お盆の時期の現代日本にチリーンが一匹だけ迷い込んできたらという話です

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桜島のチリーン

 8月のある日の事。

 父親の実家に連れられた少年・鈴原翔はうだるような暑さの中でまばらな町を歩いていた。すっきりとした前分けの短髪に、白いキャラTシャツに青い短パンという、典型的な短パン小僧ともいうべき風貌だった。

 お盆を迎え、道には墓参りと思しき人々がぽつぽつとおり、人口の少ないこの町も、少しは賑やかになっている。

 コンビニで買ったガリガリ君を食べながら道を歩いていると、鈴の音が少年の耳に入る。いつも通る雑貨屋の、夏季限定らしい風鈴たちの奏でる音である。

 隣の家電屋からは終戦記念日にむけた反戦ドラマの重苦しい声も交じる中、その音色は軽やかなもので、毎年帰省につきあわされる彼にとってはそれを聞くのが一つの習慣になりつつあった。

 

「おう。鈴原んとこのチビか。今日も暑いねえ。じーさんの墓参りはもうしてきたか?」

「チビゆーな。赤鼻ジジイ。俺もう10歳なんだぞ」

「はっは。随分な口をいうようになったじゃないか」

 

 親父はそんなことを言いながら、うちわをわざとらしくあおいで店の奥へ引っ込んでいく。父とは幼馴染でもある雑貨屋の親父ともすっかり顔見知りになり、そんなやりとりもするようになった。

 

「ふー……」

 

 深く息をつきながら、風に揺れている風鈴を観る。色とりどりで、ガラスや鉄製などさまざまなデザインや札をもつそれらは毎日並びが変わっており、それを観るのも彼にとっては一つの癖になっている。

 九州地方南部の田舎町であるここも、ほかとかわらず猛暑日の灼熱地獄であったが、そんなことは露知らずとばかりに風鈴はなり続けていた。

 

「ん……?」

 

 しかし、彼は今、そのいつもどおりの音にかすかな違和感を覚えた。

 規則的に、風に揺れた時に一定の音しか鳴らない、なるはずのないその摂理に定められた音色。

 その中に一つだけ、感情か、自然ならざる意思のような音がまじったようなそんな気がしたのだ。

 

『まさか……な』

 

 そんなことを思いつつ、好奇心から、翔は風鈴の群れに視線を戻す。

 3秒もしないうちに再び気休め程度の風が吹き、風鈴たちはその役目を果たしていく。そして、翔はその様をじっと観察する。今流れている汗はその暑さだけのものではなかった。

 そして役目を終え、風鈴たちの札が定位置に戻ろうとしたとき、一つだけ明らかにそれが遅れているのに彼は気付いた。

 

「えっ……」

 

 思わず声に出してしまった。気のせいでは片付けられない、その摂理への僅かな反逆。

 それをした一つに翔は視線を思わず集中させる。

 確かに一見では普通の風鈴と変わらない。半円の上部に、音を鳴らし、涼を知覚させるための仕掛けでもある札。しかし、頭上にある黄色い吸盤と、本来半円部分内部につながってるはずの札が、しっかりとその半円の一部であるかのように一体化していた。―――それは尻尾とよぶべきかのように。

 

「まさか……。チリーン……?」

 

 彼にとっても3DSのオメガルビー、実家に行く直前までスイッチのスカーレットで見かけた、この世界にいるはずのない、ポケモンの一体。それそのものであった。

 その言葉が耳に入ったか、それはわずかに反応を示し、かすかに震えている。これで翔は確信を持った。理由はおいといて、とにかく目の前に、ポケモンが居るのだ。

 ガリガリ君は溶け切り、当り棒だったが、それよりも矢も盾もたまらずといった様子で少年は店の奥に駆け込む。

 

「あっ、あの、お、おじさん」

「あー? なんだぁボーズ。冷やかしなら隣のトシ坊んとこにしてこい。ったく最近ゲーミングPCだがなんだか知らんがあれが売れ行きいいからって毎日自慢しやがってよお」

 

 店主は奥の棚で食器の在庫整理をしながら、少年を横目でみている。

 

「ね、あ、あの風鈴いくら!?」

 

 翔は財布を取り出して次の言葉を待った。

 

「あ? あのってどれのことだよ」

「えっと、上が白で、下のはしっこが赤い御札のやつ」

「は? ……。えーそんなんあったか」

 

 答えも聞かずに翔は財布から一万円札二枚と、千円札をあるだけ出した。正月には帰省せず貰えないかわりとして、お盆玉で親戚からもらっている。

 

「お……。おいおい、いくらなんだってなあ。風鈴でそんなボるわけねえだろ。うちのことなんだと思ってんだボーズ」

「い、いいからとにかくあの風鈴!」

「いいから落ち着けっての……」

 

 店主は手のひらをだしてそのジェスチャーを出し、面倒くさそうにのそのそと軒先の風鈴売り場に戻った。チリーンと思しき風鈴は大人しく擬態につとめるかのように静止している。

 

「言ってた風鈴ってこれか? うーんこんなの並べた覚えねえけど……どっから紛れ込んだんだ?」

 

 店主はチリーンを見ながら首をかしげている。本当に覚えがないようであった。

 

「え……。じゃあ売り物じゃないってこと?」

「まあそうだが……。お客さんのわすれもんかもしれんしな。とりあえず外しとくか」

「ま、待って!」

 

 翔は反射的にチリーンを商品コーナーから外そうとするその太い腕を止める。

 

「な。なんだよ」

「そ、それが欲しいの! お金ならいくらだって出すから」

「だーかーら言ってんだろ。これは売り物じゃないの。もし他人の持ち物だったら勝手に渡すと後で面倒なんだよ」

 

 店主は自由な方の腕でめんどくさそうに、最近少し寂しくなってきた頭髪の頭をかきながら答える。

 

「め、面倒?」

「そーそー。もしかしたらおまわりさんがきて俺がつかまっちゃうかもしれないんだぞ? 困るだろ?」

「困んないし、それでもいいから、買わせて!」

「いや俺がよくねえんだよ」

 

 そんな問答をチリーンは静かに見ていた。

 

「あーもうわかった。他の風鈴ならその金で全部売ってやるから。それで手を打とう」

「どさくさに紛れてゴミ押し付けるなよ! いいからあれを売ってくれよー!」

「なっ……なんちゅー口きくんじゃこいつは……」

 

 そんなやりとりに一人の天の助けが入った。

 

「あー! あったあった。これ私の風鈴だったの!」

「えっ……!?」

 

 視線の先にいたのは、相島美音。3歳年上の翔の従姉である。おさげの髪型と、控えめな顔の少女だが、見た目の印象に反して翔はこれまでオセロでイカサマを仕掛けられるなど何度か辛酸を嘗めさせられている。寒色のアースカラーのTシャツに、薄い紅のさしたホットパンツを身に着け、つばの広い、白い帽子をかぶっていた。

 

「あー美音ちゃんのだったんかい。ったくこんなところに忘れるんじゃないよ」

 

 やれやれとばかりに店主はチリーンを美音に渡した。

 

「いやー。部活の夏休み課題が自由スケッチで、そこにセミがとまっていたもんでつい……」

 

 美音は向かいの電柱を指さしながら、茶目っ気たっぷりに店主にすまなそうに頭をさげた。

 

「部活って美術部かい? 絵上手いもんなあ。この前も横山なんとか記念で佳作だったんだって?」

「横山大観ですよ。いやー大したもんじゃないですって」

 

 そんなことを言いながら、二言三言店主と言葉をかわして、意気揚々と別れた。去り際に悔しかったらついでおいでとばかりに挑発的に視線を送ってきたので、翔は後を追う。

 

――

 

 中心から少しだけ外れた、田んぼのところまで美音は行き、木陰のところでようやく止まった。翔もそこで止まり、ようやく口を開く。

 

「ねーちゃん……。知ってただろ」

「まーねん。私、アルファサファイアのバトルフロンティアで、金ネジキ10回倒すくらいにはやりこんでたもーん」

 

 美音は得意満面に翔に返す。何度か対戦したこともあるがいつもワンサイドゲームであり、翔が勝てたことはない。

 

「ちっ……。でもねーちゃんスカバイも、ダイパリメイクも買ってね―じゃん!」

「ま、正直、ポケモン追うのは剣盾でいいやってなったから……。でも、本物に会えたらそりゃあ何が何でも手に入れたくなるのが、ポケモンの世界に踏み入れた人間の性でしょ? ねー。チリーンちゃん」

 

 今まで美音の腕の中にいたチリーンは恐る恐るふたりの眼の前で浮かびあがった。

 

「ううっ……。俺が先に見つけたのに……」

「それにしても……やっぱ大きいわよねえ。図鑑だと60cmだった記憶あるから、それよりは小さめだけど……子どもの個体だったりするのかな?」

 

 翔はそういえばとばかりに最近買い与えて貰ったスマホを取り出して調べる。美音の言う通りだった。

 

「特性ふゆう……。ゲームでも浮いてたけど、眼の前にするとすごい……」

 

 翔はスマホに写っているwikiをみながらそれを見比べる。姿も、特性も間違いはなかった。寸分の狂いなく、ホウエン地方に生息するチリーンそのものであった。チリーンのほうは落ち着きなく二人の顔を見比べていた。

 

「あれ。でも、子どもだったら、そもそも進化前のリーシャンじゃないの?」

 

 翔は素朴な疑問をぶつける。

 

「……。まあ。確かにそうね。じゃあ小さめの個体ということかしらね? レジェアルでも確か大きさの差がデータとしてあったきがするし」

 

 そんな美音の推論にうなずきながら、翔は視線をチリーンに向ける。

 

「ね。チリーン。どうしてあそこにいたの?」

 

 チリーンは翔にそれを聞かれると、下を向いてしまう。

 

「すごい……。本当に人の言葉理解できるんだ」

 

 美音は口を両手で覆い、純粋に感動しているようだった。犬や猫など、比較的高度な知能を持つ動物でも決して完全には真似のできない、人との正確なコミュニケーション。それこそが動物図鑑には載っていない不思議な生き物・ポケットモンスターである証明であった。

 

「もしかして……。あの風鈴たちが仲間だと思ったから?」

「チリ……」

 

 チリーンは頷きながら小さく答えた。

 

「寂しかったんだね……」

 

 翔はチリーンの頬を撫でながら静かに声をかける。

 

「チリーンのいるホウエン地方って、九州地方、つまりここが舞台のモデルだったはずよ。何か関係あるかもしれないわ」

「でもそんなこといったって……。まずこのチリーンがどこにいたかわからないと」

「……」

 

 チリーンは少しその身体を二人からみて横の方向に向ける。その視線の先に、なにかがあるようだった。

 

「えっと太陽があそこだから……、北の方角?」

「バーカ。理科の授業でやったでしょ。そこは南、角度の度合いをみると南西かしら。マップでみると、このずっと先にあるのは桜島……。そういえば、おくりびやまが桜島のモデルってきいたことあるわね」

 

 美音はスマホでGoogleマップを開きながら思考を深めている。

 

「おくりびやまってチリーンがいる場所でしょ?」

「うん。あそこは古い神社もあるし……。行ってみればワンチャンなにかあるかもしんない」

 

 そう言って美音はスマホを胸ポケットにしまい直した。

 

「行ってみればって……、ここから桜島ってけっこー遠かった気が」

「そーね。バスと電車で乗り継いで2,3時間はかかると思うわ。車でいければ早いんだけどね―……」

 

 美音はチリーンを見ながらふうとうなだれた。自らの年齢を少し悔いてるかのようだった。

 

「い、行けるよバスと電車でだって。ね、チリーン」

「?」

 

 急に話をふられたチリーンは首をかしげている。

 

「あんたね……。ま、いいわ。桜島には私が連れて行くから」

「え?」

「えって……。翔、まさかついてく気なの?」

「だ、だってチリーンは俺が見つけ」

「ダーメだっての。だいたいお金あるの? バス代はともかく電車賃結構するのよ?」

「お……お盆玉があるし、父さんに頼めば」

「は? ……。あー、そうかあんた正月こないんだったわね。チッ、東京もんの特権か……」

 

 美音は垂れ下がっている横髪を弄りながら、少し失敗したかのような顔を見せる。

 

「俺、東京じゃなくて横浜なんだけ」

「どーでもいいのそんなの。ヤマブキか、クチバか程度の違いでしょ」

「えっ。なにそれ……?」

「ピカブイやってないの? カントーの街よ」

 

 美音は少し得意になって返す。

 

「いやそれは知ってるけど……。ああ。そうなんだ」

 

 翔は元ネタになってることまで把握してなかったため、腑に落とした。

 

「ふう……。ま、しょーがないか。連れてかないで言いふらされでもしたら事だし。ちゃんと親御さん説得しなさいよ?」

「ねーちゃんは大丈夫なの?」

「あんたと違ってうまくやってるわよ」

 

 美音は事も無げに返す。それなりに優等生なようだ。

 

「さてと」

 

 と、同時に声をあげ、翔はチリーンの頭を、美音は尻尾にあたる御札を持った。

 

「いや離してよ」

「翔が離しなさいよ」

 

 どちらも一歩も譲ろうとしない。

 

「あんたにポケモンの世話なんかできっこないでしょ! 去年、カブトムシ死なせたでしょーが!」

「ポケモンの世話できる奴なんか地球上にいねーだろバカ!」

「あー! このー! 年上のおねーさんにむかってバカっていったわね!」

 

 美音は尻尾を離して、翔のシャツの袖につかみかかった。

 

「年上でもバカはバカだもん!」

「教育がまだ足りてないみたいね……。よーしじゃあ」

 

 美音が拳を作ったその時、チリーンはけたたましく超音波を発した。

 

「リィィィン!!」

 

 争いはやめてとばかりに発したその音は二人を強制的に停戦させ、それどころか周囲に居た小鳥や、虫たちも逃げ出していった。

 遠くにいた田んぼの農家にも聞こえたのか、草刈り機を持ったまま二人のいる方向へ走ってきている。

 

「げっ、どうしよう」

「と、とりあえず隠すわ翔! ジッパー開けて!」

 

 美音は翔が持参していたショルダーバッグの中に慌ててチリーンを詰め込み、翔の手をつかんで街の方向へ逃げ出していく。

 

――

 

 とりあえず農家を撒くことには成功し、雑貨屋や床屋などが集中しているところまで戻ったところで美音は一方的に、

 

「今日、翔んとこ泊まりに行くから、チリーンは預けておいてあげるわ!」

 

 そういい捨てて、ピューッと家の方向へ逃げるように向かっていった。

 それからどうにか父の実家まで戻る。玄関に続く廊下から見える仏間には、提灯の明かりが灯り、きゅうりの馬や、ナスの牛が飾られている。

 

「おう。お帰り。翔」

 

 廊下を歩くと、祖父の溜め込んだガラクタを仕分けしている父親より、居間から声をかけられた。

 

「ただいま」

 

 めんどくさそうに挨拶をきりあげ、いそいそと翔は部屋に帰っていった。

 

「全く、じーさんちとはいえ、人んちなんだから、もうちょっと……」

 

 やれやれとばかりに仕分けしている部屋から、廊下にでようとすると、翔は既に階段を上がっていた。

 ため息をついて戻ろうかと思っていると、ショルダーバッグからふうと顔をだした、”風鈴”に目を奪われた。

 

「嘘……だろ……?」

 

 父親は思わず、持っていたアクエリアスを畳に落とした。

 

 翔は、割り当てられている和室に戻ると、窓にとりあえずチリーンを吊り下げる。S字フックなどがなくても、黄色い吸盤がかってにしっかり上の構造物に接着するのだから便利なものだ。

 

「ふ……。ふふ、チリーンだ。ポケモンだ」

 

 父のお古である勉強机に座った翔は自分の持っているスマホに写っている3Dモデルのチリーンと、窓のチリーンを見比べる。こうして落ち着いてみると、なんともいえない優越感に翔は浸っていた。チリーンの方も夏風が気持ちいいのか、ゆらゆらと気ままにゆれている。

 

「翔、宿題は進んでるでしょうね」

 

 ニヤニヤと真っ白な宿題の問題集を広げながら見ていると、麦茶と軽羹を載せた盆持って、母親がノックもせずに入ってきた。

 

「わ! ママ! 急に入ってこないでよ」

「何いってんの、ただいまも言わないくせに……」

 

 そう言って、机に静かにお盆を置く。そして、置いてあるリモコンを見た。

 

「あら。珍しいじゃない。帰ってそうそうクーラーもつけないなんて」

「え、ああ。たまにはそう、その森林の風ってやつを……」

「……。ブロック塀しかないのに何いってんの?」

 

 哀れ。父の実家といえど、現代化による区画整備には勝てなかったのである。

 

「いやでもほら、間には草地があるし、横にはじーちゃんが植えた木もあるし……」

「はぁ……。あら、風鈴?」

 

 呆れた母がふと窓を見上げると、一風かわった風鈴を確認する。

 

「う、うん」

「あの相良さんとこの雑貨屋でかったの?」

「あー。買ったといいますか、もらったというか……」

「ふーん……。風流で結構だこと」

 

 母は特にそれ以上興味を示すことなく、風鈴から視線を外す。

 

「いやぁ……。やっぱりほら夏の風、風……」

「風物詩! それだから国語はいつも2か3なのよ……」

「あはははは……」

「風流もいいけど、熱中症になったら元も子もないんだからね。無理はしないのよ」

 

 そう言って、母はパタパタと部屋を後にした。

 

「ふう……焦った」

 

 一息ついて、翔は軽羹の包みを一つとく。すると頭上から視線を感じる。

 

「リ……」

 

 翔はチリーンの視線の先にある自身の軽羹に気づく。

 

「食べたい?」

 

 チリーンはこくこくうなずく。お腹が空いてるようだ。

 

「じゃあ」と言って、翔は軽羹を2つに割り、少し大きい方をチリーンの申し訳程度の小さな手に渡す。かなりギリギリそうだ。翔は半分になった軽羹をそのまま一口で食べるが、チリーンの方はまだ食べれてなかった。

 

「吊り下がったままだからかな……」

 

 翔はチリーンの黄色い吸盤部分を持って窓の桟から離し、勉強机まで降ろした。

 すると前よりは食べやすくなったのか、机の表面を使い、軽羹の向きを少しかえてもぐもぐと食べ始めた。満足そうである。

 とりあえず、母親からの小言を避けるために翔は宿題の一つにあたる算数の計算ドリルを開いた。

 二桁や三桁の割り算や掛け算、分数の計算問題などがうんざりするほどずらずらと翔の眼の前に現れる。

 

「ちぇっ……。どうせ学タブあんだから、全部それですませればいいのに……」

 

 ぶつぶついいながら、翔はすみに筆算を書き、少しずつ解いていく。ようやく半分くらい食べ終えたチリーンはその様子になんとなくその黄色い眼をむけていた。

 案の定、計算の処理で行き詰まり、翔の辛うじて進んでいたシャープペンの進みが止まった。

 

「あー……。めんどくさ」

 

 まだ10問も解いていないが投げ出してしまおうか頭に浮かびはじめたころ、コロコロと自らの丸いからだを転がして問題集の上に乗った。

 

「なんだよ。邪魔すん……」

「リーン!」

 

 その少し大きめな鳴き声と共に翔の脳内にこれまでにないほど明晰な思考が流れてくる。それに気づいて、問題集を見てみるとこれまで難物にみえた計算問題たちが一気に簡単に見えてくる。

 もはや筆算などいらない、暗算でですらすらと答えを書き込んでいき、自分でも信じられないほどの速度で制圧し、20分ほどで計算部分を全て終わらせてしまった。

 アマプラのドラマかアニメでみた、天才のキャラクターが次々と難しい数式をこなしていく感覚と同じものを翔は覚えた。

 

「で……できちゃった」

 

 未だに現実のこととして受け入れられていないが、すべての計算式に数字が書き込まれている。すでに明晰な思考はとまっていたが、なんとなく合っているだろうという確信をもてた。自分で書いたはずなのに、まるで他人が書いたかのような感覚を味わっている。

 

「リン!」

 

 チリーンは少し偉そうに胸らしき部分をそらした。

 

「お前が……? すっげー。そういや、エスパーだったな」

 

 超能力を使えるポケモンからすればこの程度の問題など、問題にすらならないのだろうと、翔は眼の前にいる小さな生物に頼もしさを覚えた。試しにスマホで2,3問電卓機能で計算すると正解だったため、あとはするまでもないだろうと計算ドリルをとじた。

 翔は調子に乗って、次は漢字の書き取りや、穴埋め問題などがある別のドリルを取り出した。

 

「なあ。これもできるだろ? さっきみたいにやってくれよ、このカンモンってやつの門はわかるけど、上のほうの門の中身なんだったかわすれちゃって」

 

 翔はやりかけの問題集を広げて、チリーンに見せる。

 

「リ……?」

 

 しかし、チリーンは困惑した表情を見せるばかりだった。

 

「え。もしかしてわかんな……イダッ!」

「もーズルすんじゃないのバカ!」

 

 分厚い紙の音と共に痛みを覚えて振り返ると、そこにはボストンバッグを持った美音がいた。

 

「っつー……。なんだよ。もう来たのかよ」

「そりゃあね。もうパパとママの承諾とったから。さて、チリーンちゃん、これは解けるかしら」

「んだよ、ねーちゃんだって……」

 

 翔の言葉を無視して、今度は眼の前に同じく問題を広げる。青チャートと表紙にかかれている問題集である。

 

「数学……? だっけ」

 

 翔にとってはまだ未知の、数の世界の分野である。

 

「まね。九大目指してるお兄ちゃんの本棚からくすねてきたの。ほら、エスパーってどんなものか気になるじゃない?」

 

 眼の前にいるチリーンはさっきと同じく鳴き声をあげ、美音に解かせようとする。

 

「おー……。これがエスパーの感覚……」

 

 ほうほうとうなずきながら、美音は微積分の計算問題を1ページ分といていった。

 

「す。すごい……、こんな呪文みたいな問題なのに」

 

 翔にとっては∫や、そもそも問題文の漢字すらよめないレベルのものである。

 

「う、うん。答えみたらあってるみたいだし……。やっぱり頭いいのね。エスパーって」

「え、ねーちゃんもわかんないの? 中学生なのに?」

「……。数Ⅲの内容分かるんだったら公立なんかいってないわよ」

 

 美音は呆れたようにため息をつきながら、青チャートを閉じた。

 

「でも、こんなチートじみて頭いいのに、なんで漢字はわかんないんだろ?」

 

 翔は未だにある門構えの空欄を恨めしげに見ている。

 

「さあ……。もし、野生だったらそもそも人間の世界の文字と関わらないんじゃない?」

「ふーん……。そっか」

 

 翔は残った軽羹を食べながら納得した。

 

「で、叔父さんと叔母さんはもう説得したの?」

「う、ううん……。まだ」

「もー。なにしてんのよ。明日行くのよ? わかってる?」

 

 美音は自分で持ってきたじゃがりこを取り出して、一本食べながら尋ねる。

 

「そもそも明日じゃなきゃダメなの?」

「私、明後日から美術部で合宿あるから」

「えー……。別に合宿なんてどうでもいいじゃんか」

 

 翔はあからさまに不満な顔をする。

 

「やーよ。耶馬渓の美しい自然をみんなでスケッチして、今度は全国のコンクールにだすんだから」

 

 美音は微笑みながらきっぱりと否定する。相当楽しみなようである。

 

「チリーンの方が大事じゃないの」

「……。それにね。あんまり長い期間こっちに置くわけにもいかないでしょ。今日だって農家のおじさんに見つかったら大変だったんだから」

 

 美音は今度は深刻そうな表情をうかべる。彼女なりに考えた結論のようである。聞いていたチリーンはピクリと身体を震わせた。

 

「うーん……。それもそうかあ」

「で、どうするの? やっぱり私一人で」

「ダ、ダメ! なんとか説と……」

「何の話してるの?」

 

 そんな会話をしていると、再び母親が入ってきた。

 

「あ、叔母さん! どうもお邪魔してます―」

 

 美音はとっさに、翔の前ではまず出さない、鈴の鳴るような声で丁寧に挨拶した。

 

「んーん。いいのよ。みーちゃんには翔がお世話になってるから……。それで?」

 

 翔の麦茶の空いたコップと、軽羹の空き袋を回収し、オレンジジュースを2つ置きながら母は尋ねる。

 

「あー……。えっと、翔君が自由研究のネタに困ってるっていうから、相談に……」

「まあそうなの? ダメじゃないの翔。みーちゃんにも色々やることあるんだから」

 

 母親は座りながら、翔に責めるような視線を向ける。迷惑をかけるなという意思が翔にも痛いほど刺さる。

 

「いえ、いいんですよ。私は別に。それで、どこかに一緒にフィールドワークでもどうかって。私も自由研究の宿題あるんで」

「そ、そうそう」

 

 翔は美音の言葉にとりあえず同調して、うんうんとうなずく。

 

「ふーん。いいじゃない。最近の子はスマホかティックトックばかりだし、そうやって身体を動かすのはいいことよ。で、どこに行くのかしら? 熊本城でもみにいくの?」

 

 母親は関心した表情を浮かべながら、とりあえず近場のスポットをあげる。熊本城はここからバスで40分ほどである。

 

「あーえっと……」

 

 美音は翔に視線を向ける。なんでもかんでも私に言わせるなという意思であった。

 

「そ、その。さ、桜島なんかいいかなって」

「は?」

 

 それを聞いた母親は硬直した表情になった。

 

「え、どこにあるか分かっていってる……? 阿蘇山とかじゃないのよ?」

 

 母親が訝しげな表情で翔の顔をのぞきこむ。

 

「わ、わかってるよ。隣の県でしょ?」

「そうよ。あんたが夏休み前の社会のテストでさつま県ってかいたところよ? なんでそっちがでるのか頭抱えたけど……」

 

 ふうとため息をつきながらいう。

 

「だってあれはママが最近、さつま揚げばっかりだすからつい」

「人のせいにすんじゃないの! とにかく、いけません。そんな自分がどこにいくかもわかってないのに、隣の、それも南の果てに近いところだなんて……」

「あー。えっとね。叔母さん。ほら、再来年の大河が幕末だから、ついでに翔君にも西郷さんについて勉強してもらおうかと思って」

 

 確かに幕末ではあるが、美音は主人公が西郷とはそれほど関係ないどころか、敵対した幕臣である事までは把握していない。

 

「あら。そうなの……? でも桜島と西郷さんってそんな関係あったかしら?」

「あー、おばさんは九州の人じゃないからアレかもしれませんけど、西郷さんにとって桜島は日本人にとっての富士山に近いような存在だったんですよ。だからそういうエモい感覚を養ってもらえないかなって」

「ふーん……。そうなんだ。ま、確かに情操教育も大事っていうしね……」

 

 母親は半分納得したかのよな表情を浮かべ、立ち上がる。

 

「そ、そうなんですよ叔母さん! ね、翔!」

「う、うん」

 

 翔は美音の言ってることの半分も理解していないがとりあえず同調した。

 

「明日いくの?」

 

 母親は美音のボストンバッグを見ながら察したようにいう。

 

「は、はい」

「分かった。それじゃあそうね……。お土産に何かタルトでも買ってきてちょうだい。はい、お金」

 

 母親はスッと、持っていた財布から紙幣を何枚か出し、美音に手渡した。

 

「あ、はい分かりました」

「えー。なんでねーちゃんなんだよ。俺には」

「あんたにはお盆玉があるでしょうが。無駄遣いするし、ダーメ」

 

 そう言って母親は少し期待したように去っていった。

 

「むー。納得いかないなあ……」

「大人からの信頼の差よ。覚えておくことね」

 

 美音は勝ち誇ったように言いながら、自分の折りたたみの財布に紙幣を入れる。

 

「そういえば、西郷? さんにとっての桜島ってほんとにそうだったの?」

「さあ……。でも、否定は誰にもできないでしょ?」

 

 チリーンは疲れたのか、いつの間にかすやすやと眠っている。

 

「あっ。こいつ……、いい気なもんだ」

「ポケモンにとって、人間の言い争いなんてそんなものなのかもね」

 

 こうして親への説得に成功し、翌日の桜島行きの計画を具体的に立て始めた。

 

――

 

 夜、晩ごはんを食べた後、翔は母親のやかましい指導の下で冒険の準備を進めていた。タオルやモバイルバッテリー、塩分補給用のタブレットなど次々とリュックの中に入れている。

 

「翔、準備は進んでるの?」

「うるさいなあ。いわれなくてもやってるっての」

「お父さんも、お母さんも明日は本家で集まりあるから、手伝えないんだからね」

 

 多くはもうこの過疎化で絶滅したと思われていた、盆の時期の墓参りや法事にみせかけた飲み会が、明日行われることになっていた。さすがに子どもたちからは敬遠されてるので自由参加だが、親世代までは半強制である。

 

「それにしても、あんたその風鈴いやに気に入ってるのね……」

 

 翔はチリーンを広間の縁側に吊るしており、夕食から今までインテリアの一つのように飾っていた。

 

「ま、まーね。好きなガラだったから」

「ふーん……。そう」

 

 母親はどこか見透かしているような視線を翔に注いだ。

 

「叔母さん、この盆飾りはまだあそこに飾りっぱなしでいいの?」

「んー……。そうね、あそこだと見えにくいし、もう少し下げてくれないかしら?」

「はーい。翔君、準備しっかりね」

 

 二人きりじゃ絶対そんな声ださないくせにと思いながら、翔は生返事をかえした。

 

「はあ。みーちゃんはこんな一生懸命やってくれるのにこの子ったら」

「今どきお盆なんて真面目にやってるところのが少ないよ。ヤスもよしくんものりべえも田舎なんかかえんないって」

「……。うちはうち。よそはよそなの」

 

 母はため息をつき、広間につながっている台所へ向かう。明日の昼のお弁当を仕込んでいた。

 

「おー。翔。みーちゃんと冒険にいくんだってな」

 

 そんな会話をしていると、缶ビール片手に父親がやってきた。

 

「パパ! そうなんだ。桜島までちょっと」

「桜島か……。おくりびやまじゃないのか?」

「えっ!? パパ、今なんて」

 

 翔が聞き返したときには、父はスマートテレビの方へ向かっている。

 父はポケモンどころか、ゲームには必要以上の興味を示さないはずなのに、なぜその名前を知っているのか。翔には分からなかった。

 そんな翔の思惑も知らぬとばかりに、父は、youtubeの動画をみている祖父へ、明日の法事について話し合っていた。

 

「翔ー。準備終わったのなら、早くお風呂入ってきなさい。お父さんあがったんだから」

 

 すかさず、台所の母親がたたみかけるようにいう。

 

「えっ。う、うん」

 

 後ろ髪を引かれるような感覚で、翔は着替えを持って風呂場へ向かう支度をする。

 

「……」

 

 翔は広間の縁側に吊るしたままのチリーンを気にかける。

 

「どうしたの? 早くいきなさい。ママも早く入りたいんだから」

 

 母親は首だけ翔に向け、再度うながした。

 

「う、うん……」

 

 躊躇する翔をみて、その意図を察したか、母親は息をつく。

 

「あんたの風鈴なんか、誰も取りゃしないんだから、早くいきなさい!」

「は、はーい……」

 

 これを無視すれば、今度は本当に雷が落ちてくると予感し、足早に翔は風呂場へ向かった。

 それからしばらくして、父親は翔の用意したリュックを前にたっている。

 

「そうか。あいつも旅に出る歳になったか……」

「あなた。余計なこと言わないでください。あれは、ただの”風鈴”なんですからね」

 

 母親はどすの利いた声で、父にいう。

 

「……、本当に、あれがポケモンだなんて、今でも信じられないくらいたけど」

 

 それから母親はそれよりは少しトーンを落として、純粋な所感を口にした。

 

「お前は金銀しかやってないからな……。ああ。分かってるよ。俺ら大人が入って良いことじゃないことくらい」

 

 父親はポリポリと頭をかき。寂しくビールを飲む。そして、ちらりと風鈴を、チリーンを見た。その視線には懐かしみと、ほんの少しの羨望があった。

 

「しかし、まさか本物のポケモンを、見ることが出来るなんてなぁ……」

「……。あなた」

「分かってるよ。子どもにそういうのバレると、教育上よくないって言うんだろ……。でも、いいだろ。俺だって、翔くらいの歳のときはアドバンスやDSにかじりついてたトレーナーだったんだから、見るくらい」

 

 そうとだけ言って、父は今度こそ、チリーンから視線を外した。

 

――

 

 翌日、二人はバスにのって熊本駅に到着する。

 九州で屈指の人口を擁するこの都市の人々を捌くこの駅は今日もそれなりの人が賑わいを成していた。

 

「へー……わりかし人いるんだね」

 

 駅構内に入った翔は左右を見回す。彼が普段過ごす横浜や、遊びに行った東京ほどではないが、混み合っているさまを好奇心ありげに眺めていた。

 絶え間なく流れるアナウンスの声や、行き交う人々からたまに聞こえる肥後弁や、博多弁と思われるさまざまな方言がいつもいる場所とは違うことを翔に意識させる。

 

「え? 翔、ここきたことないの?」

「言ってなかった? 俺んち、毎年車で来てるから」

 

 父親がドライブ好きなのも手伝ってか、毎年横浜から熊本まで高速を引き継いで一家はやってきている。

 

「あー……そっか。じゃあ、どう? ここが火の国・熊本の玄関口よ」

 

 美音は少し誇らしげに胸を張った。

 

「うん。あれとか見てると、熊本にいるんだなーって感じする」

 

 所々にご当地キャラクターのくまモンのポスターや、等身大の立像などがあり、また、そのきぐるみが握手したりしている。その周囲には、十数人ほどの子どもたちがおり、まあまあの人気なようだ。

 

「あんたも混じってきたら?」

「やだい。もうあんなので喜ぶ歳じゃないもん」

 

 ショルダーバッグの中に潜ませているチリーンを意識しながら、翔は返した。

 翔がついでに様子を見てみると、チリーンは空気のための隙間からすこし頭だけをのぞかせて、くまモンたちの方を興味深げに見ている。

 

「え? チリーン、もしかして気になるの?」

「リ……」

 

 チリーンは翔を見上げながら、どちらともつかない声を返す。判断に迷っているようだ。

 

「やっぱり気になってるんじゃない。ポケモンのせいにするなんて、翔も落ちたもんねー」

 

 冗談めかしたように、美音はやれやれとばかりに首をふった。

 

「ち、違うっての! チリーンがほんとに」

「ふーん……。そんなかわいくない嘘つくんだったら、新幹線も大人料金で払うのね」

「は? やだよそんなの……ってか新幹線で行くの!?」

 

 普通の電車で行くとばかりおもっていた翔は素っ頓狂な声をあげる。

 

「当たり前でしょうが。今日中には帰らないといけないんだから。在来線なんかでいったら帰れても夜遅くなっちゃうわよ」

「え、でもお金が……」

「叔母さんがくれたお金。タルト代にしても多すぎるから昨日聞いたけど、見越して多めに渡してくれたのよ。つまり、新幹線で行けって事だと思うの」

 

 美音は財布から渋沢栄一の描かれたお札を三枚取り出す。十分すぎる金額だった。

 

「ああ……そういう事」

「でもま、翔は大人だっていうなら、ここから出すことないわね。ちょうど新しい画材のお金ほしかったしその足しに……」

 

 美音は財布にお札をしまって、自動券売機へさっそうと向かう。

 

「じょ、冗談じゃないよ、まって美音お姉ちゃん~」

 

 縋り付くように翔は美音の後ろにつき、どうにかお盆玉から新幹線代を出すことは避けられた。

 

――

 

 二人は新幹線で熊本から鹿児島中央へ行き、そこからまたバスで桜島行きのフェリー乗り場に行き、搭乗した。15分ほどの短い旅だが、今日も煙を吐き続けている桜島がぐんぐんと二人と一匹に近づいてきた。

 

「リーン」

 

 チリーンは自身に近づいてくる火山を見ながら、どこか真剣味を増している表情をした。チリーンは船の甲板の先頭で、翔と共にいた。

 

「やっぱり、あそこになにかあるんだね、チリーン」

「……」

 

 チリーンは何も答えずに、桜島を見つめている。

 

「周囲の人に聞いたり、スマホとかで調べたりしたんだけど……、どうもこのあたりに古びた神社があるみたいなの」

 

 美音はタブレットを取り出し、その場所を示した。衛星写真で見るだけでもかなり奥まった場所にある。

 

「そこがチリーンの帰るべき場所ってこと?」

「桜島にはいくつか有名な神社があるらしいんだけど、そんな所から出てきてたら今頃大騒ぎになっているわ。だからここは逆に人里離れたところから来たんじゃないかなって」

「ふーん……」

「ちょっと、もう少し身を入れて聞きなさいよ。真剣な話なのよ」

「俺詳しいところはよくわかんないし……、ねーちゃんを信じてるから、そういうのは」

 

 それをいう純真な眼に、美音はすこしあてられて、視線をそらした。

 

「どうしたの?」

「……、別に。全く、いつもそぎゃあだったら、もうちーとむぞかて思うとに……」

 

 美音の切実なつぶやきは、かき分ける白波の音に消えていった。

 

――

 

 桜島に到着したころには日は大分高く登っていた。

 とりあえずお昼になったので、フェリー乗り場の待合室で翔の母親に用意してもらったお弁当を食べている。

 

「んぐんぐ……。げ、この煮物、しいたけ混じってる」

 

 筑前煮の中に混じっていたしいたけの嫌な感触に気づき、翔はゲゲッとした表情をする。

 

「好き嫌いしないの。忙しい中、せっかく作ってくれたんだから……」

 

 美音は卵焼きをつまみながら翔に注意をした。

 

「だって……、あ、そうだチリーンなら食べるかな」

「リ?」

 

 チリーンは翔が買い与えた紙パックのりんごジュースをストローで飲みながら、つぶらな瞳をむける。チリーンは翔がちょうど陰になるように居るため、一般客には幸い見えないようになっている。

 

「チリーンちゃんに押し付けるんじゃないの……」

 

 そんな会話をしていると、別の声が二人の間に入ってきた。

 

「おはんら、見かけん顔ごわすな。観光じゃっと?」

 

 掃除に来ていた用務員のような、70過ぎと思われる老人が話しかけてきた。声に気づいて翔はそそくさとチリーンをショルダーバッグに戻した。

 

「え、ええ。はい。実は自由研究でこの土地の古い風習を調べてまして……、この神社に行こうと」

 

 美音はタブレットを取り出して、行こうと考えている神社の航空写真を見せた。

 老人は近くによってそれを確認する。

 

「こんなとこ、にせ(若者)が行くような場所じゃなか。やめたっしゃもんせ」

 

 老人は手を横に振りながらやめることを勧める。

 

「え……? そんなにまずいところなんですか?」

「あすこは、いろせなもん抱えて死んでいったもんたちの魂を鎮める場じゃ。寝た子を起こすようなことを、するもんじゃなか。ことさら、今はの」

 

 老人の眼と挙動は厳しくも、どこか真摯に慮っているかのような雰囲気があった。現在がお盆であることもその度合を増しているようだった。

 

「……。それは分かります。しかし、私達は、それでも行かなくては」

「なら、好きにすればよかと。忠告はしたばい」

 

 そう言って、老人は静かに待合室より出ていった。

 

「なんだあのじいさん……。不気味だったな」

「……。鹿児島、薩摩ってところはね。それだけ色々な因縁、歴史があるところなのよ」

 

 美音は少し遠い目をしながら、老人の去ったところを見る。その声色はいつになく重く、含みがあった。

 

「そうなの?」

「ま、翔も、あと2年もすれば社会科で習うだろうし、敢えて深くは言わないわ。さて、早く食べちゃお。あんまりゆっくりしてると、時間なくなっちゃうし」

 

 翔は美音の言葉に疑問を覚えつつ、食べ進めていった。

 

――

 

 昼食を食べ終わると、二人と一匹はバスに乗り、いこうとしている神社に一番近いと思われるバス停で降りる。とりあえず方角の通りに進むが、すぐに行き止まりに突き当たる。

 もはや観光地からは遠く離れ、人々の喧騒はなく、木々がさざめく音と、蝉の声だけが二人の耳を支配し、眼の前には緑の暴力ともいうべき森林がたちはだかった。

 道は既に舗装されておらず、砂利と土で作られた前時代の道路である。

 

「参ったわね……。ここから先どういけばいいかなんてマップには書いてないし」

「とりあえず適当に行けばいいんじゃない?」

「バカ……。遭難したいの? いくら桜島がそんな大きくないっていってもね。数日はでてこれないくらいの深さはあるわよ多分」

「んな大げさな……」

 

 翔はショルダーバッグから水筒を取り出し、母に入れてもらった麦茶をグビグビ飲む。森林にいる分少しはマシなものの今日もじわじわと汗が出る気候である。そうすると、空けたショルダーバッグの隙間から、チリーンがゆらりと、飛び出てきた。

 

「リーン……」

 

 まるで道案内でもするかのように、浮遊したチリーンは森の中へ入っていく。

 

「何……? 突然」

 

 美音は当惑するばかりだったが、

 

「いや、いこうよ姉ちゃん。チリーンを信じよう」

 

 翔は考えるまもなく、チリーンのすぐ後を追う。美音もそれに続く。

 

 どれほど歩いたであろうか。道なき道、木々の間を縫うように進み、服に泥や木の葉などがついていく。進むごとに標高が上がっていくため、疲労もひとしおである。

 そうして、二人の疲労がはっきりと出始めた頃、その社は姿を現し、チリーンは動きを止めた。

 

「ここが……その神社?」

「そうかもね。磁場のせいか、圏外になってGPSも使えないけど……」

 

 美音はスマホを見ながら言う。翔のスマホも圏外であった。

 社は放置されてから相当な年月が経過しており、ほとんど朽ち果てている。ツタや雑草はのび放題になり、どこからが人工で、どこからが自然物かわからないほどである。

 しかし、その横にある周りの木よりも少しだけ大きな木には、神木とばかりに注連縄が巻かれている。それは社の年月にしてはやや真新しいようであった。

 

「こんな道もなにもないところに、神社があったなんて」

「昔はあったのかもね。でも、こうして考えると優に100年は人が入っていないかも……」

 

 そんな二人の言葉をよそにチリーンはいつもの通り、ただずんでいた。

 

「……。何も起きないわね」

「でも、チリーンがここに来たってことは、何かあるはずなんだよ、きっと」

 

 翔はあくまでチリーンを信じ続ける。

 しかし、烈日はジリジリと二人の身を焦がし続け、すぐ近くにある御岳の熱気もあいまって、どうにかなりそうな程であった。こころもとない水分と、持たされていた塩分補給用のタブレットが、二人にとっての生命線である。

 チリーンは所在なくふよふよと周りを漂っていた。浮遊と言うべきか、夢遊というべきか。あるときは神木のまわりを、またあるときは社のまわりを、森の木々を眺めていることもあった。しかし、それは意図がどうにもつかめないものであった

 

「……」

 

 美音は10分ほどしてスケッチブックをとりだし、岩に腰掛けながら、絵を無心に描いていた。題材は眼の前にいるチリーンや社、桜島の山であるようだった、

 

「ねーちゃん」

「何」

「よくこんな中で絵かけるよな……」

「……。こんな中、だからこそ集中して描けるのよ。心頭滅却すれば火もまた涼しっていうでしょ……。この熱気だとほんとに滅却しちゃいそうだけど」

 

 翔に視線も移さず、美音は4Bの鉛筆を取り、それを描き続けている。話し相手にも、遊び相手にもなってくれなさそうなので、翔はチリーンだけを改めて見つめる。

 

「こんなことなら、水彩用のセットももってくるべきだったかな……」

 

 美音はそんな後悔も口にしつつ、ただ進めていた。

 

 それから、またしばらく経過し、空は茜色にそまっていた。スマホの時計は18時になろうとしている。

 

「あー。疲れた」

 

 美音はスケッチブックを閉じ、頬杖をつきながら、相変わらず浮遊しているチリーンを見る。

 

「完成したの?」

「んー……。絵の具もあればよかったんだけどね」

「そっか……」

「っと、今何……ってもう18時じゃない! そろそろってか今すぐ帰らないと、ママに叱られちゃう!」

 

 美音はつけていた腕時計をみて、にわかに騒ぎ出した。

 

「18時だったら家につくの21時でしょ。今あわてても遅いんじゃない」

「あんたはいいわよ! でも私は合宿があるのよ。遅くなって寝坊とかしたらどうすんのよ!」

「いや俺にあたんないでよ……」

「あーもう……。チリーンちゃんには悪いけど、私達は帰んないと。行くわよ、翔」

 

 美音はリュックサックを持って、翔に促す。

 

「で、でも、チリーンが……」

「っ……。今回は見込み違いだっただけの話よ、合宿から帰ったら、また」

「やだ! 俺はチリーンといる!」

 

 翔はあくまでも強情をはり、腕を組んで座り込む。

 

「わがままいわないの! あんた置いて帰れるわけないでしょ!」

「それに、帰るたって道わかんのかよ。もう暗くなるんだぞ」

「うっ。そ、そんなのなんとかするわよ! ほら、帰るの!」

 

 美音が無理やり翔の腕をつかみ、帰ろうとした瞬間、チリーンの身体が強く発光した。

 

「な……。なに?」

 

 二人は思わずチリーンの顔を直視する。チリーンの表情は穏やかに笑っており、光の先へ吸いこまれていくようであった。

 

「もしかして、還っていく……、送られていくってこと?」

 

 美音はその意図に感づき、声に出す。

 

「え……。そんな。もう、いっちゃうの? せっかく友だちになれたのに……!」

 

 翔はチリーンの札を掴もうとしたが、わずかな差であるはずなのにそれは絶対に届かない壁であるかのように、チリーンは後ろへ、後ろへと光にいざなわれていく。

 

「……リーン!!」

 

 最後のその一声は昨日、田んぼの近くであげたときも遥かに高く、大きく二人の耳に響き、二人の意識を遠いところにやっていく。最後に見えたチリーンの表情には、やはり快活な笑みと、精一杯の感謝が溢れているかのようだった。

 

――

 

 二人が次に気がついたときには、鹿児島中央駅のコンコースの前だった。ふたりとも直立しており、ふと気がついたらそこに居たのである。

 

「あっ……あれ? 俺ら社にいたはずなのに……」

「うん……。ここはどうみても。鹿児島の駅よね……」

 

 二人は周囲を見回す。ついさっきまで居たはずの静謐で、自然の声以外はなかったはずなのに、今では駅のアナウンスや、家路につこうとする人々で一杯の駅前にいた。眼の前にあるのも森林ではなく、道路や数々の車、アミュプラザ鹿児島の観覧車が、そこであることを強く印象づけた。

 

「あっ、チリーン……チリーンは!?」

 

 翔は反射的にショルダーバッグを見るが、ジッパーを開いてもそこには可愛らしい風鈴のような生物はおらず、空虚なものであった。

 

「そ、そんな……」

「還ったのね……。送り盆の通りに」

 

 美音はうなだれる翔を納得させようと、冷静な声で言う。

 

「っ……。分かってる。分かってるのに。クソォッ……」

 

 美音は泣きじゃくる翔をよそに、ふと、駅にあるアナログ時計に目をやる。18時33分であった。

 

「翔。あの子はね、最後の最後まで、ポケモンらしかったのよ」

「えっ……?」

「私達は多分……。あの子のテレポートって技で、ここまで一気に飛ばされたの。だから見て、ほとんどあそこに居たときと時間変わってないでしょ。わたしたちの会話、理解していたのね」

「っ……!!」

 

 翔は泣きはらした眼を、美音に向ける。

 

「だから……。そんな顔しないの。私達は……、私と、翔君は、あるべき世界に還ったの……。だから、叔母さんにタルトを買って、帰りましょう? ね?」

 

 美音は諭して聞かせるように、屈んで視線を合わせて、にこやかな笑みを浮かべて、翔に言う。そこにはいつも彼を小馬鹿にしている、意地悪な従姉ではなく、優しい、あるべきお姉さんそのものであった。

 

「……うん」

 

 まだ泣き止んだ訳では無いが、その答えが、一種の鈴原翔という10歳の少年にとっての選択であった。

 

 

――――――――

 

 

 夏休みが明け、チリーンとのことも少し遠い思い出になりつつあった、9月半ばの学校。

 翔は窓の景色を眺めながら、少したそがれていた。

 あれから従姉の美音は、耶馬渓ではなく、あの風鈴(最初は原画のとおりチリーンにしようとしたが著作権の問題で顧問に止められたらしい)と古びた社の絵を全国コンクールに出し、特別賞を受賞した。中学生ではなかなかない快挙らしいが、翔はあくびをしながら半分気が抜けた様子で授業を受けていた。

 

「ずはら……鈴原!」

「は、はい!」

 

 黒板の前にいる担任に注意され、翔は現実に引き戻される。

 

「まだ夏休み気分が抜けないお前に、これを、解いてもらおうか」

 

 教師は罰とばかりに、少し意地悪な表情を浮かべて黒板に322×152-355の式をかいて見せる。

 

「さて、前にでて……」

「えっ、48589じゃないんですか?」

 

 面倒だなあと思いながら、立ち上がって黒板に出ようとしたが、自分でも不思議なほど早く、その答えがわかった。

 

「は……? い、いやお前、いくら分からんからって。でたらめ……」

 

 そう言いつつ教師は改めて黒板に向かい、チョークを手で少し振りながら、10秒ほど計算する。

 時間が経過するほどに教師の表情が変わり、それが正解であることを悟った。

 

「わ、悪かった鈴原。宜しい、座りなさい」

 

 教師は慌てて取り繕ったような表情を見せ、授業を再開する。筆算もせずに答えを的中させた彼を目の当たりにして、教室中がざわめいた。

 

「おい、どうしたんだよ翔。夏休み中、公文でもやってたのか?」

「あ、あーいやなんでかなあ?」

 

 翔はすぐに思い当たったが、後ろから話しかけてきた友だちのヤスにはそれとなくごまかした。

 夏休み中、チリーンによってもたらされたあの明晰な感覚、それが少しだけあの瞬間にやってきたのである。

 しきりにどうやったかを聞き出そうとする友の声を流しつつ、いわし雲が目立ってきた秋空に目を向け、翔はチリーンを思い出していた。

 

―終―

 


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