人の声が遠くから聞こえた。誰かが平民を罵る声。子どもの泣き声が途切れ、すぐに乾いた破裂音。泣き声は雪片のように消えた。森の陰から見る市民村は、地獄としか言いようがなかった。
「なんだ、この村は——」
森の湿気が皮膚に張りついた。息を吸うたび、焦げた麦の匂いが喉を刺す。村へ近づくほどに足が重くなる。命令を果たすための行軍なのに、靴底は鉛のようだった。
見なかったことにすれば、楽になる——そんな囁きが頭のどこかで響いた。
視界に映るのは磨かれた石畳と、上流階級を思わせる清潔な衣服。だが縁へ目を落とすと、鎖で繋がれた平民の列がひたすら働かされている。光はきれいに弧を描き、窓ガラスは鏡のように顔を返す。境界は薄い鏡だった。ただの反射じゃない——奪う側に立つ、自分の影だ。
喉の奥に鉄の味が残った。見慣れたはずの秩序が、裏返った鏡のように腐って見える。正しさの名を借りた収奪。命令に従うほど、自分の手が汚れていく感覚。“また同じことを繰り返すのか”――脳裏に、灰に沈んだ村と泣き声がよみがえる。
「結局、三身分は同じことをしているのですわね」
マリアンヌが静かに言う。まぶたがかすかに震えた。怒りではない、絶望に似た諦念。王族として見てきた特権の影。
「『救う側』が『支配する側』に変わる瞬間を、何度も見ました」
今この村も、その延長線上にあるのだと悟る。だが彼女は歩みを止めない。正義が欺瞞でも、人を守る意志だけは本物だ。
「もっと近くまで行こう。ついてこい」
「アルト、俺はここで分隊員と見張る。撤退支援は任せろ」
シュナイダーが退路を固める。足取りは機械のように確かで、腰の刀が重い音を立てた。
俺たちは村へと進む。一キロの平原が、こちらの姿をさらす。心拍が上がるのを感じながらも、歩調は崩さない。村から生活音が立ち上がる。張り詰めた空気が肺に触れ、喉の奥がぎゅっと縮む。鎖の金属臭と、染み込んだ油の匂い。
平民は整然と並ばされ、精霊も同じ列に立っていた。男の精霊は酷使され、女の精霊は子を産むためだけに据え置かれる。資源は一か所に集められ、誰も笑わない。鏡に映った自分の顔を見て、境界の向こうが見分けにくくなる。
「これじゃあ、私たちが勝っても、次も奴隷でしょ?」
リリアの声が震えた。視線が合う。
“兄さんも、こういう場所を壊したことがあるの?”
目がそう語る。答えた瞬間、何かが壊れる気がして、俺は言葉を飲んだ。明るさで覆った声の震えは、恐怖よりも怒りに近い。世界の仕組みそのものに抗いたいという幼い反発。だがその反発すら、血の鎖に縛られていた。
「これ、レアカードじゃん。【井戸底の赤子】とか【呪われた聖母像】……なんで、こんな強いモンスターが捨てられてるの?」
「オーバーレイ……カードを重ねて共鳴させるモンスターか。デッキは見当たらないのか?」
ユーリは地面に落ちたカードを拾い、付着した血と泥を見る。胸が締めつけられるように痛い。指先が震えた。盗人としての勘で次々とレアを引き当てるが、肝心のデッキは見つからない。近くには、壊されたソウルボードと灰が山のように積まれていた。
(なるほど。デッキが燃やされているのね)
積み上がるソウルボードの残骸——価値のある札だけ抜き、残りは“管理廃棄”。拾い集められたレアは、もう誰のデッキにも戻らない。破壊されたソウルボードとレアカードに手を合わせ、村の偵察を続ける。
歩みの先に、少年の影が震えている。こめかみで伝令紐が跳ね、薄汚れた軍装が似合わない。市民兵の少年だ。ユーリの眉が引きつく。恐怖が目の奥で踊り、同情が胸に重なる。二つの感情が同時に立ち上がり、ユーリの顔を曇らせた。
「こんにちは。作業に戻ったほうがいい。市民階級の皆様を煩わせたら、精霊のように繁殖奴隷にされますよ」
「忠告ありがとう。すぐ戻るよ」
少年は怯えた笑みを作って答えた。ユーリは何か言いかけ、手を差し出しかけて、すぐに引っ込める。手のひらが冷たく震え、言葉が喉で詰まった。向こう側の顔は、鏡に映った自分と同じ距離と角度で、こちらを見返している。
「敵の顔が、自分に似て見える」
俺は小さく呟く。鏡のように、世界は自分を映す。命令に従って人を縛る者と、命令に縛られて動く者。どちらが罪深いのか。灰になった村の記録を書いた夜、報告書の最後の行を思い出す。“平和のための奴隷制度を肯定する”――自分が記した文だ。
今、その文が喉を焼いた。
「アルト。わかっていると思うが、敵を人として見るな。命令を完遂しろ」
シュナイダーの声が冷たく割り込む。
(アルト、心が濁っている。境界を見失えば、あなたまで焼かれる)
(……分かっている。だが、人を見殺しにしてまで正義を守るのか)
(正義は絶対ではない。あなたが“選ぶ”こと)
セイランの声は静かだった。炎の中の水のように、冷たく、痛い。言葉に呼吸が浅くなる。理と情の線が、再び曖昧になる。命令の言葉は鋼で、鏡に亀裂を入れる。境界はもう一度役割を取り戻す。幻のように見えた同情は、命令の前で薄くほどけた。だが、鏡の向こうで少年が小さく肩を震わせたことを、俺は忘れない。
村を見て回る。兵士の忠告どおり、歩き回る者は少ない。
「お兄ちゃん。この村から、市民階級だけ追い出す方法はない?」
「待ってろ。考える」
村はずれへ移動する。構造を頭に浮かべる。中央に資源カード生産施設、周囲に住宅と農場。人間専用の精霊界もあり、中は一面の農地だ。農作物は生産施設へ運ばれ、カード化され、倉庫に置かれる。
「リリア。開拓村の資源カードは、倉庫のあとどこへ運ぶ?」
「最寄りの村から都市へ。ここは私たちと違う男爵領だから、この領地の男爵様の帳場に入るはず」
この村から外へ出る道は一本。敵対村の奥へつながり、常時の遮断は難しい。歯を噛みしめる。
「もっと住民の様子を見よう」
「ならば資源カードの生産を行いましょう。資源カードは、バトルエナジーを込めることで生成されますわ」
「たしか、カードパック生成や誕生カードと同じ原理だよな」
バトルエナジーを圧縮すれば、カードは生まれる。俺は膨大なエナジーをカードに込めた。
「業務用だな。五トンの資源から、同量を具現化するカードが作れる」
「でも、こんなの見たことない。開拓村や従属村にあるのは生活用カードで、灰化寸前のばかりだったよ」
「私もありません……」
「この設備、百倍増幅の機械ですわね。けれど、全部持っていかれる」
リリアとユーリがカードについて感想を述べる。二人とも、貧しかった頃を思い出したのか、顔色がかすかに曇った。マリアンヌは視線を村人の顔から逸らさない。
奪われる予定の業務用資源カードに目を落とす。彼らを“救う”と言えば聞こえはいい。だが、それはまた別の支配の始まりかもしれない。リリアは拳を握り、歯を食いしばる。兄の指示が正しくても、心が拒絶している。ユーリは俯いたまま。銃の引き金が、やけに重い。セイランは静かに見ていた。
“この世界は、まだ痛みを記録できる”――その事実だけが、わずかな救いだった。
息を整える。感情を押し込み、軍人の声を出す。
「……作業を開始しよう」
命令を口にすると、胸の奥で何かが金属のように固まった。それが、罪悪感を押し込めるための“音”だと気づいた。
「アルト様、急ぎましょう。もうじき出荷が始まりますわ」
「わかった」
百枚の業務用資源カードを作る。五トンの小麦が、五百トンに増えた。これだけあれば、この開拓村の人間が食いっぱぐれることはない。では、どこへ消える?
百枚のカードを抱え、集積場へ向かう。村人は子どもも大人も、精霊も人も区別なく働かされている。働けなくなった者は、市民階級の兵が銃で処分する。村人には銃も、ソウルボードもない。
「出産だ! 急いで神殿へ運べ!」
女の村人が市民階級に連行される。静寂の中で、嗚咽がいくつも喉の奥に押し殺されていた。子を抱いた女が歯を食いしばる。老人が小さく祈りを唱え、それを見た兵士が笑った。その笑いが、火薬より先に空気を裂いた。人の列が後を追い、俺たちも足を速めた。
「これより出産の儀。子どものカードを出せ!」
母の持つ魂入りのカードを、市民階級がソウルボードで召喚する。八人の子が現れ、いっせいに泣き出した。
「お願いします。子どもからカードだけは奪わないでください!」
「ダメだ。カードとソウルボードは没収だ」
生まれた子どもたちのデッキとソウルボードが奪われる。目の前で破壊され、レアカードだけが抜き取られ、残りは火に投げ込まれた。
「市民のやつらめ……」
「そこ。俺たちに文句があるなら言ってみろ」
誰かの低い呟き。次の瞬間、マスケットが乱射され、十人が腹を撃ち抜かれた。俺たちは神殿の外へ躍り出る。中では怒声と悲鳴があふれ始める。風に吹かれた灰のように村人たちは大挙する。
「待て! 逃げても無駄だ。俺たちの協力者は大勢いる。逃げ切れると思うな!」
市民階級の男が叫ぶ。銃を放ち逃げる村人の背中を撃つ。村人たちは倒れた村人を踏んででも逃げ続ける。
「俺は市民階級を倒して、村人の逃亡を支援する。お前らも手伝え」
子どもの泣き声が、撃鉄の音にかき消された。もう一発、鳴らされる前に——俺は踏み込んだ。もう一人も斬り伏せる。血の重みが手首に残る。土の匂いが戻ってきたとき、俺はようやく息を吐いた。市民たちは誘導に従い、ブルス第四開拓村の方角へ走り出す。
「いいか。このまま戻って、夜逃げを支援する。夜逃げなら、少数でも救える」
「全員は救えないの……?」
ユーリが赤い瞳を揺らして問う。俺は迷いながらも首を振る。
「全員は無理だ。やれば、市民軍が本気で追い詰めて、皆殺しに来る」
「ええ。この世界で平民の命は軽いですもの。逃亡となれば、見せしめに全員殺されますわ」
マリアンヌの声に棘が混じる。リリアは無言で頷いた。森の方へ走る。馬の嘶きが近づく。天高く土煙が上がり、逆風がこちらへ吹く。間合いに合わせて刀を振る。肉の重みが刃を引き、足が一歩、後ろへ流れた。
「逃げろ!」
斬り口から温い血が滴り、土に黒い円を描いた。風が一度だけ向きを変え、焦げた火薬と獣の匂いを運ぶ。俺たちは息を整え、藪に身を沈めた。
「負傷は?」
「かすり傷が二。動ける」
シュナイダーが短くうなずき、地面に小枝で地図を描く。街道、丘、集積場。荷駄の通る轍は深く、夕刻には必ず列が伸びる。
「見張りは三交代。俺が北の尾根、ユーリは集積場の屋根。リリアは橋の下に待機、合図で道を落とせ」
「了解。杭と油、仕掛ける」
リリアが背嚢から鉄杭と縄を出す。油袋が月光を吸い、鈍く光った。ユーリは屋根へ走る前に、袖で頬の血を拭った。
「アルト。あなたは?」
「南の藪で待ち伏せる。セイラン、風を読め」
(西から湿気。今夜は霧が降りるわ)
霧なら足音が吸われる。火は遅れて見える。好機だ。
マリアンヌは静かに村へ戻り、女と子どもに短い指示を配った。
「灯りは消して。荷を三つに分けて、音のしない包みに」
泣き声を布で包む仕草が伝染し、広場の空気が一段沈む。誰もが声を捨て、代わりに手を速めた。
「合図は二つ」
俺は指を立てる。
「梟の口笛が一度――見張り排除。二度――荷列突入。三度目で撤収だ」
霧の中で、誰もが小さく息を吐いた。リリアはロープを握りしめ、手の甲が白くなる。ユーリは銃口を覗き込み、鏡のように曇った自分の瞳を見つめていた。誰も声を出さない。それでも全員が、同じものを待っていた——夜明けよりも冷たい“合図”を。砂の上で、封蝋の赤が脈を打った気がした。命令は沈黙したが、鎖の重さは消えない。
(選ぶのは今夜よ)
セイランの声が浅く響く。俺はうなずき、泥に刃を軽く差し込んだ。刃が湿った音を立て、夜の入口が開いた気がした。霧が草の先で丸く重なり、虫の声が細くなる。息を潜めるだけで、刃が一段軽くなった。