(その1)
歴史上の人物には、時々、彼を導いた「師」の存在が指摘される。
例えば、幕末の坂本龍馬には勝海舟。
高杉晋作や伊藤博文たちには吉田松陰。
西郷隆盛には主君でもある島津斉彬が其れに当たるだろう。
それでは、戦国時代の此の人物には誰が居るだろう。
織田信長。
この天才にして独裁者に、果たして彼を導いた「師」の存在など在ったのだろうか。
確かに、信長は天才だ。
そして、その才は孤独でもあっただろう。
だがしかし、その天才は誰に導かれることも無く、孤独に開花したものだったのだろうか。
そう、信長にも彼を導いた「師」の存在が在ったのだ。
それは、彼の父織田信秀が、そうだったかも知れない。
信秀は、この破天荒で「大うつけ」とすら家臣団に呼ばれた嫡男を廃嫡などしなかった。
それどころか、彼の才能が向くとされる分野には、何人もの優秀な師匠を付け、その才を伸ばした。
兵法(戦争学)剣術、弓術、馬術そして渡来したばかりの鉄砲に関する砲術まで。
そして、水泳や鷹狩の為に領地内へと通うことも認めた。
そうした中で、信長の天才は育ち、やがて開花する。
だがしかし、未だ信長が若く、家臣団からは「大うつけ」と呼ばれている時に信秀は急死した。
その葬儀の場で、信長は父の位牌に抹香を投げつけ、家臣たちは礼法通りに供養する弟の支持に傾いたという。
だがしかし、続いて号泣した、という信長の振る舞いにこそ、むしろ其の真情が在ったのでは無かったか。
信長にも感じられていたのだろう。
自分を理解しようとしていた、自分の伸ばすべき才を伸ばそうとしていた。
そんな父が。
やがて、信長は「天下布武」へと突き進んで行く。
後世の我々は、信長を天才と呼ぶ。
だがしかし、その彼を、最初に見出したのは彼の父では無かっただろうか。
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(その2)
織田信長と言えば、その家臣団の扱いは「実力主義」だった、と評価されている。
木下藤吉郎や明智光秀を初めとする、決して身分の高く無かったり、あるいは流浪していた「成り上がり者」でも、実力次第で抜擢していったと。
片や、織田家譜代の重臣ですら無能と見れば容赦無く抹消した、と思われている。
その例えとして、佐久間信盛への折檻状が挙げられる。
19ヶ条に及ぶ折檻状の中で、信長は容赦無く信盛を断罪した。
そして容赦無く、織田家臣団から追放した。
言うまでも無く「信」の偏諱を、おそらくは信長の先代信秀からであろう、受けている織田家譜代の重臣である。
それですら、信長の実力主義と信賞必罰は逃れられなかった、と此のエピソードは信長の苛烈さの例とされる。
だがしかし、信長は佐久間父子を追放すらすれ、殺してもいない。
そして、信盛の死後には成るが、息子の信栄は低い身分ながら帰参を許されている。
それでは、信長の真意は何処に在ったのだろう。
折檻状を読み直してみれば「戦いで期待通りの働きが出来ないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、5年間それすら無いのは怠慢で、けしからぬことである」とある。
信長は、決して突き放していたのでは無い。
相談に来れば、教える気だったのでは無いだろうか。
そして、折檻状の最後は「何処かの敵をたいらげ、会稽の恥を濯いだ上で帰参するか、何処かで討死するしかない」そうで無くば「親子共々頭を丸め、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう」と書いていた。
もしかしたら奮起して「何処かの敵をたいらげ、会稽の恥を濯いだ上で帰参する」を期待したのでは無いだろうか。
それが「頭を丸め高野山にでも隠遁」を選択したことで、初めて失望したのかも知れない。
尚、高野山からも追放されたという説の他にも、高野山で平穏に生涯を終わったとの説も在る。