キメ泣きして狛治君に幸せになってほしくて書いたクロスオーバーです。欺瞞が一切ない。イイネ?
拳からは、血が流れている。
道着は、返り血で湿っている。
足音はなく。ただ、血に塗れた足跡だけが、彼がいた事実を証明していた。
ぜいぜいと吐かれる息だけが、江戸の夜に響いていた。
彼が、小川に架けられた橋に足を踏み入れる。
気配を感じ取り、前を見ると。
髷を結い、額に縫い目のある壮年の男が立っていた。
「いやいや、これは驚いた。剣術道場撲殺事件――どんな術師の仕業かと見物に来たら。式神も見えぬ非術師とは」
男は微笑む。
彼は全てがどうでもいい。
只、男が帯剣している――侍らしい、ということ。
その事実だけで、彼が拳を男の心臓目掛けて振るうのに、十分だった。
「おっと、物騒だね。この身体は戦闘用じゃないんだが」
人間の心臓を貫き、脊髄を砕くのに十分な威力の右拳は、彼の掌で、優しく受け止められた。
掌に包まれた拳は、捻られ、廻される。彼は、手首が砕かれぬように、自ら宙に舞う――のが、定石のはずだった。
手首がへし折られ、右手が使い物にならなくなる。それをものともせず、彼は左の拳で正拳を突く。
拳は、男の丹田あたりに直撃した。まるで、不可視の鎧をまとっているような感触だった。
不可視の鎧を貫く。象の皮膚のような腹筋を貫く。樹皮を練り固めたような臓物を貫く。
玉鋼を鍛えられたかのような脊髄まで拳が当たり――それを貫くまでには、至らなかった。
「これを貫くか、仕方ないな。"シン・陰流"」
刀身が、鞘から高速で射出されるような抜刀術。男は額に汗一つのみ流し、拳を引き抜かんとして腹筋の力で止められている彼の左腕を、肘の部分から切断した。
「ぐ、う」
彼は、ただ呻くだけだ。もう、全てがどうでもいいと、理解しているから。
両の拳を失い、それでも鍛えられた身体は動く。大木をも割る廻し蹴りが、男のこめかみに触れようとして。
身体を回転させる隙に、男は懐から符を取り出し、それは火につけずともひとりでに焼き切れる。
それで、彼の勝ち目は完全に消え失せた。
金縛り。身体が一切動かなかった。異常なことに、左腕からの出血すら止まる。思考以外の時間が止まったかのように、眼球すら動かせない。
男の腹部の傷は、なんの妖術を用いてか、すでに癒えていた。
「君に何が起こったのか。少し、見せてもらおうか」
男は掌を組んで奇妙な印を結び。
彼の意識は、そこで途絶えた。
「……なるほど。婚約者さん、恋雪ちゃんの遺体は今どこに?」
「ふむ、亡くなった時刻から考えても、腐りきってはなさそうだね」
「――最近、少し思うところがあってね。家族、というものに興味が湧いたんだ」
「まずは腕を治そうか。今代の十種使いは円鹿まで行っていてよかったよ」
「――じゃあ、記憶を少し巻き戻そうか」
数日後、目覚めた彼が
通りすがりの善良な医者が、恋雪を蘇生してくれたのだという。
脳から毒を出すために開頭手術を行ったため、額に縫い傷が残ったが、生きていただけで、彼は救われた。
すでに脳が死んでいた慶蔵さんの無事な臓器から、幾つか移植した、とも言われた。
そんなことが可能なのか、と思ったが、目の前に生きた恋雪がいるという事実の前には疑いようがなかった。
時折妖しい笑みを零す彼女への違和感を無視しながら。彼は生きていく。
剣道場を襲撃した重罪人として、奉行所の追手から逃れながら。
健康になった彼女を背負い。
あの事件の後、
――――――
――気づいていた。
どこかで、気づいていたんだ。
彼女は、控えめに、それでいて朗らかに笑う人だった。人を見透かすような笑みを、彼女は持たなかった。
慶蔵さんが生前、まったく口にしなかった秘伝書の在り処を、なぜか知っていた。
秘薬として人面瘡を思わせる乾物を食べさせられた夜は、侵食してくる化け物を殺し続ける夢ばかり見た。次の日から、奇妙な力に目覚めた。
人の情念が視えるように。化物が見えるように。自分の情念を集約させ、破壊力に転換できるように。
まるで、以前から知っていたかのように、秘伝書を読み解く彼女は、明らかに――あの時死んだ彼女とは、別物だった。
その違和感への反証もあった。あの花火の約束を覚えていて、近くで花火がある毎に、二人で見に行くのをねだってきた。
看病の合間にお手玉を投げていることを覚えていて、手製のお手玉を贈ってくれた。
そうした事実をもってしても、奇妙な感覚は、拭えなかった。
だから、旅路の途中、ある宿に泊まった夜。
身体を重ねたいと言われた時、何か、気味が悪くて。
拒絶してしまって。そうして。
「ああ、死体と寝る趣味はなかったかな?」
恋雪の裡に潜むソレを、直視することになった。
「君の御察しの通りだ。私はね、彼女の骸を借りているだけさ」
「しかし、彼女の記憶が、想いが。この身体から流れてくる」
「だから、
「借り物ではあるけど、偽物じゃない。彼女がこの身体に遺した情念に、応えてあげてはどうだい?」
納得はあった。
恐怖もあった。
彼女の残滓への執着も――あった。
快楽とないまぜになった悍ましさに、事が終わった後に、胃袋に抱えていた全てを嘔吐した。
それから、胸の不快感は、生涯消えなかった。
彼女と、否、ソレとの旅は続いた。
道中で、多くの怪物――呪霊や、術師と殺しあった。
殺しあう度に、業は冴え渡り。
ソレに秘薬――呪物を飲ませられる度に、呪力は高まっていった。
旅の終着点。長崎の山里。キリシタンが隠れ潜む村で、祝言を上げた。
恋雪の胎に、子が宿ったと伝えられたから。
ソレは、その事実に喜んでいた。――一体、何に起因する喜色なのかは、問い詰めないことにした。
『病める時も 健やかなる時も 富める時も 貧しき時も 伴侶として愛すことを誓うか?』
そう問われた時、身体が震え、顔は青ざめ。胃からせりあがってくる吐瀉物を抑え込むので精一杯だった。
――結末として。
産湯から上がった赤子を見て、旅の意味を悟った。
溢れる呪力。赤子とは思えぬ肉体強度。そして――自分の性根を、見透かすような瞳。
嗚呼、このために、自分を生かしてきたのか。
耐えきれなかった。
赤子の頭に拳を振り下ろし――それは、彼女の手に遮られた。
「君ももう限界かな」
自分の胸に、いつものように優しく、恋雪の掌が触れ――それに、いつもより力がもう少し加えられ。
パン、という音が内側からした。
鼓動の音は停まり――胸部の不快感は、いつしかなくなっていた。
オギャア、オギャア、と泣き声が聞こえてきて。
もしかすると、これで良かったのかもしれない。
安堵。それが最期の感情だった。