「それで、さ」
サオリがそういうふうに切り出す時は、いつだって話しにくい話を始める時だと決まっている。そういう何となくの勘が働くくらい、あたしたちは一緒にいたのだ。狭っ苦しいアパートの一室で、スーパーの安すぎる野菜をケチりながら。扇風機すら無い夏に、自分たちの汗で溺れそうになりながら。
「どうするの?これから」
それはシンプルな問いかけだったけれど、でも、重っ苦しいプレッシャーになってあたしのお腹をぶん殴ってきた。
「どうするの。これから」
あたしが組んでたバンド、〈エーテリアス〉が解散した。
きっかけは、ドラムのタスクが抜けると言い出したことだった。ドラムがいなきゃバンドはできない。結局最後までCDは売れなかったし、リズムは合わなかったし、あたしのギターは下手くそなままだった。
理由は分かっている。才能がなかったからだ。
タスクは確か岐阜のどっかの出身で、実家の豆腐の店を継ぐって言っていた。お父さんも具合が良くないらしい。それをほっぽって夢追えるほど夢見心地になれなかったんだろう。あるいは、あたしがそれを見せてやれなかったか。
「正直さ」
辞める時、タスクはあの気まずそうな笑顔で言った。
「おれ、ドレミの作る曲は好きだったよ。でもさ、全然売れないじゃん。最近のやつはあんまりおれもパッとしないなって思ってたし」
後ろ足で砂かけていったんだ。そう思えたらどんなに良かったんだろう、でもタスクはそういうことしないやつだった。真面目すぎるやつだった。道で拾った1円玉を交番に届けてた。道で救急車を呼んだことだってある。
だからそれはあたしにすごく刺さった。ことばって針みたいだなって思う。包丁とか鉈とかじゃなくて、細いんだけど奥まで来る。
「ねえ、どうするの?」
サオリは目の前であたしの目をしっかり見て言った。
「私はね、もう潮時かなって思ってんの。だってドレミも私ももう22でしょ。大学生だったら就活とかする年だし、あのね、こないだの工場の事務所、けっこういい感じなんだ。パート扱いだけど、残業とか無いし。そこで働かせてもらおうって思ってるの」
あたしはサオリの目を見て泣いた。自分でも引くくらい。どこにこんだけ水分あったんだろって感じだった。朝からコップ2杯くらいしか飲んでないんだよ。なのにさ、ぼたぼた出てくんの。
「そうやってすぐ泣いたら収まると思ってんでしょう」
違うよ。あたしはそう言いたかった。でも言葉が支えるばっかりで、涙も止まらなかった。毛羽立った安物のラグに雨が降ったみたいなシミができてた。
「ベースは置いてく」
サオリは唇に紐を通して引っ張ったみたいな顔で言った。
「シールドもベーアンもあげるよ。やだな、別に縁切ろうってんじゃないじゃん。土日はご飯とか行こうよ。たぶん、そんな遠くには引っ越さないし」
それが嘘だってあたしにはわかっていた。ううん、嘘っていうより、本当じゃないって思った。サオリは本気で言ってくれてるんだろうけど、あたしたちは音楽でしか一緒にいられない。音楽無しで一緒にいたら、きっと悲しくなってまた泣いちゃうし、気持ちが痛い。音楽のことだって嫌いになっちゃうかもしんない。
サオリはそれから一週間くらいで出ていった。二人で住んでた部屋はガランとして、まるで大事なものがなくなっちゃったみたいだった。文字通りそうだったんだ。ベースなんか置いてかれたって意味ないよう。あたしは弾けないんだから。歌しかできないんだから。
*
馬鹿な親が“ドレミ”なんて名前を付けたのは、あたしの人生の不幸の始まりだった。
学校では当然のように馬鹿にされた。当たり前だ。あたしだって逆の立場だったら馬鹿にする。楽器も弾けない、楽譜も読めないくせにドレミなんて付けた親だもの。レディオヘッドもプライマルもビートルズも知らなくってさ、CDプレーヤーも持ってないんだよ。
だから、あたしも音楽は嫌いだった。
音楽の授業で、ドレミファが出てくるたんびに顔を凍らせるわざを覚えた。そうしてれば囃し立ててくるやつらも、ニヤニヤして何もいえない教師も無視できたから。嫌な田舎だった。1日に3本しか来ない電車と、出入り口が1個しかないバス。都会のバスは後ろから乗って前から降りたりするんだっていうのを知ったのは修学旅行のときだった。
だからなんで音楽を始めたのかは憶えてない。
たしか、学校帰りに、クラスの子たちから隠れて帰ってたとき、歌いながら道を歩いてたんだ。そしたら近所の電器屋のオッちゃんがさ、顔が怖すぎて『オニちゃん』だから『オッちゃん』て呼ばれてたんだけど、ニルヴァーナのCDくれたんだよね。
今思うと女子に声かける変質者だったのかもしれない。でも、オッちゃんはあたしに大事なものを教えてくれた。はやりの音楽はぜんぶクソだってことと、キレイめな歌声なんてダサくってしょうがないってこと。耳がぶっ壊れるくらいの爆音にこそ価値があるってこと。ジャジャジャジャ!ってそれにさ、心が稲妻みたく痺れたんだ。
なんで〈エーテリアス〉なんて名前にしたんだっけ。
付けたのはタスクだったと思う。意味は聞かなかった。響きが、音が純粋に気に入ってそれにしたんだ。当時あたしは高校卒業したばっかで、バイトしながら実家と縁を切ろうと頑張っていた。ことばの意味なんて心底どうでもよかった。大事なのは音だ。リズムだから。ことばの響きだから。
あたしは精一杯曲を作った。はじめてできた奴はパワーコードばっかの笑っちゃうくらいシンプルなやつで、あたしの金切り声から始まるんだ。コード進行は『リチウム』のパクリで速度を2倍くらいにしてごまかした。その次のやつはフー・ファイターズの超劣化版って感じだった。あたしのギターはいっつもトレブルがキンキンしてて、サオリのベースはエフェクター過多で音がスカスカだったっけ。タスクのドラムだけは一番マシで、あいつが他のバンドにも声かけられてたのは知ってるけど、結局一緒にいてくれた。そのはずだった。
なんで売れなかったんだろう?
年単位で活動してた。バイト代はぜんぶスタジオと箱代につぎ込んだ。空いた時間はずっと練習とかいってグダグダ演奏してた。ギターボーカルのあたしはパワーコードから成長しなかった。Fのセーハは上手くならなかった。ライトハンド奏法は2時間で挫折した。それでも、喉を振り絞って歌った。腹式呼吸とかミックスボイスとか抜かすやつらを、喉から噴き出す血で張り倒してやるつもりで。
ううん、本当は分かっている。
あたしは分からなくなったのだ。音楽のどこがいいのか。何がいいのか。自分の作るものがゴミにしか思えなくなって、なにかのパクリにしか聞こえなくなって、誰にも聞いてもらえないことに怯えてしまった。
とんでもなく怖かった。女の子なのにすっげえ尖ってるね(笑)って、言われっぱなしの音楽に失望した。自分で失望したんだ。ミックスボイスだって挑戦したけど出来なかっただけなんだから。
*
サオリが出ていった。
あたしは朝とは到底いえない時間に起きて、鏡をぼーっと見つめてた。鏡の中には、黒いボサボサの髪をボブカットもどきにしたダサい女の子が映っていた。世間で言われてるブルベだのイエベだのは分からなかった。この時代にまだタピオカを呑んでいた。純粋に好きだったのだ。流行が終わるやいなや見放したミーハーのやつらとは違う。あたしは真剣にタピオカを愛している。
目は腫れていた。真っ赤になったまぶたは、けっこういつもよりカワイイんじゃない?ってぐらいだった。つまんない顔の造作なのはわかってる。
「価値がない……」
誰もあたしを必要としない。
精一杯作ったものは大して見向きもされなかった。大衆は愚かでナンセンスです、なんて態度を作って、内心は不安で一杯だった。見向きされたかったのだ。ウレセンを取り入れた曲を作ろうと思って、自分の作った音楽がだんだんわからなくなっていった。プライマルの新譜を聞いても楽しく思えなくなったとき、限界だと思った。
限界だった。それが怖かった。自分には才能があって、まあ世界レベルじゃなくても頭一つは抜けてるでしょうと、セオリーや理論なんかなくてもセンスだけでそこそこやれるだろうと、思い上がってたんだ。
才能の限界は見えたのに、あたしはやめなかった。
くだらない曲を作り続けた。自分でもいいと思えないものを。それは作ったものじゃなくて、きっとあたしのほうに問題があったのだ。最初期に作った思い入れのある定番の曲まで、ガラクタに聴こえた。ジャニーズなんかを聴きながら夜中に泣くようになった。
サオリのことが好きだったよ。
あたしは部屋の隅に立てかけてあったストラトキャスターを掴んだ。一応フェンダーの白黒のやつ。
アーニーボールの一弦を鳴らした。チューニングはダメダメだった。たぶんDまで行ってる。いつのまにかこんなに緩んでしまった。ペグは1本割れちゃってる。
ギターボーカルだけになってしまった。
打ち込みで補おうかとも思ったけど、あたしは機械音痴だった。アンプについてるツマミだってまだ半分くらいはわかんないもん。PRESENCE、あれって、何?
他人に認められたくて、他人に自分の好きなものを誰かにも受け入れてほしくて、自分の好きなもので自分の周りを満たしたかった。最初は自分で作ったものを好きになりたかったのだ。ただそれだけでよかったのに、それでも、誰かにいいねって言ってほしかった。それをあからさまにするのは恥ずかしくて、ダサいって分かってたのに、知らん顔をすることもできなかった。褒めてほしかったならそう言えばよかったのかもしれない。それができないんなら、気にしなきゃよかったのに。
だんだん苛々してきた。鬱屈したものを吹き飛ばすにはそれしかなかった。あたしはギターを持ち上げると、ちっちゃなアンプにつないだ。エフェクターはメタルゾーンだ。バカみたい。メタルなんて難しくて弾けないのに。
「畜生」
思いつく限りの罵倒をゆっくりと、しっかりと叫びながら、私は黒くてマットなメタルゾーンを踏み込んだ。
プライマルを知らないやつはバカだ。
レディオヘッドを聴かないやつはマヌケだ。
ノーベンバーズがない人生なんてクソだ。
モーサムを、聴けェ!
適当なパワーコードで押さえたストラトは錆びつきかけ、汗で汚れてる。ジャジャジャジャ、ジャジャジャジャ、ジャジャジャジャ!硬すぎるピックが手から吹っ飛んだから、人差し指のダウンで弦をぶん殴った。
ベッドの枕を蹴飛ばす。ずっと昨日のままのカレンダーを足で引き裂く。机の上にあった、ブドウのつるが書いてあるマグが落ちた。隣にあったコーヒーシロップに噛みついて吐き捨てる。猿のぬいぐるみがアンプの振動でヘドバンしてらあ。
ジャジャジャジャ!ジャジャジャジャ!ジャジャジャジャ!
誰も聞いてない。誰にも聞かせない。あたしだって朦朧としててどんなのを演ってるかわかってない。でも、そんなアブクみたいな音楽は確かにここにあった。割れるそばから歪んだ音を継ぎ足してやる。注ぎ込んでやる。親指から血が飛び散ってる。
あたしはベルトにパンチした。九ミリ口径を持った象にヘッドを向けて撃つ真似をする。その人形の後頭部には角が生えてる。
誰にも聞かれない、自分ですら聞こえない音楽。それでこそ自由だ。
価値なんかない。なんの意味もない。森の中の倒木だろう。誰にも認められない音楽だから、それ自体でいられるんだ。
読まれない小説!座れない椅子!切れない包丁!透明の映画!偽札!
ジャジャジャジャってだけのくだらない雑音!
音楽的価値もエンターテイメントも無いから、それから逃げられるんだ。
雑巾が床に落ちてた。二日前にチキンラーメンこぼして拭いたやつ。それに向かってあたしは怒鳴った。あたしは、音楽がすきだ。ウケてるからか、カッコいいからか、尖っているからか、革新的だからか、歌詞が深いからか、音楽性に共感できるからか?
違う。
この雑巾と同じだ。誰にも見向きもされなくて、くだらなくて、迷惑で、煩くって、醜くって、吐き気がするような、臭くて汚くて惨めで死にたくなるような、何の価値もないものだから、サイコーなんだ。ナンセンスなあたしがあたしであるように。それでいいんだ。コレがあたしの悟りなんだ!
ジャジャジャジャ!ジャジャジャジャ!ジャジャ――
アンプがバチッと音を立てて壊れた。
「助けてよお」
あたしは泣きながら怒鳴った。
「売れたいよお」
電気の抜けたギターがペチペチ間抜けな音を立てた。親指と人差し指の爪んとこから真っ赤な血が垂れてラグを汚してる。
「帰ってきてよお、二人とも」
灰色のドアは押し黙ったまんま、携帯もうんともすんとも言わない。隣の部屋からものすごい打撃音が聞こえた。
まるで、ライブ前に始めるぜっ!って一発鳴らす感じのスネア・ドラムみたいにさ。