『名奉行の条件』
江戸町奉行の中で「名奉行」と問えば、南町奉行ならば大岡越前。
北町ならば遠山金四郎が定番だろう。
だがしかし、所謂(いわゆる)「享保の改革」を補佐して実績を築いた大岡は成程も在るが、遠山景元が江戸北町奉行を務めていたのは僅かに2年。
その後に南町奉行に再任されてはいるが、実は此の南町奉行を務めていた時代の方が長い。
それでも「遠山」と言えば、北町のイメージが強い。
それに加えて、遠山が北町奉行を務めていた当時は、ドラマで描かれる様な江戸町人文化が華やかな時代では無かった。
「天保の改革」と銘打ちながら、江戸の庶民にとっては弾圧の時代に他ならなかった。
そんな当時、江戸町人たちは北町の「月番」に成ると息を吹き返す思いだった。
「月番」とは、南町と北町奉行は江戸の町を南北に分割して担当していた訳では無い。
月交代で江戸の市政を預かっていたのである。
その「月番」のうち、当時の南町奉行だった鳥居耀蔵は改革を主導する老中の水野忠邦の意を受けて江戸町人を圧迫した。
その鳥居の圧迫の1月が過ぎるのを町人たちは待ち、そして北の「月番」が来ると息を吹き返した。
「彫物判官」の元ネタを提供する様な、市井での青春を送った遠山には、江戸町人たちの現実が見えていたのだ。
だから、遠山は自分の「月番」が来れば、鳥居の圧迫に息を潜めていた町人たちへの緩和に努めた。
時には、職務を張っての老中への意見によって、町人たちへの圧迫を緩和した。
その遠山に、庶民の人気が集まるのも当然だっただろう。
鳥居や水野が、恨みを買えば其れだけ。
遂に遠山を邪魔と認識した水野に因って、遠山は栄転を装って町奉行から外された。
だがしかし、既に水野の改革は遠山1人では無い反感を買っていた。
改革は挫折し、水野も、それを売って保身を図ろうとした鳥居も失脚した。
そして、鳥居の後任の南町奉行には、遠山が就任した。
遠山の返り咲きを、江戸町人は祝っただろう。
かくて、北町奉行遠山金四郎は、南町奉行大岡越前と並ぶ名奉行と伝説が作られる其の始まりと成った。
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『第六天魔王』
武田信玄が地位を持った仏僧の名目で糾弾した時、織田信長は信玄への返書に「第六天魔王」と署名したと伝えられる。
この「魔王」が1人歩きしたか、信長は無神論者だった、あるいは宗教を憎んでいたと解釈されることもある。
比叡山や本願寺を弾圧したこと、あるいは若き日、父親の位牌に香を投げ付けた行為などが其の例に挙げられることも在る。
その1方で、切支丹の宣教師に理解を示したことに注目されることも在るが。
だが1面として信長が尾張の大名だった頃から、津島神社や熱田神宮と深い関係を以ってもいた。
このことと、仏教伝来の頃の仏教と神道の対立を絡めた作家も居るが。
ここで振り返ってみれば、信長が好んだとされる「人間50年 下天のうちに比ぶれば」も「第六天」も仏教の概念である。
信長は決して、仏教的教養の無い訳では無かったのだ。
それでは、信長はいったい何を憎んだのか。
信長が目指していたのは「天下1統」
武家である自分に因る1元的に支配された天下であったことは、多数意見である。
そう成れば当時の寺社は、無視出来ない世俗の権力勢力であり利権集団だった。
信長は其の利権と闘ったのだ、とは今は多くが認めている。
片や、津島や熱田は信長の権力基盤の1部を成す商業集団だった。
宣教師も、未知の文明を齎す存在として扱ったとは多くが指摘している。
もしかすれば、彼らが侵略の先兵だったことまで御見通し得る者だけ得ようとしていた、は深読みだろうか。
信長は自分が神に成ろうとした、という解釈をする者も居た。
だがしかし、信長が目指していたものは「天下」だったのだ。
後世の様な「政教分離」を目指していた、とするのは過大評価だろうか。
その意味でも、この天才は孤独だったかも知れない。