天正10年5月末日。丹波亀山城。
明智光秀は困惑していた。
京都、本能寺に在る筈の主君、織田信長が目前に居た。
「日向。京へ来い。御主も本能寺の茶会に参加しろ」
内心で動揺し、迷った。
(どうせやるなら…今ここで。好機では無いか)
だがしかし、信長を目前にし、その”オーラ”を直接に浴びると、その決断を口に出して命令するなり、自ら行動に移すなりが出来なかった。
結局の処、光秀は信長に連行される様に、京都へ向かった………。
……。
…亀山城に集結していた明智軍は、そのまま主君から何も打ち明けられる暇も無かった重臣たちに率いられて、中国戦線へと出立して行った。
明智軍の到着した対毛利戦線では、毛利氏の首脳部が絶望していた。
既に、先鋒の羽柴秀吉軍だけでも戦線膠着状態であり、この上織田軍団の総動員に勝ち目は無い。
その前に、何とか和議を結ぼうと秀吉と交渉していた程だったのだ。
そこへ明智軍が到着し、更に信長から名目上とはいえ織田氏の家督を譲られていた信忠が率いる織田氏親衛隊も接近していた。
この絶望的事態で必死の交渉を続けた毛利氏は家自体の存続は果たしたものの、その結果、羽柴軍侵掠以前の勢力圏の半ば以上を差し出すことと成った。
それでも、この春滅ぼされた武田氏の様に、完全に抹殺されるよりはマシと言えたかも知れない。
少なくとも、毛利の賢明さを代表する小早川隆景は、そう思った………。
……。
…中国を制した信長は、今度は東に目を向けた。
武田氏を滅ぼした際、駿河を徳川家康に、上野を滝川一益に与えていたが、駿河、上野とも武田氏と北条氏の係争地であり、北条氏の勢力圏も食い込んでいた。
そして、旧武田領の分配からは北条氏が黙殺されていた。
北条氏との境界設定は、これからの交渉次第であり、家康と一益には其の任務も課されていたのである。
北条氏としても、戦国大名の言わば本能として、武田氏に対する出兵は領土拡大の好機でなければならず、戦後の分配からの黙殺には不満を抱いていた。
滝川軍と北条軍の衝突には必然性があり、そして其処には信長の冷徹な戦略が存在していた。
毛利氏が兎に角(とにかく)も降伏と存続を達成したことと比較され、北条氏を批判する後世人も居るが、彼らが特段愚(おろ)かだった訳でも無い。
だが、既に「天下」と成りつつあった織田軍団の動員力は、想像を絶していた。
中国に羽柴軍、明智軍を残し、四国には信長の3男信孝と丹羽長秀の軍を派遣しつつも尚、北条氏の動員力を上回る信忠率いる軍団を派遣出来た。
これに既存の徳川、滝川軍が存在する。
それだけの大軍が、しかも万全の後方補給を受けつつ、関東に進軍してきた。
たちまち北条軍は、本拠地である小田原城と各地の拠点に追い詰められ、籠城戦を余儀なくされた。
*
同じ頃、北陸でも上杉氏が追い込まれていた。
従来の北陸道から迫る柴田勝家の軍に加えて、旧武田領からもこの地を与えられた織田方の大名たちが迫ろうとしていた。
毛利氏の小早川隆景同様、上杉氏の執政、直江兼続は何とか織田軍に降伏しての上杉氏の存続を図るべく奮闘していた。
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更に、未着手の九州や東北にも、既に信長の目と手は伸びようとしていた。
「天下布武」は目前と見えていた………。
……。
…信長は既に、統一「後」を見ていた。
安土に代わる拠点と定めた大坂での、本格的な築城の前に取り敢えず設けた仮屋敷に、何人かの外国人を招いていた。
ローマ教皇の元へ、少年使節たちを送った宣教師たちである。
安土城を描いた屏風を持たせる等、既に信長は此の使節に干渉していたのである………。
……。
…天正11年正月。
大坂の信長が暮らす仮屋敷に、織田氏の重臣たちが集まっていた。
信忠、信雄、信孝らの息子たち、勝家、長秀、一益、秀吉そして光秀らの重臣たち。
彼らを前に、信長は「世界」との交易について語り始めた。