夏になりかけて、けど春の残り香がまだ消えないある日の朝。仕事に忙殺される日々の中の、変哲もなかったある日の朝。
なぜだか唐突にすべてに限界を迎えた私は、気づけば駅のホームから急ぎすぎた一歩を踏み出していました。私の体は瞬く間に光の中に蒸発し、あっという間に肉片と血しぶきをまき散らしていました。
その状況を私は知りません。けれどその結果だけは知っています。
見たからです。直接、この目で。
意味が分からないかと思いますが、私も実のところよくわかっていません。わかっていませんけど、ひとつだけ確かなことがありました。
どうやら私は幽霊になったみたいです。
私は俯瞰していました。
死んだと思ったら、死んだ状況と私だったものたちを上から見下ろしていました。
わけがわかりませんでした。走馬灯だとするなら過去が見えるはずなのに、実際見えるのは進行形の現在なのですから。
けど見下ろす足が薄く透け、向こうが見えていたことから、
けどそこでまた困惑が生まれました。なぜ私は幽霊になっているのか。死んだことが原因なのだとしても、幽霊になる理由とはなり得ないでしょうに。
だとするなら何か未練ようなものがあったのでしょうか。
恨みや執着といった、残してしまった何か。
けどどれだけ考えても考えても、思い当たることが何もないのです。
私はあの光に呑まれるまで、あるいは呑まれた瞬間も、頭の中は薄灰色の虚無でしたから。
だからないのです。私が幽霊になる理由がどこにも。
考えても、何もわからないことだけが鮮明になっていきました。
なのでもういっそ一度考えることはやめてしまうことにしました。
そして、私が生きていた世界は果たしてどんなものだったのか、改めて見てみることにしました。
私が死んだ後の世界。多分そんなに変わらない世界。
本当はこの世界は、どんな色をしていたのか。どんな風にできていて、どんな形をしていたのか。
見てみようと思いました。
幸い地縛霊などではないらしく、自由に色んなところに行くことができるみたいでした。
ふわふわと飛ぶ感覚は、例えるなら水に揺られるような感覚で、けれど水の冷たさも温かさも包み込む感覚もないから、気持ちいいかと聞かれたら正直微妙です。
けど人間誰しもが一度は夢見る空を飛ぶことが、死んだ後とはいえ叶っているこの状態は、少し楽しいものでした。
最初に見えてきたのは、私が勤めていた会社のオフィスでした。
死んだ後でさえ最初に来るのがこの場所だなんて、社畜根性が染み付いているとしか思えませんね。
窓は閉め切られていましたけど、幽霊にとってはあってないようなもの。簡単にすり抜けられました。
窓をすり抜ける感覚は、水の中へと一瞬潜ってすぐに出ていくような感じでした。水の膜を通り抜けるようなものかと思っていましたけど、よく考えたらそんなことはしたことがなかったので、似ているかわかりません。けどやってみたらきっとこういう感覚なのかな、と思いました。
見てみたら、私が事故を起こしていることに慌てている様子でした。心配している人もいれば、頭を抱えている人もいました。けれど多分、私の心配は誰一人とてしていなくて、この後くるだろういろんな皺寄せや事務仕事の方を憂いているのでしょう。
わかっていたことではありましたが、やはり申し訳なく、そして同時に寂しく思いました。
しばらく見ていると、慌ただしさは次第に消えていって、それぞれが自分の業務に戻っていきました。立った白波が凪に戻るような、一瞬のうねりのように見えました。申し訳なさはいつしか消えて、寂しさだけが残りました。
私がいなくても、きっと何も変わらない。代わりなんていくらでもいる。わかってはいたことですけど、こうして目の当たりにすると、どうしても心に来るものがありました。
私がいつまでここにいられるかはわかりかねていましたけど、せめていられる間は様子を見ていたいと思ったので、それからも眺めていました。
何日か眺めていたらわかったことがいくつかありました。
たとえばあの先輩。いつもしっかりしていて頼りになる先輩でした。けど机の引き出しの一角には、チョコやマシュマロといったお菓子がぎっしりと入っていました。仕事で一息つきたいとき、なんかむしゃくしゃしただろうとき、ことあるごとにひとつつまんではぽいと口に入れていました。
あの上司。いつもタバコ休憩が長くて、心の中ではよく思っていなかった人。けどもっと上の人からの無茶な注文やご機嫌伺いに、部下の方でもご機嫌伺いしては取りまとめて、そして様々な事務書類を片付けてはまた誰かの顔色を伺う。そんな中で自分を納得させたいと思っているのでしょう、タバコを吸っているときの顔は、想像できないほど重たい表情でした。
あの同僚。私より仕事ができていて、密かに尊敬していた人でした。けど帰る時はいつもコンビニに寄って、お酒を買っていました。不思議に思って一度だけ家までついていってみたのですが、部屋は世辞にも綺麗とは言えなくて、そんな中でお酒の空き缶をひたすらに増やしていく姿は正直見ていて心苦しいものでした。
他にも色んな人を見ていましたが、そういった人たちばかりでした。
驚きましたが、けどああ、きっとみんなそうだったんでしょう。色んな人たちを見て、それがようやくわかってきました。
大変な中でなんとか頑張ろうと、どこかで折り合いをつけるために、自分なりの方法を身につけていたのでしょう。
それが体に悪いことでも、人から良いように見られないようなことでも、その人にとってはとても大切な、寄りかかって心を休められる止まり木になっていたんでしょう。
ああ、となれば私は、真面目すぎたんでしょうね。
思えば学業でも、仕事でも、それ一辺倒で脇目なんて一度も振ったことはありませんでした。
恋愛だとか、娯楽だとか、まるで触れてきたことがありませんでした。
けどきっと、それがいけなかったんでしょう。だからあの時に、私は一歩を踏み出してしまった。
周りの誰もを顧みないで、どうなるかなんて考えないで…いや、違う。考えることさえ億劫になって、身を投げ出してしまったんだ。
私の最初で最後の自堕落でした。
そうなる前に、どこかで戻れるくらいの高さから落ちていればよかったんでしょう。
帰りに寄り道して、コンビニで買い食いをしていれば。
休みの日に昼まで寝て、のそのそと過ごす日があったら。
飲み会に行って、やいやいと騒ぐ時を作れていたなら。
ほんの少しの自堕落が、今を生きる人たちを支えている。
最後の最期でやっとわかりました。しょうがないったらありませんね。
さて、もう時間のようです。私はもう旅立ちます。
死んでしまった人はもう、生きている人に関われるようなことはありません。だから私にはもう誰に何を伝える術なんてありません。
けどもし、誰かに私の言葉を伝えられることができるならば、どうか自分の自堕落を許してあげてほしいのです。
張り詰めすぎた糸はいつか千切れてしまう、だからその前に糸を緩めてあげる必要があるのです。そして千切れた糸は、もう戻りません。
だから少しの自堕落というのは、そういった休める時間なんだと、自分を大切にできる時間なんだと、そう思ってほしいのです。
死んでしまったからもう何もできませんけど、もし生まれ変わりというものがあって、いつかその時が来たなら、ちょっとだけお節介で、ちょっとだけ自堕落な…
ああ、次はそんな人になりたいな。
〜 よしんば人物紹介 〜
・風見鈴
死んだ人。個人的にはボブメガネタレ目を想像しながら書いてた。幽霊になった理由は作中では明確に描写していなかったが、「なぜ急ぎすぎた一歩を踏み出してしまったのかがわからなかったから」幽霊になった。無意識に引っかかってたんだろうね。
・先輩
糖尿病気をつけろよ。
・上司
ヤニカス。
・同僚
酒カス。
この辺の不健康トリオは上手く不健康なジャンルを分けたかった。
・作者
お久しぶりですね。前作から一年ですって。何本も並行して書いてたらこうなっちゃいましたてへぺろ。よくないですね。ちなみに今作はある日にふっと頭に降りてきて、ピンからキリまでの流れが全部瞬く間にできたのですが、出力を途中でサボってしまったために時間がかかったタイプの作品です。ではまた一年後。