風が止む。蹄音だけが平原を刻み、霧の奥に三つの灯が揺れる。先頭、殿、予備。息を殺すたび、肺の奥で灰の味が舞い上がった。
手袋越しに刀の峰を撫でる。磨かれた鋼がわずかに光を返す。鏡だ。映るのは命令に従う兵の顔か、それとも——。
副隊長のシュナイダーが肩に触れた。短く、重い圧。合図。
境界は見えているか、と無言で問われた気がしてうなずく。手信号。影の塊がほどけ、三つの矢に分かれた。
「——突撃!」
「第一、突入します!」
「第二、電光石火で制圧!」
「第三、後方支援に回れ!」
号令と同時に闇が裂ける。圧縮した戦気が弾け、衝撃波が草原をえぐった。馬車を牽く馬が悲鳴を上げ、御者が宙に跳ねる。油煙が舞い、夜の匂いが一瞬で火薬に変わる。
「恨みはないが——死んでもらう」
口にした瞬間、胸の奥が針に刺さる。舌の上で灰が崩れるような、乾いた痛み。
(アルト、呼吸よ。敵のことを考えすぎたら何もできなくなるわ)
セイランの声が冷えた水の芯で鳴る。
(鏡は境界。映った影に呑まれれば、あなたは灰に還る)
「中を確認! 資源カードを発見したよ!」
ユーリが荷台に飛び乗る。膝がわずかに震え、額の汗が油膜みたいに冷たい光を拾った。死者のそばで一息、祈りの形だけを結ぶ。
「種類は?」
「小麦が多いね。護衛の腰に油の資源カードが一枚」
「よし。油は街道に帯状に撒け。小麦は風下で確保、火は護衛と車両だけに延焼させろ」
ユーリがカードを起動。淡い光が走り、油が地表を黒い帯に変える。夜に溶けるその黒は、月のない空を鏡のように映した。そこに揺れた影が二重に見え、彼女が一瞬、視線を落とす。
指が強くカードを握り直した。
俺は戦気を重ね、火の精霊を喚ぶ。炎が走り、馬車列が一斉に燃え上がる。ぱちぱちと弾ける音が、昔焼けた村の柱を思い出させた。灰が、また増える。
(灰は記録。焼け跡に残る白は、この世界に存在した証よ)
「選びたくて選ぶわけじゃない」
(それでも選んだ分だけ、あなたの影は濃くなる)
「回収班、急げ! 増援が来る前にカードを運び出す!」
「了解!」
第一分隊が走る。焦げた空気が肺を刺す。燃えた穀粉が雪のように舞い、頬に貼り付く——白い灰。払うたび、掌に羽の形が残り、崩れて消えた。
マリアンヌが炎光に現れる。頬に煤の線、瞳は揺れない。倒れた捕虜の腕章を拾い上げ、血と灰を指先で払う。その仕草は、礼拝堂で古い聖像から埃を払う手つきに見えた。
「アルト様。この者、別の狙いが来ると言っていました」
「別の狙い?」
「黒翼——盗賊団の名です。輸送隊を狩る者たち」
「盗賊団? ただの略奪者では?」
「物資を奪い、どこかに流している、と」
胸の奥で何かが軋む。理に従うはずの路が、灰で埋まりつつある。マリアンヌは腕章を炎にかざす。縫い目が黒く光り、一瞬、羽の影に見えた。
「第一、回収率七割——撤収線へ!」
シュナイダーの怒鳴り声が鋼のように地形を切り分ける。彼の視線は火にも羽にも逸れない。ただ退路の角度と風の向きを計算している。
「第二、遮断射撃——三、二、一、今!」
短く刻まれた銃声。火の縁で影が一つ折れた。リリアが砲兵隊に指示を出し砲撃を放つ。暗闇を切り裂く砲撃の音。大地がハンマーでたたかれたように崩れる。沈みやすい土を選んで撃つその癖に、耕し慣れた者の記憶が残っていた。
「起爆は私。合図で落とすから!」
炎は高く、空は低い。刀の峰にもう一度、顔を映す。汗と煤で汚れた顔。鏡のこちらと向こうが一瞬、重なった。
(アルト、こちらへ戻って。敵のペースに持っていかれそうになってるわ)
「中を確認、まだカードが残ってます!」
ユーリの叫び。手袋の甲に積もった灰が羽根の形になる。彼女は息で吹き払う。脆い羽は宙に散り、すぐ見えなくなった。
「第二、遅滞戦闘! 第一・第三は離脱路へ!」
「負傷者は風下へ。灰の流れで視界を遮りなさい」
俺は最後尾へ下がり、炎の縁で刃を振る。反射した白が翼の線を描き、心臓が跳ねる。目を凝らす。煤が風に三度、同じ形で舞っただけだった。
「回収完了! 撤収に移る!」
「全隊——離脱!」
火に照らされた地面に灰が雨のように降る。
靴跡は浅い舟となり、灰を載せて沈む。
(沈む前に渡れ。西から湿気。鏡は曇る。今なら影は薄い)
退路へ折れたとき、ユーリが躓く。油帯に薄い水鏡ができ、そこへ彼女の顔が落ちる。
反射的に掌をついた瞬間、水と油と灰が混ざり、指跡が羽根の縁取りになった。
「すまない——」
腕をつかんで引き起こす。
「前だけ見ろ」
(鏡は割るときがある)
踵で油鏡を払う。波紋が走り、翼の影が崩れた。橋の手前でリリアが合図する。
「今!」
杭が抜け、油を吸った藁束が落ち、短く炎が走る。火と灰が噴き上がり、追手の視界を焼いた。
「よくやった!」
シュナイダーの声。すぐ次の角度が指示される。彼の足跡は地図となり、灰が細い白墨のように線を見せる。
藪影に入る。燃え残りの枝に白い灰が薄く載っている。一本摘むと、掌で崩れ、羽の粉になった。吹けば舞い、闇に消える。
(灰は消える。けれど、匂いは残る)
焦げた麦と油の匂いが喉を焼く。咳を呑み込み、振り返らずに歩を進めこの場を去った。
仮設指令所に入ると、マリアンヌが淡々と報告書をまとめていた。机に灰が落ち、紙の端に黒い指紋が残る。市民第4開拓村の従属村。そこが新たな目的地となった。
「灰は燃えた証ですわ」
「証、ね」
灯の下で紙面に落ちた影が、自分の瞳を溶かす。
逃げ場のない現実ほど、よく映る。
カードを回収したユーリは壁際で油布を絞る。手の甲に火傷、灰が染み込んでいる。
「……まだ熱いのに、冷たいですね」
「灰は、燃える前の温度を覚えてる」
彼女はかすかに笑った。
「なら私も、少しは人間のままかもしれないですわね」
封蝋を落とす。双頭鷲の印。蝋の表に黒い染みがにじみ、羽の形に見えた。
マリアンヌが眉を寄せる。
「偶然ではないでしょう」
「帝国の印に“黒翼”を仕込む——誰の意志だ」
「命令に見せかけた、沈黙の意志ですわ」
沈黙。最も整った命令。
何も言わず、灰のように人を動かす。
報告書をシュナイダーに渡す。彼は蝋を指で擦り、鼻で笑う。
「便利な言葉だな、“調査行動”ってやつは」
「見なかったことにしろ、と」
「それが理だ。軍人なら、鏡は割るな」
「……理か」
胸の奥でセイランが揺れた。
(理は線、情は呼吸。どちらが先に途切れても、世界は沈む)
「命令は命令だ。黒翼の流通経路を突き止めろ。闇市に潜る」
ユーリが顔を上げる。
「闇市……この従属村の地下だね。黒翼が取引してるって」
リリアがベルトを締め直す。
「軍服のままじゃ、即バレだよ」
「今夜は商人だ」
マリアンヌが頷く。
「買い付け名目は穀物、油、精霊。足はつけません」
軍装を外し、商隊の外套を借りる。
水面を鏡代わりにすると、見慣れない影がこちらを見返した。
「映り込みがあるうちは、まだ理性が残ってますわ」
マリアンヌの横顔は澄んでいた。闇が深くなれば、鏡は消えるだろう。
馬車で村外れの廃坑道へ向かう。
霧が低く、灰色の羽みたいに流れていく。
(この霧は理の欠片。あなたが焼いた灰の上を通っている)
「理は灰を忘れないのか」
(忘れたふりをして、積もり続ける)
夜明け前の風は冷たい。灰の匂いがまだ残っていた。
──廃坑道を抜けた先、闇市化した従属村・地下層。
湿った空気。金属と魔力の匂い。石畳に染みた油が薄く光を返し、地面までも鏡になる。
「……ここが、同じ帝国の地だなんて信じられない」
「秩序の裏には、こうした補助構造がございますわ」
マリアンヌの声は硝子の線のように真っ直ぐで冷たい。
青白いカード灯が低い天井を照らす。通路の両側で黒外套の商人が取引を続ける。油、穀物、鉱石——そして、精霊カード。棚の奥で羽根のような光がかすかに揺れた。
(あれは……魂の断片。人と理の境界を抜けた羽。秩序が剥がれるたび、ああして市場に流れる)
そこへ男が一歩、こちらへ出た。銀の帽章、黒い羽根飾り。片眼鏡の奥の目が笑う。その笑いに、胸の奥の灰がざわつく。
俺は名を呼ぶより先に、指で刀の峰を押さえた。鏡がわずかに俺の顔を返す。
「バルド! こんなところで何をしてるの?」
リリアの声が跳ねる。その頬に一瞬、昔の午後の光が戻った。孤児院の裏庭、ひび割れた水面を覗いたあの日の温度が蘇る。
「……やっぱり、君らか」
バルドは肩を竦め、小さな銀貨を掌で弾いた。くるりと回る面。片側は鷲章、もう片側は黒い羽。その羽が鏡のように俺の目を映した。
「再会の挨拶は嬉しいけど、ここは勘定が先だ。買う側か、売る側か。あるいは——黙って見ている側か」
「待って、バルド。あなた、本当に……ここで商ってるの?」
リリアが踏み出す。
「あの庭で皆でパンを分け合ったあなたが?」
「分けたろう?」
バルドは片眼鏡を押し上げ、笑みを鋭くした。
「分けるには流れが要る。停まった祈りも、滞った善意も腐る。だから俺は回す。価値を、命を、願いを。等価にね」
「等価……?」
「孤児院でパンと引き換えに君が差し出した“明日の労働”——あれだって交換だろ」
リリアの拳が震える。
「でも、精霊まで札にするのは——」
「札にしなければ、灰になるだけだ」
バルドは棚から赤い庭門の意匠のカードを摘む。
「【紅き庭の守り手】。覚えてるか。君が水を撒いて、俺が花を踏んで怒られた庭だ。今は銀貨20枚という値だけが残ってる」
「値なんて、要らない」
「戻すには、代価が要る」
カードを差し出す手が、かつて割れた鏡片を渡した時と同じ角度だった。
「で、君らはどっちだ。買うのか、売るのか。それとも今夜も、見なかったことにするのか」
俺は息を殺し、答える。
「買い付けだ。穀物・油・……精霊」
「いい返事だ」
銀貨が掌に落ちる。黒い羽の面が上を向く。薄い鏡が、俺の目をもう一度映した。
「通行税。烏の小路のルールだ。——忠告。南の坑道は二刻で閉じる。“光の客”が来る前に終えな」
「光の客?」
マリアンヌが目を細める。
「アーデル・ヴァン=ヘリオス。『浄火の勇者』。焼き残しの灰を見ると、身体がむず痒くなる御仁でね」
バルドが指を鳴らす。幕が降り、棚の影がすっと薄くなる。
(アルト、風が変わる。正義の圧が近い)
通路の奥から銃声。悲鳴。炎。油が溢れ、火が鏡面を滑るように広がる。
「撤退だ!」
リリアが動かない。燃え上がる棚の前で【紅き庭の守り手】が炎に呑まれていく。
「……あの庭も、焼かれた」
その声は崩れた祈りのように小さい。炎の反射に、二人の俺が映る。命令を叫ぶ俺と、立ち尽くす俺。
(戻って。鏡の中に立ち続ければ、あなたの羽は灰になる)
「……灰でも、残れば証だ」
(証は羽じゃない。呼吸。命令の外にある鼓動)
黒い羽根のカードが風に舞い、空中で裏返った。刻まれた名——【理の影】。
(呼んではいけない! 結界を食う裏位相!)
青白い光が天井を走り、魔力が暴発。灰が渦を巻き、羽の軌跡を描く。リリアが悲鳴を上げ、ユーリが抱き寄せる。マリアンヌの結界を黒い羽がすり抜けた。
「撤退だ! 南の坑道を抜けろ!」
鏡のような空気が割れる。黒い羽が灰になり、灰が羽のように舞い上がる。秩序と影が溶け合い、音のない風が吹いた。
坑道を駆け下りる途中、地上で白い光が夜を洗う。地鳴りのない火——誰かが呟く。
「浄火だ」
風向きが変わり、焦げの匂いが一瞬消えた。
(アルト、あれが“光の客”。灰の匂いを奪う火だ)
崩れた梁の隙間から風。羽の粉が細い尾を引いて暗闇に消える。俺たちは息を合わせ、土の匂いのする出口へ走る。掌の中で銀貨が冷たい音を立てた。黒い羽の面が、再び俺の顔を映す——小さな鏡のように。
(その羽は取引。払うのは誰か、受け取るのは誰か)
「……次は、俺たちが値札を剥がす番だ」
背後で白光がもう一度瞬き、灰が舞い上がり、静かに落ち着いた。