歴史のひろい話   作:高島智明

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この短編は、以前に投稿しました『夢幻(ゆめまぼろし)のごとく?』とから思い付きました。


「えど」の地

「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」

これが、徳川家康の旗印である。

 

仏教、特に浄土教の教えに因る。

天台宗恵心流の源信(げんしん)の仏教書『往生要集』に因って広められたとされる。

「厭離穢土」は「現実の世の中は、穢れた世界であるからこの世界を厭い離れる」こと。

「欣求浄土」は「次生において清浄な仏の国土に生まれることを願い求めること」ことされる。

 

ここで奇妙と言えば、奇妙かも知れないことがある。

家康が幕府を開いた地は「江戸」である。

そう「えど」と読むのだ。

 

この地を家康に勧めたのは豊臣秀吉だとされる。

成程、関東平野のほぼ真ん中に位置し、その平野に切り込む湾の奥、当時の「坂東太郎」こと利根川の河口に位置し、物流と人の営みの条件が自然に在った。

したがって、以前から此処には城と物流が在ったのだ。

 

その繁栄の条件に、最初に目を付けたのは太田道灌だろう。

道灌は江戸城を築いたことで過剰評価されているとの説もある。

家康が初めて来た時の江戸は「草深い田舎」だったと。

 

だがしかし、家康以前から実は江戸には北条氏の城が在った。

そして物流と、人々の営みが在った。

 

そして、北条氏政が直接支配していた。

後北条氏滅亡時点の実権者として、決して評価は高くない。

しかし、愚か者とは“「太閤記」史観”かも知れない。

彼の時代に後北条氏は最大勢力と成ったのは、史実なのだから。

そして江戸には、ある程度の繁栄が在ったことも。

 

無論、鎌倉でも無い小田原でも無い関東の中心を、そして日本の中心としての江戸を築いた家康と後継者たちの功績は否定されるべきではない。

その土台の上に、今日(こんにち)の「東京」が在るのだ。

 

確かに関東の中心と成るべき土地だったかも知れない。

それでも尚、疑えば疑う。

何故、家康は「えど」と読まれる地名を変えなかったのか。

「穢土」に繋がる”言霊(ことだま)“を忌避はしなかったのか。

 

そして、秀吉も又「厭離穢土」の旗印のことなど知らない筈は無い。

その上で「えど」の地を家康に勧めたのだ。

本当に、そこに何の隠された意図も無かったのか。

 

家康は、その隠された意図を疑ったことは無かったのか。

無論、既に天下人と成っていた秀吉に逆らう危険などは承知だったろう。

父祖伝来の三河を含め、自ら切り取った領土と交換に関東に移った家康は「えど」の地に新たな城下を築いていった。

まるで何も疑っていないかの様に、あるいは平然と。

 

只、豊臣氏に取って代わって天下人と成って後の家康は、彼の青春の地でもある駿府に移って大御所と成り、幕府を後見した。

そして、その地で天寿を全うしたのである。

 

家康と後継者たちが築いた日本の中心が「えど」と呼ばれない様に成ったのは、家康の子孫が天下を譲った後だった。




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