『どちらが家康』
ドラマなどで好く描かれるが、ドラマによって描かれ方の印象が少なくなく異なる人物も居たりする。
例えば徳川家康なども、そうかも知れない。
家康以外が主人公のドラマに登場する家康は、まるで陰険な策謀家の様に描かれることが少なく無い。
特に初老期から晩年、関ヶ原の前後から天下を取り、豊臣氏に止めを刺すまでの家康の描かれ方は、まさしく「狸親爺」と呼ばれた策謀家の其れと成ることが少なく無い。
逆に家康を主人公としたドラマ、特に青少年から壮年期の主人公の描き方は,まるで異なる。
苦悩しつつ、生長する姿が描かれる。
そして、晩年は「天下太平」で終わる傾向にある。
どうして、こうも異なるのか。
1人の人間、特に歴史に業績を残す様な人物が単純な1面しか持たないということも無いだろう。
だがしかし家康の場合は、260年の天下の礎を気付いた人物だったからこその、毀誉褒貶が在っただろう。
徳川幕府の時代、家康は神君だった。
その業績の光の側面が注目され、若い頃の苦難は成長の糧に、負の決断は押し付けられたことにされ、只、偉大なるリーダーの姿が御用歴史家によって語られた。
逆に、幕藩体制が新政権に取って代わられれば、否定すべき対象と成った。
そして、今。
その何れも又、歴史と成った時には、ある意味で自由な家康像が描かれるように成った。
そう成れば、主人公の側を「正義」とする描かれ方に成る。
それに因って、家康のどの面に注目するかが、異なっているのだ。
では、真実の家康は、どうだったのだろうか。
どちらでもあり、どちらでも無い。
1人の人間、特に歴史に業績を残す様な人物が単純な1面しか持たないということも無いのだ。
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『北と南と東と』
現在の古代史での「定説」
邪馬台国の女王卑弥呼が、当時の中国から「親魏倭王」の金印を与えられた。
その後、約1世紀の空白を挟んで、倭の5王と呼ばれる王たちが、中国から認められた。
と、言うことに成っている。
だがしかし、卑弥呼から5王の時代の中国は、実は統一された中華帝国では無かった。
卑弥呼に金印を与えたのは、三国時代の三国の1つ、魏である。
そして、5王の時代も中国は1つでは無かった。
南北朝時代だったのである。
ここで1つ、注目しても好いかも知れないことがある。
5王が接触したのは全て、南北に分裂していた中華のうちの南朝だったのだ。
卑弥呼の時代ならば、三国の中で日本列島に地理的にも近いのは魏だったろう。
だがしかし、5王はあえて、間に北朝を挟む地理位置に成る南朝に接触して、今日的に言えば国家承認を受けたのだ。
何故に北朝では無く?
ここで、当時の5王たちの言い分を細かく振り返ると、5王たちは倭国のみならず半島の幾つもの国家の王と認める様に南朝に要求していた。
彼らは、日本列島のみならず、半島の支配者としても正当であるとの「お墨付き」を欲していたのだ。
そして、この当時の倭王たちの半島への野心あるいは緊張関係の痕跡は探せば在る。
さらに言えば、半島を実効支配していた各国とは、北朝が地続きだった。
当然に、半島各国は北朝と接触してただろう。
5王たちが、南朝からの王の承認を欲したのは、北朝を後ろ盾にする半島各国への対抗の為だったのかも知れない。
そう成ると、倭王の使者たちは、どのようなコースを辿ったのだろう。
半島を経由するなど論外である。
東シナ海を横切ったのだろうか。
そう成ると、遥かに航海は困難である。
あるいは、1世紀の空白は、この航海の困難に因るものだっただろうか。
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