大河ドラマ『豊臣兄弟』もいよいよ佳境です。
『他民族帝国』
アニメ『天は赤い河のほとり』愉しみにしております。
『若大兄は居たか』
古代史の魅力は、想像の余地にも在ります。
『誰の意志』
織田信長の妹、お市の方と柴田勝家の再婚が何時の時点で為されたか、実はハッキリとした史実は現代まで残っていない。
ドラマ等では、所謂(いわゆる)「清須会議」の後とされることが多い。
そうすると、結婚生活は僅かに1年足らずだったことに成る。
実際は、もっと早かったかも知れない。
例えば「本能寺の変」以前だった、という説を否定する証拠も無い。
つまりは、信長生前のことだったかも知れないのだ。
問題は、そこに誰の意志が在って、誰が決断しての婚姻だったからだろう。
通説などでは、お市の方本人が言い寄る羽柴秀吉を振った結果などとされるが、これは「太閤記史観」とすら言えない面白可笑しい俗説だろう。
今更ながら、勝家は織田家譜代の重臣であり、信長の「天下布武」に於いても其の1翼である「方面軍司令官」を任される重鎮だった。
特に「本能寺」の前々年に林秀貞や佐久間信盛らが追放されて以降は、織田家筆頭家老とすらいえる立場に居た。
信長の思惑としても、織田家とのより強い絆を求めても可笑しく無かったのだ。
勝家の心境としては、その信長の遺志に応えた積もりだったかも知れない。
結果にしろ、勝家は織田家の天下を簒奪する形に成る、後の豊臣秀吉にとっては抹殺すべき障害と成ったのだ。
その勝家と、お市の方は運命を共にした。
それが誰の意志だったかも、確実な史実は残っていない。
只、明智光秀の屍体を秀吉が磔にしたという史実は在るが、勝家の首が晒された、とは確認出来ない。
落城した城下の跡に、現代も勝家夫婦の墓は存在する。
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『他民族帝国』
「帝国」というキーワードには「強大」「大国」といったイメージが在る。
そうしたニュアンスで、このキーワードを用いる人も多いだろう。
例えば、かつての「大日本帝国」は列強ひしめき植民地主義が罷り通るなかで、せいぜい列強の仲間入りをしたいという願望から名乗った。
だがしかし「帝国」というキーワードを「多民族国家」というニュアンスで用いる場合も在る。
例えば「皇帝」という君主の名乗りを発明した中華帝国の初代皇帝は、それまで今日的な意味でも異なる民族と言って好かった7つの王国を1つとして「帝国」を建設したのだった。
そして、古代アナトリアの「ヒッタイト」も人によって「王国」とも「帝国」とも呼ばれる。
この「帝国」は成程、古代オリエントの覇権を古代エジプトと争う程の強大国だった時代も在るが、むしろ「帝国」と呼ばれる場合には「多民族」の意味で用いられることが多い。
現代に発掘されるヒッタイトの遺跡から発見される文書には、ヒッタイト語、アッカド語、シュメール語、ハッティ語、フルリ語、パラ語、ルウィ語等の多くの言語で記されており、これら文書からヒッタイトという国家は複数の民族を支配下に置いていたと考えられている。
又、数多くの支配民族の宗教や文化を尊重したことも分かっている。
その為「1000の神々の帝国」と呼ぶ人も居る。
この「帝国」は、青銅器時代に鉄器や古代戦車を使いこなして、多くの民族を征服した。
そして「ラバルナ」と号する「皇帝」の治める君主国ではあった。
だがしかし、貴族たちを集めた「元老院」が在り、更には后妃の地位も低く無かった、とされる。
「タワナアンナ」の称号で呼ばれる后妃は、夫である皇帝が亡くなり皇太后になってから後も、そのタワナアンナが生きているうちにはタワナアンナの交代はなく、死ぬまでの身分として保障されていた。
したかって、皇帝が交代をしても前の皇帝のタワナアンナが生きている限り、次の皇帝の妃はタワナアンナの称号・身分を手にすることは出来ないとされていたらしい。
こうした「元老院」「タワナアンナ」の存在から、ヒッタイトは皇帝専制では無く、いわば「3権分立」の体制だったとの解釈も在る。
また「ヒッタイト法典」が在り、皇帝も従わねば為らないルールだったのでは無いかと考えられている。
こうした体制だったのは「他民族帝国」だったからでは無いのだろうか。
元老院を構成する貴族たちは、支配下の各民族の代表たちでは無かったか。
そして、各民族との政略結婚の結果として「後宮」が形成されていた。
だからこそ、その「後宮」を束ねる「タワナアンナ」の役目も軽くは無く、権威を必要とされていたのでは無かったか。
何れにせよ、古代オリエントの青銅器時代の崩壊とともにヒッタイトも消滅した。
現代には、発掘される粘土板に刻まれた情報のみが残る。
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『若大兄は居たか』
「大化の改新」の主役とされる後の天智天皇は、即位前は「中大兄皇子」と呼ばれたとされる。
その片方で「古人大兄皇子」と呼ばれる皇族も存在した。
彼らは舒明天皇を父とする異母兄弟とされている。
古代の大王は、ヤマト王権を構成する豪族たちのバランスから、複数の豪族家より複数の妃を迎えていた。
ただし、古代は「妻問い」が結婚形態だったが。
ここで「大兄」とは皇位継承の有力な候補者に与えられる称号とされている。
言わば本名では無かったのだ。
実の処、中大兄には「葛城皇子」古人大兄には「吉野太子」の”異名”が在ったと記録されている。
処で「中」というのは3人の中の真ん中を連想させる。
そして「古人」という異母兄は居た。
それでは、例えば「若大兄皇子」とでも呼ばれる皇子は居たのだろうか。
もしかしたら、有力豪族の蘇我氏の母を持つ古人大兄、両親とも天皇の諡をおくられた中大兄に比較して、さほど有力でも無い氏族の母を持つため注目されなかった、ということだろうか。
ちなみに「山背大兄皇子」も同時代に記録されているが、聖徳太子の長男の彼は、古人、中大兄よりも年長である。
あるいは、皇位継承の順番であって年齢順では無かったのかも知れない。
古代史には、未だ定説が定まらない事柄が少なく無いのである。