瞬、表情を曇らせた。彼が言う『厄介な鬼』が、危険な相手ということは想像がつく。だが、斎鬼の決意が固いことを見て取ると、ふっと微笑んだ。

 

「そっか、わかった。気をつけてね、斎鬼くん」

 

 その時、闇を切り裂いて一羽の鴉が舞い降りた。カナエの肩に止まり、甲高い声で伝令を告げる。

 

「伝令!伝令!北ノ街ニテ鬼出現!花柱・胡蝶カナエハ、直チニ現場ヘ向カエ!」

 

 それは、柱である彼女にとって、数えきれないほどこなしてきた任務の一つに過ぎなかった。

 

「あら、私も仕事みたい。…それじゃあ、また次の夜にね!」

 

「……ああ」

 

 ひらりと身を翻し、夜の闇へと駆け出していくカナエの背中を、斎鬼は静かに見送った。花の香りがふわりと鼻をかすめ、すぐに消える。

 

 それが、彼が最後に感じた穏やかな彼女の気配だった。

 

***

 

 カナエが向かった任務は、滞りなく完了した。

 街の一部を縄張りとする、狡猾な鬼ではあったが、柱である彼女の敵ではなかった。夜明けまでにはまだ時間がある。

 

 彼女は夜の街を歩きながら、蝶屋敷で待つ妹のこと、そして、今頃どこかの山で独り戦っているであろう、奇妙な『友達』のことを考えていた。

 

 ――無事だといいけど……。

 

 斎鬼の身を案じる自分に気づき、カナエは小さく苦笑する。鬼の心配をする鬼殺隊の柱など、前代未聞だろう。

 

 その、不意の瞬間だった。

 コツリ、と誰かと肩が触れ合う。

 

「おっと、ごめんね」

 

 謝罪の言葉と共に、柔らかな物腰の男が振り返った。その顔には、常に貼り付けたような人懐こい笑みが浮かんでいる。

 

 すれ違った、ほんの一瞬。

 カナエの全身の産毛が、総毛立った。

 鼻腔を刺す、濃密な死の匂い。これまで対峙したどの鬼とも比較にならない、圧倒的な気配。

 

 全身の細胞が、目の前の男が『異質』だと、けたたましく警鐘を鳴らしている。

 

『俺は外見しか知らないが…そいつらに会ったら、絶対に逃げろ』

 

 かつて斎鬼から聞いた情報。

 白橡色の髪に、虹色の瞳。そして風変わりな冠。間違いなく、目の前の男は。

 

 ――上弦の弐

 

 だが、彼女の表情は、凪いだ水面のように変わらなかった。ここで動揺を見せることは、即ち死を意味する。

 

「いえ、こちらこそ。申し訳ありません」

 

 カナエは、街の娘を演じるように、穏やかに微笑んで見せた。男は気をつけてねと人懐こく笑うと、再び夜の闇へと歩き出す。

 その背中を見送りながら、カナエの背筋を冷たい汗が伝った。

 

 ――見逃、された…?いずれにせよ、私の手に負える相手ではない。

 

 直感が警鐘を鳴らし続けている。逃げろ、と。応援を呼べ、と。それが、柱として最も正しい判断だろう。しのぶの顔が、斎鬼の顔が、鬼殺隊の仲間たちの顔が、脳裏をよぎる。

 だが。

 

 わずかなの情報さえも掴めなかった上弦の鬼。ここを逃せば、次はいつになる。その間に、どれだけの人が殺される。

 カナエの足は、退却とは逆の方向を向いていた。彼女は音もなく屋根へと跳躍すると、息を殺し、獣のように気配を消して、男の背中を追い始めた。

 

 勝てないかもしれない。でも、柱として、頸を斬るための最善は尽くす。せめて、情報だけでも。

 闇に紛れ、月光を避け、彼女は静かに日輪刀の柄に手をかける。狙うは、ただ一撃。全てを懸けた、不意の一閃。

 

***

 

 同時刻。斎鬼は、目的の山とは別の森にいた。カナエと別れた後、どうしても胸騒ぎが収まらなかったのだ。

 まるで、心臓を氷の指で撫ぜられているような、不快な悪寒。

 

 ーーなんだ……この感覚は……。

 

 それは、彼の血鬼術が捉えたものだった。これまで感じたことのない、巨大で、禍々しく、そして絶対的な『死』の予感。それは、特定の誰かに向けられた殺意などという生易しいものではない。

 

 まるで、その場に存在するだけで、周囲の命を無差別に摘み取っていくような、災厄そのものとでも言うべき『凶兆』だった。その時。

 突如その凶兆は、カナエが向かった北の街の方角から、津波のように押し寄せてきていた。

 

「……カナエッ!!」

 

 次の瞬間、斎鬼は走り出していた。 打算も、取引も、贖罪も、全てが思考から消し飛ぶ。ただ純粋な焦燥感が、彼を突き動かしていた。

 己の限界を超える速度で、夜の闇を切り裂くように駆け抜けていった。

 

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