今日では四天王寺から大阪城へと続いている、南の生駒山地から大阪平野に舌を突き出した様な台地の片側に沿って、当時は淀川に合流する大和川が流れていた。
その大和川から大阪湾へと排水するように掘られた「難波の堀江(なにわのほりえ)」と呼ばれる運河が古代に在った。
その堀江の岸で、とある人物が指図して何人かの後世で言う処の作業員が何らかの作業をしていた。
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公式によると、日本で最も古い仏像は信濃善光寺の秘仏に成っている本尊だとされている。
更に善光寺自身が主張し、そして多数意見が否定もしていない処によれば、それは日本書紀が記録している半島から正式に日本へと伝来された最初の仏像、と言う事に成っている。
だが同じく書紀の記録する処では、この仏像は「廃仏派」(仏教反対派)の物部氏によって捨てられ、以後の記録は無い。
片や、善光寺の伝える処によれば以下の様らしい。
何年かの後、信濃出身の本田善光(ほんだよしみつ)が「難波の堀江」に沈んでいた筈の仏を背負って故郷に帰った。
そして自宅に祀(まつ)ったのが、今日の善光寺の始まりだと伝えられる。
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現代の不信心者には斜めに見えて仕舞う様な、宗教的な奇蹟を持ち出すまでも無い。
書紀の記録する処でも、この仏が捨てられたのは物部氏が当時支配していた、領地内の堀江だった。
その後、ついに崇仏派(仏教賛成派)との武力闘争にエスカレートした物部氏は、敗れて滅ぼされる。
この戦いに従軍していた後の聖徳太子が、勝利を祈った四天王を祀ったのが今日に残る四天王寺であり、この寺が物部氏から没収した領地に建てられた事は書紀にも記録されている。
片や、善光寺が7年ごとに開帳している前立つまりはレプリカが、オリジナルの忠実なコピーだったならば金銅仏の筈だ。
つまり材質としては青銅の鋳造品(ちゅうぞうひん)に金をメッキした像だ。
さらには三尊つまりは中央の如来の左右に菩薩が控えた形式だが、1枚の大きな光背に全体が付いている形式でもある。
要は、四天王寺から坂を下った平野あたりを流れる穏やかな運河に投げ捨てただけなら、どこかに流されて行くとか、流されて行く拍子にバラバラに成る可能性とか、ついでに腐食する心配などは少ない像だったのだ。
おそらくは運河が運んで来た土砂にユックリと埋まって行く程度だったろう。
つまりは何年か後で川底を掘ってみれば、探し出せる可能性か在った訳だ。
そして繰り返すが四天王寺が建設された当時に運河の流れる辺りを支配していたのは、崇仏派の聖徳太子だった。
建設当時、本田善光は聖徳太子に仕えていた。
おそらくは現場監督の様な任務にも就(つ)いただろう。
その際に太子から命令を受けたか、現場近くの「難波の堀江」の底を探してみたのでは無いだろうか。
そして太子の元を引退して帰郷する時「東国の信濃にも仏教を広めよ」とでも太子に言われて、堀江から発見していた仏像を与えられた、とでもすれば説明は出来る………。
……。
…不信心な詮索はさて置いて、実際の捜索現場はどうだったろう。
当時は現在の大阪市街から想像するよりも、ずっと鄙(ひな)びた風景。
そんな風景の中で、おそらくは数十人ほどの作業員が川底の土砂を掘っていただろう。
監督する善光は、後に善光寺を開くくらいだから、いかにも聖徳太子に仕えている様な仏教信者だったかも知れない。
それならば、それだけ真剣に発掘していただろう。
そして本田善光は発見した………。
……。
…金をメッキした青銅が光り輝く三尊と光背を背負って善光は、大阪から信濃の故郷まで帰って行った。
いや流石に、これでは重過ぎたかも知れない。
当時の道路事情と大阪から信濃までの距離からすると。
もしかしたら太子からは、仏像を載(の)せて行く牛の1頭くらいは、与えられていたかも知れない。
後年「牛に引かれて善光寺参り」などと言われた。
もしかしたら「善光寺」そのものが牛に乗って来たかも知れなかった。
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