Fate/Sangoku Revenant【三国志×聖杯戦争】 作:司馬櫻
幕間 鴻雁那ぞ南地より去る
低く垂れ込めた空を、雁が列をなして飛んでいる。雲間から差し込む冬の日差しを、戦列の
成都城のほど近くに築かれた軍営で、蜀漢の牙門将・趙広は歩兵の調練を行っていた。
「止め!」
号令にしたがって
「(士気は申し分ないだろう、しかし……)」
張り詰めた空気の漂う陣中からは、隠しようもない緊張が見て取れる。
もっとも、昨今の情勢を思えば無理もないことだろう。
丞相(諸葛亮)の死をきっかけとした内外の綻びによって、伯約(姜維)殿までも免官の憂き目に遭ったのだから。
それに、昨夜の嵐は京師に少なからぬ被害を出したとか。季節外れの嵐に見舞われた大城には、いまだ生々しい爪痕が刻まれているそうだ。
「相次ぐ怪死に天変地異ときては、怪しげな童謡のひとつでも流行りそうではないか」
「シッ、滅多なことを言うな」
成都の
ひそひそ話を聞くともなしに、趙広はちらと空を仰いだ。
雁行は何事もなかったかのように南へと飛び去っていく。それがかえって痛ましく見えたのは、去りゆく背中を重ねてしまったからだろうか。
伯約殿が、無事に邸に戻られていれば良いが。
◇◆◇
「やあ、精が出るな。趙牙門」
今しがたまで練兵に励んでいた趙広は、振り向きざまにしゃんと姿勢を正す。
彼の宿営に訪れたのは、此度の調練を取り仕切る立場にある
先の政争で失脚した姜維に代わって、いまや彼こそが諸軍の統括を一手に引き受けているという。
「これは、張前領軍(張翼)。おかげさまで練兵も首尾よく運んでいます。いささか勇み足が気がかりではありますが……」
趙広が軍礼として拱手するのを待って、彼は陣中を見渡した。
「そうさな、おまえの指揮にはますます身が入っていた。兵士というものは、案外めざとく指揮官の意向を嗅ぎ取るものだ」
「そう気負うこともなかろう」と張翼は、品の良い細面に似合いの眼鏡を持ち上げる。
伊達に孔明に信を置かれた知将ではない。趙広は「そのようなものですか」と助言に目を見開いた。
国境に兵を進める東呉との軋轢、朝廷の権力争い……。天下の風雲ただならぬ気配に、知らず知らず当てられていたのかもしれない。
「ところで、明朝から尚書台(政府)に出仕されていたと伺いましたが。──いかがしましたか、張前領?」
「……いや。おまえには伝えておかねばならんだろう、と思ってな」
ひとしきり逡巡した末に重く口を開いた。その言葉に趙広は胸騒ぎの正体を知ることになる。
「な、伯約殿が行方知れずに……!?」
「その様子では知らなんだと見えるな。刑吏が向かった頃には、邸はもぬけの殻だったと」
若武者の驚きように張翼は苦り切った表情のまま安堵の息を吐いた。かたや趙広は血相を変えて知己の無実を言い募る。
「そのような筈はありません。伯約殿が謹慎をお破りになったのは、家僕を憐れんでのことです。どうして今になって逃げ去ろうとするものですか」
「今に京師から去ろうとする者の振る舞いにしては悠長だな。ただ万が一、敵地にまで逃げ込まれては敵わん」
先の北伐にて大敗を喫した
いち牙門将に過ぎない趙広が魏の降将を逃したとあらば、どのような沙汰を受けるか知れたものではない。
「……馬謖の末路を知らぬわけではあるまい。奴に肩入れするのも結構だが、父君の名に恥じぬようにゆめゆめ弁えるべきだ」
趙雲に付き従って漢中攻めに参戦したという張翼は、名にし負う定軍山の空城計にも立ち会ったとか。
何くれとなく自分に世話を焼きたがるのも、かつて父に命を救われたという誼あってのものだろう。
その不器用な優しさを無碍にできるほど、趙広は子供ではなかった。
「ここにいらしましたか、前領軍」
校尉のひとりが息急き切って宿営に駆け寄る。気づけば随分と話し込んでいたようだ。
しばし休息を与えていた兵士らの調子も戻っていることだろう。
ふたりを見送った趙広は持ち場へ戻るべく踵を返す。張翼はそれを遠く一瞥してから、ぽつりと呟いた。
「……実を言うとな、私は奴が──姜伯約が恐ろしいのだ」