夜が明けても、澪の胸にはあの光景が焼きついていた。
迫りくる魔物の影。
その前に立ちはだかった自分の震える足。
そして、光を纏って降り立った“ヒーロー”の姿。
布団の中で目を開けたまま、何度もその場面が再生される。
──あれは、夢なんかじゃなかった。
階下に降りると、テレビからニュースキャスターの声が流れていた。
「昨日、市内にて小型魔物の出現が確認されました。幸い死傷者は出ず、現場に駆けつけた魔法少女〈暁星のリュミエール〉によって速やかに討伐されたとのことです──」
画面には、街路に残る破壊の跡と、取材に応じるリュミエールの映像。
あの穏やかな笑顔が、全国に放送されている。
「やっぱリュミエール様はすごいよね!」
妹の紗月が箸を握りしめて叫ぶ。
「一人で魔物を倒しちゃうなんて! しかも現場にいた人を守ったって!」
母も微笑みながらうなずいた。
「ほんと、あの子たちがいなかったらどうなってたか分からないわね。」
澪は味噌汁の湯気を見つめながら、無言で箸を進める。
その場に“いた”自分のことは、どこにも映っていなかった。
あたりまえだ。自分はただ震えていただけなのだから。
(...名前、リュミエールって言うんだ)
昨日、あれほど近くにいて、声をかけられて。
それなのに、名前を聞くことすら忘れていた。
ただ眩しさに呑まれ、何も返せないまま終わった。
家を出ると、通学路には昨夜の余韻が残っていた。
あちこちで「怖いね」とか「でも魔法少女がすぐ来てくれて助かった」といった声が交わされている。
それを聞くたび、澪の胸は重く沈んだ。
校門の前で待っていた凛音は、澪の顔を見るなり声を弾ませた。
「澪! 昨日のニュース見た!? やっぱリュミエール様すごいよね! あの人、ほんとに人類の希望って感じ!」
「......うん。」
短く返す澪の声は、自分でも驚くほど小さかった。
凛音は気づかずに続ける。
「私、いつか直接見てみたいなぁ。生で戦うところとか。絶対感動するよ!」
──直接見たら、どうなるんだろう。
澪は喉の奥で言葉を押し込んだ。
あの恐怖も、光も、誰かに説明できる気がしなかった。
昼休みになれば、教室でも話題はリュミエール一色だった。
「ニュース見た?」「現場に居合わせた人羨ましい!」
クラス中が熱狂しているのを、澪はただ窓際で眺めていた。
(……羨ましい、か)
昨日の記憶は胸の奥をざらざらと擦り続けている。
自分は“守られる側”でしかなかった──その事実が、逃げ場のないほど重くのしかかっていた。
放課後、凛音と別れた帰り道。
夕暮れの街は再び灰色の雲に覆われ、街路灯が順々に灯り始めていた。
澪は立ち止まり、ふと自分の手のひらを見つめる。
庇ったつもりで差し出した手。
けれど結局、震えていただけの手。
(...私、何がしたかったんだろ)
問いに答えるものはなく、ただチャイムの音がまた鳴り響いていた。
人の流れが途切れた道を、澪は一人で歩いていた。
夕暮れの色は淡く、しかし街全体を覆うのは不思議な灰色だった。
昨日と同じだ。空を見上げても、あの光はどこにもない。
家へ帰るには少し遠回りになる道を、澪は無意識に選んでいた。
人の声が少ないほうがいい。
褒め称える声を聞くたび、心臓の奥がひりつくから。
立ち止まったとき、胸の奥に冷たい風が吹き抜けた気がした。
リュミエールは自分を庇った少女を褒め、そして自分のことも「勇気がある」と称えた。
けれどその言葉は、まるで手触りを失った光の粒のように、澪の中をすり抜けていった。
「...勇気、なんて」
思わず声に出す。
夕闇の街に溶けて、誰にも届かない。
確かにあのとき、自分は手を伸ばした。
けれど──震えていただけだった。
守ったのは澪ではなく、最後にすべてを救ったのは魔法少女。
そう気づけば気づくほど、あの一瞬の「庇う」という行為が、どんどん薄っぺらに思えてくる。
澪は手のひらを見つめ、指先をぎゅっと丸め込んだ。
爪が掌に食い込んで、じわりと熱を帯びる。
「……なんで、あんなこと」
答えは出ない。
ただ空気は冷えていき、ビルの間に沈む空は夜の気配を濃くしていく。
遠くでまた、サイレンの音が鳴った。
その音が街に広がると、人々は一様に足を速める。
ざわめきと同時に、どこかで小さな子供の泣き声が混じる。
澪も歩き出そうとしたが、足は重く、一歩が遠かった。
昨日の焼きついた残像が、何度も瞼の裏をよぎる。
街路灯の明かりが、ふっと一瞬だけ揺れた。
胸の鼓動が跳ねる。
だがすぐに光は安定し、何事もなかったかのように夜が続いた。
澪は小さく息を吐き、歩き出す。
けれど、背後に伸びた自分の影が──どこか頼りなく揺れているように思えてならなかった。