夫婦の姓:
昨今、何かと話題に成る「夫婦別姓」だが、日本史を辿れば、貴族の時代、武士の時代と歴史に姓名を残す階級では、夫婦別姓で姓名を残している。
歴史に名を残さなかった多くの人々に関しては確かめようも無いが、明治に成って庶民が姓名を名乗るように成った時に「夫婦同姓」が始まった様な印象を受ける。
そもそも明治の戸籍法は、外国、特に欧米から見下されないことを意識していた。
夫婦同姓はキリスト教圏の風習であり、中国の影響を受けた東アジア文明圏は、歴史的に別姓だったのである。
それが、かつては同姓だった各国が別姓を採用するように成った近年に成って、別姓による不便が声高く唱えられる様に成ったのだ。
無論、女性が平等に社会に出て活躍するために、結婚によって姓が変わることの不便を訴えることは納得出来る。
別姓が日本に於いては、女性は家を守るものとされた時代の制度だという主張も尤もだ。
別姓を伝統と言い張る人々には、どうぞ、歴史時代の事を学んで欲しいものである。
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幼馴染みでスポンサー:
簡雍、字は憲和は劉備と同郷の幽州涿郡の豪族であり名士である。
若き日の劉備は幼馴染みの簡雍の用心棒のような立場であり、劉備が義勇軍を立ち上げたときのスポンサーだったのも簡雍だった。
これが『三国志演義』ではスポンサーは馬商人張世平と蘇双であり(1説では劉備たちは馬商人の用心棒であって北方謙三氏などはその説)簡雍は孫乾・糜竺らとともに諸葛亮孔明登場時の引き立て役の様に扱われる。
だがしかし、孔明が来るまでは簡雍・孫乾・糜竺が劉備陣営を支える文官トリオだったのであり、劉備にとっては関羽・張飛と巡り会い義兄弟と成る以前からの幼馴染みだった。
(ちなみに張飛は字を名乗る以前からの劉備の弟分だった可能性が在る。
益徳『演義』では翼徳という字は明らかに玄徳に因んだものだ)
何より簡雍は、劉備にも同僚たちにも其の人柄を愛された。
劉備が蜀王と成ってからも幼馴染みの態度を取って許された。
そんな簡雍が活躍したのが、劉備の入蜀に於いてである。
蜀の旧主劉璋にも其の人柄を愛され、最終的に蜀の都成都で抵抗する劉璋に降伏勧告をして受け入れられたのは簡雍だった。
その後も、簡雍は蜀の重臣の1人として、そして劉備の幼馴染みとして其の人柄を群臣の中で愛された………。
……。
…桃園にて「同日に死せん」と誓った筈の義兄弟たちは其々に最期を遂げた。
孫乾も糜竺も逝った。
糜竺の弟糜芳に至っては、関羽を裏切って呉に降り非業の末路を辿った。
1人残った簡雍には、幼馴染みや同僚たちを想って酔う日が在っただろうか。
簡雍の没年は不詳である。