――今日は楽しい一日になる
私は毎朝、各駅停車に乗っている。
サラリーマンがいないため、ゆったりと座ることができる。朝、座席のクッションに腰を下ろし、うとうと舟をこぐ、そんな時間が気に入っているのだ。ホーム入り口から遠い5両目の扉横の席が、私の指定席。そこに腰を下ろすと、揺れが心地よく体に響き、すぐに眠気がやってくる。
「おはよー、未夢。眠そうなのに起きてるの、珍しいじゃん。私が起こさなきゃ終点まで行っちゃうくせに。」
「おはよう、結衣ちゃん…。夢見ちゃって目覚めたんだ…。」
学校の二つ前の駅で友人の結衣が乗ってきて、私を起こす。その後は一緒に学校へ向かう。それがいつもの日課だ。
さっき、電車の中で夢を見た。奇妙な夢だった。
長い夢を見ていたような気がするのに、1つのイメージ以外は忘れてしまっている。
下駄箱の前で女子が派手にこけて、靴が宙を舞う。妙に鮮やかな写真を見たような、不思議な感じ。
登校後、下駄箱で気づけば一人の女の子を目で追っていた。知らない子なのに、どうしてだろう。
「わ、わ、きゃああ!」
私が不思議に思っていると、つまずいたのか彼女が転びそうになった。私は咄嗟に手を伸ばして支える。
「あ、ありがとう!」と驚いたように笑う彼女に、私も驚きながら手を振って返した。
「すごいじゃん未夢!ていうか、あんなに反応早かったっけ!?」
「つ、躓きそうになってる所が見えただけだよ~。」
――あの子は夢でこけていた女の子だ!
人の目もあり、平静を取り繕っているが、起こったことが信じられず、驚きと困惑、少しの恐怖を覚える。
けれどそれ以上に、胸の奥は熱くて、嬉しくてたまらなかった。
――ただの夢が、役に立ったみたいだ。悪くない。むしろ、ちょっと気分がいい。
気がつくと、あの夢はただの偶然ではなくなっていた。
電車の中でうとうとしていると、妙に鮮明な夢を見ることがある。
たとえば先週。先生が校門で抜き打ちの服装指導をする夢を見た次の日、スカートの裾を直していたおかげで注意されることはなかった。
テストでヤマを空ぶる夢を見て、通学路で急いで見返した部分が出題された時は九死に一生を得た気分だった。
良くも悪くも目立った点数を取らなかった私が、平均点を大きく上回ったのだ。
「最近の未夢、マジで調子いいじゃん!私もあやかりたいわー!」
結衣にそう言われ、胸の奥で嬉しさが広がった。
──やっぱり、あの夢は私の味方だ。
そんな折に迎えた文化祭。その日もまた、夢を見た。
電車の中で見た夢は、ステージセットが崩れて女の子が巻き込まれる場面だった。
今まで見た夢とは比べ物にならない出来事。これが本当に起きるのか、100%決まっているわけではない。ただの夢かもしれない。
不安をごまかすように、そう自分に言い聞かせていた。
胸のざわつきが止まらない。
私は、理由をつけて裏方の仕事を手伝うことにした。
ステージに近づき、足場を見上げて確認する。
「何も分からない…。」
勢いでここに来た。でも、どこを調べれば異常が分かるかなんて、分からない。
――先生たちもOK出してたし、やっぱり大丈夫なのかな…
悩んでいると、何もできないまま本番が始まってしまった。
どうか何も起こらず終わって欲しいと願うしかできない。
歓声に包まれる会場。順調にプログラムが進行していく。
やっぱり大丈夫なのかな…。もうわざわざセット裏にいなくても…。
そう思った直後、バキン、と鉄が折れるような嫌な音が響いた。そして金属がきしむ音がする。
「危ない!」
咄嗟に走り出し、夢の中で見たのと同じ、白いワンピース衣装の女の子の腕を掴んで引き寄せた。
次の瞬間、轟音とともにセットが崩れ落ちる。観客席から悲鳴が上がった。
舞台にいた他の人たちは無事だった。
──彼女は私が動かなければ確実に巻き込まれていた。
確信をもって、そう思えた。
「ありがとう!ありがとう!ありがとう!」
涙ぐみながら抱きついてきた女の子の肩を受け止めながら、全身が震えていた。
「みんなー!大丈夫かー!」
「あの子が助けにいってなかったら、大変なことになってたぞ!」
「未夢―!怪我してないー!?」
口々に浴びせられる言葉に、胸の奥が興奮と熱で満たされていく。
でも、私には確信があった。──夢のおかげで、私は人を救えたのだ。
興奮冷めやらぬまま家に帰ると、母が小さな包みを差し出した。
「この前のテスト、よく頑張ったでしょ。お父さんも驚いてたのよ」
包みの中には、真紅に光るワイヤレスイヤホン。耳に差し込んだ瞬間、外の音がふっと遠ざかり、心地よい静寂だけが広がった。
私は即座にこれを気にいった。
テストも文化祭も、全部、上手くいった。
イヤホンをスマホに繋げ、新しくいくつかの音源をダウンロードする。
私はベッドに沈み込み、ケースを指で撫でながら、笑った。
全部上手くいく、心からそう思えた
「起きな、起きなってば。…お、目覚めた?おはよー、未夢。」
「おはよぅ、結衣ちゃん…。もぉ、いいところだったのに。」
文化祭から一週間が経った。特に大きく変わった出来事はなかった。
「てゆーか未夢、最近イヤホンしてるけど何聞いてるの、ちょっと貸して~。…ってこれ何?雨の効果音…?ガチ寝すぎ…。」
「別にいーでしょ、イヤホン返して~。」
イヤホンを直して、二人で学校へ向かう。
文化祭の後、私はますます夢にのめり込んだ。
電車に乗ればイヤホンをつけ、まどろみに沈む。
夢は、お告げのように私に導いてくれる。
そのおかげで、昨日も一昨日も楽しく上手くやれた。
その日に何を見れるかは分からない。
だから私は毎朝欠かさずイヤホンをつける。
一つでも多くを見るために、一つも見落とさないように。
けれど、ある時から妙な違和感が出始めた。
「このあと廊下で先生に呼び止められる」
そう確信して振り返ったのに、誰もいない。
「隣の席の子がノートを落とす」
そう思って手を伸ばしたのに、彼女は落とさなかった。
──夢と現実の境が、少しずつ曖昧になっていった。
雑談の最中に、「いや、それ聞いてないよ?」と友人に言われたこともあった。
自分では確かに彼女が話したと思ったのに、それは夢で見ただけの光景だった。
頭の奥がぐらりと揺れるような、不快な感覚が残った。
ある日から頭痛が増え、夜は眠れない日が続いた。
授業中にうとうとし、ノートにペンを走らせることすらつらい。
――何の問題もない、だって夜眠れないってことは、朝の電車で寝れるってことなんだから。
ある日の放課後、結衣が声をかけてきた。
「なに、結衣ちゃん…。結衣ちゃん部活あるでしょ、行かなくていいの。」
「そんなのいいよ。未夢、どうしたの?最近変じゃん…。」
「大丈夫だってば」
私は軽く流すように答えた。
問題なんてない、だって夢が教えてくれるんだから。
けれど結衣は食い下がる。
「最近、冴えてるのに妙に落ち着かないし、顔色だって悪いしさ…。その…クスリでもやってたり…。」
その言葉が胸に刺さった瞬間、こめかみの奥がズキンと痛む。
振り払うように、私は声を張り上げていた。
「そんなわけないでしょ! ふざけたこと言わないで!」
自分がこんなふうに怒鳴るなんて思いもしなかった。
結衣もまた、驚きで動きを止めていた。
呆然としている彼女を背に、教室を出た。
家に帰っても、彼女が驚いて黙り込む顔が頭から離れなかった。
頭痛と罪悪感を振り払うように頭を振る。
私は間違っていない。だって私は、私の夢は、特別なんだから。
次の朝から、私は違う電車に乗った。
──その翌週。
学校から帰ろうとすると、母が校門に車を停めて待っていた。
「いいから乗りなさい」
助手席に押し込まれ、車は走り出す。
着いた先は、見慣れないクリニックの前だった。
「やめてよ……」
私は抵抗しようとした。
けれど、力が入らない、母の手を、振りほどけない。
「フラフラじゃない。結衣ちゃんがね、最近のことを心配して教えてくれたの。喧嘩したのにそこまでしてくれる友達なんて、そういないわよ。」
裏切られた。そう思った。
けれど同時に、胸の奥がちくりと痛んだ。
診察室の中で、医師に症状を話すと、驚くほどすんなり薬が出された。
半信半疑で飲み始めた薬は、数日で効き目を見せた。
頭痛は和らぎ、夜も眠れるようになった。
眠れるようになると、朝の眠気も前より小さくなり、電車内でうとうとすることがなくなった。
一月も経つころには、私の心はずいぶん落ち着いていた。
そして私は、以前と同じ電車に乗った。ホーム入り口から遠い5両目。
3回目にして、この車両に乗る決意ができた。
今日、夢は見ていない。
「お、おはよう!結衣ちゃん。」
「お、おはよう…未夢。」
結衣ちゃんが電車に乗ってきた。いつもの場所で。
嬉しさと緊張で声が震える。
「この前はごめんなさい!それで…助けてくれて、ありがとう。」
一瞬、沈黙が流れる。
分からないのはやっぱり怖い、でも…!
「いや、ほら、私もさ、割とその、冗談にしても酷いこと言っちゃったし…。こっちこそ…ごめん…。」
結衣が尻すぼみになりながら答えてくれた。
私は勇気を必死に絞り出したというのに、あまりにあっけない仲直りで、つい笑みがこみ上げた。
「そ、そういえばさ!未夢が起きてる時にイヤホン着けてるの初めて見た!何聞いてるの?」
結衣は恥ずかしがって話題を逸らす。この友人ときたら、要領がいいのに真っ直ぐ来られるのが苦手なのだ。
友達との、懐かしく楽しいやり取り。
今の私の喜びをどう表現するべきだろう。
「洋楽だよ。イギリスの歌手さんでね、歌も本人もかっこいいんだ。」
電車で眠るために使っていたイヤホンも、今では音楽を聴くためのものになっていた。
心地よいメロディが流れると、静かな世界ではなく、鮮やかな音で満たされる。
それが楽しかった。
「じゃあ、私にも、聞かせてよ…。」
イヤホンと同じぐらい赤くなった結衣の耳にイヤホンをつける。
そうこうしているうちに駅に着き、二人で降りた。
たわいのない会話をしながら学校へと向かう
――ずっと夢見た結末だ
今日は夢を見ていないけど…。
楽しい一日になる、そう心から思えた。