「トレーナーさん」
と、甘い声が耳元でささやく。
驚きを隠そうとして、やめた。彼女の専属となってから、いつの間にか側にいるのが当たり前で、それに驚くのもまた恒例となっていたからだ。
返事の前に顔を傾ければ、声色と同じ香りが鼻腔を抜ける。
蠱惑的なまでに甘い、小麦と砂糖の匂いだった。
柔らかく芳醇なそれは、疲弊した脳髄中枢を刺激し、また得も言われぬ幸福感が滲み出る。
ただ脳が糖を欲するばかりでは、斯様な反応を示すことは有り得ない。
きっと彼女が菓子を焼いたのだろう。差し入れと言って、手料理を馳走してくれるのは、今日が初めてのことではなかった。
小さな手で、白魚の指で細々と調理器具を操る姿を想像すれば、笑みを浮かべぬ者は居まい。居るならそんなモノはヒトではないのだ。
然れども、ふと思えば、何をどうして自分に差し出されるものと思っているのだろう。
同級生に振る舞うものを、鞄に入れているだけかも知れぬ。
自分で食べるつもりだったなら──と自己批判的精神に身を浸していると、返事をしていないのに気付いた。
「……トレーナーさん?」
またも耳元。
ささやかな吐息が耳朶を擽るのが心地よい。
言葉の発音というのは、個人によって異なる。声の質と言い換えてもよい。
スティルインラブ──彼女のそれは、儚くも確りと心の奥底に染み入るものだ。
染み入る、もしくは侵し入ると言い換えられるだろう。
その甘美な音色と、芝上の走姿は、まさに神経の機能に異常を来すほどの猛毒と言えよう。
ならばそれに耽溺するのは、退廃と言えようか。
否、退いて廃れるというのなら、全くもって懸け離れている。
彼女は走る者だ。彼女らは走る
それが退くとは、有り得ることではない。
だから、この理性の埋没を示す言葉があるとすれば、それはきっと進化だろう。
進んで化けるのだから。
何に化けるといって、答えがあるものではないにせよ。
分からずともそれでよいと肚が据われば、それでよい。
「あ、あの……?」
思慮の渦から解放されんとした時、彼女の耳と、滑らかな曲線を描く頭部を覆う、純白のヴェールが目に入る。
これもよい。
ベージュや黒など、彼女は数種類を時節の服装に合わせて着用していた。
箪笥の奥に仕舞っているヴェールコレクションなどがあれば、いつか見てみたいものである。
しかし、やはり彼女には白が似合っている。
清純であり、純粋であり、濁る余地がある。
故に、深淵を覆うヴェールは、白であるべきなのだ。
──染まればよい、とは思っていない。
──染まっても良い、とは思っている。
間違いなく、彼女を導く者が為すべきことではない。
だが、目を閉じたのならば、瞼の裏には彼女の走りが焼き付いている。
目を閉ざさずとも、網膜の、その奥にこびりつく
凶暴な、淑やかとは程遠い姿。
しなやかで、芝を掛ける雄姿。
矛盾を解消せぬままに体現するその背を求めるのに、倫理とは斯くも脆弱である。
例えば、練習終わりなどに汗が滲んで、ヴェール越しに地毛の色が透けるように。
心理よりも深い部分から這い出るそれを隠し通すことは出来ないのだ。
スティルインラブ、という少女は、心優しい。
親切で、奥ゆかしくも儚い少女だ。
不安げに揺れる赤い瞳を見詰め、口端を上げてみれば、彼女は安堵の息を吐く。
ここにおいて、主体は彼女らにあるというのに。
トレーナーとは、あくまでも彼女らをより早く、長く走ることが出来るようにするものだ。
だというのに、あたかも彼女にはその前提が抜け落ちているように見える。
奥に居るもう一人に遠慮することはない。
二重らせんの片方が主軸と呼ばれることはないように、表裏は一体で主従ではない。
眼窩の奥に沈む狂気が
恐れるのでなく、寄り添うのだ。
この裡に秘めた、彼女を掬い上げたいという熱情と、共に溺れたいという冷静もまた矛盾しないのだから。
カチコチと時計の音ばかりが響く室内で、スティルの尾が揺れている。
彼女の手には、小さな包みが収まっていた。
やはり、芳香の根源はそれだった。
包みを開くまでもなく、中身は匂いで想像できた。
小麦の塊をバターと砂糖で練って焼く、素朴な焼き菓子だ。
前にコーヒーの供にと言って、彼女が作ったものを思い出す。
今回のものはシンプルに、フレーバーなどは無いらしい。
ふわりと広がる香りに頬が緩む。
甘味は、誰とて好きなものだ。
柔和な笑みと、共に道を行く愛があれば、猶の事だった。
愛、などと言い切ってしまえば、これ以上に座りの悪い感情はない。
しかし自分の
明確な答えを見出すことは難しかった。
彼女の笑みに蕩かされて。
彼女の走りに喜ばされて。
いつか自分は狂うのだろう。
だが――狂気であったとしても、誰かが寄り添ったのなら、それは愛ではないのか?
ならば、ただ一片の焼き菓子もまた、彼女の愛と言えるはずだ。
愛を受け取ることに、罪などあろうはずがない。
「味、変えてみたんです。どうでしょうか……」
手渡されたそのクッキーは、とても甘かった。