何時の頃からだったろうか。
「八八艦隊計画」というものがあった。
合計16隻の巨艦を建造する計画だったが「ワシントン軍縮条約」の結果、残されたのは2隻、更に2隻が航空母艦に改造された。
その内の1隻「加賀」と建造中止に成った姉妹艦についてである。
彼女たちはあるときまでは「土佐級戦艦」と呼ばれた。
だが、あるときからは「加賀型戦艦」と呼ばれる様になった。
「ネームシップ」すなわち姉妹艦たちを代表する1番艦は「土佐」ではなく「加賀」であるとされたのだ。
その理由は進水し正式に命名された儀式が「土佐」より「加賀」が速かったから、という理由らしい。
だが、これらの予定艦名が最初に計画されたときには、やはり「土佐」「加賀」の順番だったのではないだろうか。
何故ならば、この1つ前の姉妹たちの「ネームシップ」は「長門」だった。
そして明治時代、最初に「主力艦の艦名は『旧国名』をもってあてる」と決定された時に、初めて命名された戦艦は「薩摩」だったのだ。
「薩摩」「長門」「土佐」そう、明治の藩閥である。
そう成ると「土佐級戦艦」の後に予定されていた戦艦の艦名が「紀伊」「尾張」だったと伝えられているのは面白い。
言うまでも無く尾張に紀伊とは、幕藩時代における徳川御三家のうちの2つである。
実の処、旧徳川将軍家は明治政府から華族筆頭の公爵に叙せられ「八八艦隊計画」当時には貴族院議長を務めるまでに成っていた。
ちなみに尾張徳川家、紀伊徳川家ともに、公爵に次ぐ侯爵に叙せられている。
時代は確かに変わっていた。
所謂(いわゆる)「大正デモクラシー」の頃である。
そういう事だったのかも知れない。
「八八艦隊計画」では「紀伊」「尾張」に続く3・4番艦の艦名についても諸説あるが、残る水戸にちなんだ艦名が予定されていた、という事は無かっただろうか。
1説には「駿河」が予定されていたとの説が在るが、3代将軍の弟が断絶させられるまでは尾張、紀伊そして駿河が徳川御三家だったという史実が在る。
さて「紀伊」は「大和型戦艦」を超える「超大和級戦艦」の「ネームシップ」あるいは「大和」「武蔵」「信濃」に続く「大和型戦艦」4番艦の予定艦名だったなどの説があり、架空戦記などでは活躍しているが、こう成ると少々怪しい。
何故なら「大和型戦艦」建造当時、かつての薩長藩閥が復活したとしか言えない様な委員会が、海軍中央を牛耳っていたという説が在るからだ。
そんな彼らが、かつての徳川御三家の名を期待の超戦艦に付けるだろうか?
あるいは、かつての「八八艦隊計画」への怨念が、それほど強かったのかも知れない。
ところで「信濃」は最終的には空母に改造されて完成したが、戦艦として予定されていた艦名を其のまま命名されたとされている。
しかし「信濃」と前後して完成した空母の艦名を辿(たど)ってみると、何やら違った風景も見えてくる。
「雲竜型航空母艦」大戦の経緯によって、急遽(きゅうきょ)建造された中型空母である。
1番艦こそ、従来の空母の命名基準に沿った「雲竜」だが、2番艦は「天城」3番艦は「葛城」と「山岳名」が付けられている。
その後に続く未完成に終わった妹たちも「山岳名」が予定されていた。
御承知のように「山岳名」は、巡洋戦艦や重巡洋艦に付けられて来た。
しかし命名基準が定められた当時には「準主力艦の艦名は『山岳名』をもってあてる」と定められていた。
すなわち、主力艦に準ずる艦種に命名されるとされていたのだ。
そして大戦の結果は、戦艦に代わって空母を主力艦とした。
もしかすれば「雲竜型」の様な中型空母が準主力艦、そして「信濃」の様な大型空母が主力艦として命名される様になっていたのだろうか。
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