歴史のひろい話   作:高島智明

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戦略物資「塩硝」

「何故だ?!何故?“まだ”撃てる?!」

彼らは、そう叫びたかったかも知れない。

 

天正3年(1575年)5月21日。三河の国、設楽原。

すでに武田軍は、織田・徳川軍に対して、数度の攻撃を仕掛けていた。

 

先君、信玄以来の名将とされる山県昌景などは、徳川軍大久保隊への突撃は9度目だったとされる。

今までの突撃を支援して来た味方の鉄砲隊は、すでに玉も薬も撃ち尽くしていた。

しかし、何千(?)挺あるかも分からない織田・徳川軍の鉄砲隊は、玉薬が切れる気配も無い釣瓶(つるべ)撃ちに撃ち続けて来る。

 

ついに馬上であるために標的の大きな山県が撃ち落されて、9度に渡る突撃は挫折した。

 

―   ―   ―   ―   ―   ―   ―   ―   ―   ―   

 

徳川家康からの救援要請が、織田信長に届いた時に遡(さかのぼ)ってみよう。

 

この時(5月初め)の信長は、直近の4月まで大阪で本願寺と戦って戻ったばかりだった。

逆に言えば連れて戻った軍団は、動員も準備も無しで戦闘体制だった。

 

更に信長は動員を解散した近畿の同盟大名から、鉄砲隊だけは提供させていたのである。

その総数が正確に何挺あったかは、おそらく信長自身にだって推測でしか無かっただろう。

しかし信長は、出来るだけ正確に推測して、そして準備した。

この「悪魔の天才」は、戦術家に限らず戦略家だった。

 

―   ―   ―   ―   ―   ―   ―   ―   ―   ―   

 

家康は信長を待ち続けた。

ここで長篠城を見捨てたらどうなるか。

数年後に高天神城を見捨てた半年後には、武田氏自身が惨めに崩壊している。

それと同じ運命が待っていると分かり切っている。

だから、勝たなければならない。

それだけに、信長の救援を家康自身が待ち望んでいた………。

 

……。

 

…5月20日。

織田・徳川軍は、と言うより織田軍は、設楽原に「馬防柵」と呼ばれる野戦築城を造り始めると共に、さらに長篠城と設楽原の中間にある、有海(あるみ)原まで前進したが、何故か設楽原の馬防柵まで後退した。

 

これに対して武田軍は、馬防柵とは川1つへだてた地点まで追撃したが、その20日の夜から翌日の夜明け、武田軍と長篠城の中間の鳶ヶ巣山に築かれて城の監視に就いていた砦が奇襲され陥落、長篠城の救援という織田・徳川軍の目的自体は成功してしまった。

 

明けて21日。

今更、こちらよりも人数の多い敵に後ろを見せて退却しても、追撃されて損害を出すだけ。

敵の主力を撃退しなければ、退却すら出来なく成っていた。

 

ここに至って、織田・徳川軍への突撃に賭けた武田軍だったが、しかし相手は鉄砲を撃ち続けて防御を続ける。

武田軍とて、鉄砲を持っていない訳では無かった。

弓・鉄砲に石礫(つぶて)まで敵に投げ付けながら前進して、適当な距離まで詰めてから突撃するのだ。

だが、相手から飛んで来る鉄砲玉の数は、質と量の両方で未経験だった。

 

……      ……      ……      ……      ……

 

長篠の戦後ではあるが、勝頼から特定の武将へ宛てて「玉薬300ずつを付けて10挺の鉄砲を持参して参陣せよ」と命令していたりする。

 

逆に言えば、武田軍の鉄砲1挺当りの弾丸、特に火薬の準備は(長篠以前は)300発以下だった。

それも、出陣してから解散するまでの総量で、である。

 

それに対する織田・徳川軍の発射数は、まるで違っていた。

山県軍などは、9度突撃して、9度とも釣瓶撃ちに撃ち返されていた位なのだ。

 

当然に先ず、武田側の鉄砲隊が玉も薬も撃ち尽くし、そして後は突撃への支援も失った武田軍が、ひたすら撃たれ続ける有様に成ってしまった。

 

そして、明らかに攻撃力を失った瞬間、織田・徳川軍の追撃戦が開始された。虐殺だった。

 

―   ―   ―   ―   ―   ―   ―   ―   ―   ―   ―

 

種子島に鉄砲が伝来して、わずか10年。

斉藤道三との会見に、信長は弓鉄砲500を連れて来ている。

その翌年には今川側の砦を相手に、信長自ら鉄砲を手に陣頭に立っている。

 

その道三が長子に叛かれ、信長が救援した戦いで鉄砲は何をしていたのか?

実は「この」時点での信長には、鉄砲本体の数を揃えても、あえて言えば「宝の持ち腐れ」に成りかねない事情があった。

その教訓が、後年の信長に「ある」決断をさせた………。

 

……。

 

…天正3年当時、黒色火薬の原材料中、重量比で4分の3を占める「硝石」当時の一般的な名称で「煙硝」あるいは「塩硝」が、どれだけ国産されていたかを知る、正確な資料は未知である。

 

いずれにせよ、ポルトガル人やスペイン人を通じての、東南アジアや中国からの輸入が大多数だった。

その輸入買付を、ほぼ独占していたのが「通商都市」堺である。

 

そして、近畿侵掠の後の信長が堺の支配に執着した事は、有名ですらある。

 

堺を支配して6年。

長篠の織田信長軍団は、何千挺の鉄砲を動員しても、思う存分に撃ち続けられるまでに成っていた。

 

例えば「早合」と呼ばれる、いわば「カートリッジ」がある。

腰から掴(つか)んで銃口に当てれば、1発分の火薬と弾丸が装填できる。

この「早合」を使用すれば、毎分あたり5~8発まで発射可能とする実験結果が在ると言う。

無論、玉薬切れなどという心配でも有ったら使用は出来ない。

 

「塩硝」という『戦略物資』を手中にした信長軍団は「火力」という意味でも他の戦国大名とは、異質とも言える軍団に成長していたのである。

 

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もしも道三を救援した時点での信長に、必要にして十分な量の「塩硝」が、その時限りにしろ購入出来ていたのなら……

 

……救援は成功したかも知れない。

信長は「史実」より若くして、尾張美濃の2カ国の大名に成っていたかも知れない。

その後の「歴史」はどうなっていただろう。

 

それ程「塩硝」という物質が『戦略的』だった時代が存在した。




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