その夜。
澪は机に向かって教科書を広げてはみたものの、文字は頭の中に入ってこなかった。
──リュミエール。
テレビの中で笑っていた彼女。
街で自分を救った“ヒーロー”。
(...名前を知って、ますます遠くなった気がする。)
たった一度、すぐそばで声をかけられただけ。
それなのに“名前”という輪郭を得た瞬間、彼女はますます高みに行ってしまった。
澪にとっては、もうどうしようもなく届かない存在。
鉛筆を置き、頬杖をつく。
窓の外には街の光がにじんでいた。
昨日まで当たり前だったその景色が、今夜は妙に薄っぺらに感じられる。
階下からは妹と母の笑い声が聞こえてきた。
おそらくはニュース番組の特集だろう。
“希望の象徴”に救われた日常を、誰もが疑いなく享受している。
澪はその輪に入れなかった。
胸の奥に渦巻くのは、救われた安堵ではなく、居場所を失ったような焦燥感だった。
(...私は、守られるだけの立場でいいの?)
机の引き出しに手を伸ばす。
取り出したのは、小さな、煌びやかな鏡だった。
手のひらに収まる古びた鏡。子どものころ、魔法少女に憧れて買ってもらった玩具の一つだ。
鏡を見つめながら、澪はぽつりと呟く。
「...私なんかが、何を望んでたんだろ。」
返事はない。
鏡に映る自分の顔は疲れて見え、思わず目を逸らした。
やがて、瞼が重くなっていく。
澪は机に突っ伏したまま、うとうとと浅い眠りに落ちていった。
──そのとき。
窓の外で、かすかな音がした。
風かと思ったが、違う。耳に届いたのは、低く唸るような異質な響きだった。
半ば夢の中にいた澪の背筋に、ぞわりと寒気が走る
耳の奥を掠めるような、低く唸る音。
澪は目を開けた。
窓の外で、街路灯が一瞬だけちらついていた。
さっき道端で見たあの揺らめきが、まるで追いかけてきたかのように思える。
心臓が早鐘を打つ。
澪は机から立ち上がり、窓へと近づいた。
ガラス越しに見えたのは──闇に紛れるように漂う、何か小さな影。
羽音を響かせながら、ふらふらと空気を切り裂いている。
一瞬、ただの虫だと思った。
けれど次の瞬間、その存在はあり得ないほど強い“視線”で澪を射抜いてきた。
「...っ。」
息が止まる。
影はふらりと近づき、窓に張りついた。
夜の街灯に照らされた輪郭は、羽虫に似てはいるが──目にあたる部分が、不気味に光を宿していた。
しかもその光が、澪の心を覗き込むように揺れている。
(なに...これ...魔物?)
脳裏をよぎった瞬間、頭の奥に“音”が流れ込んできた。
──カタカタと笑うような、かすれた響き。
意味を結ばない雑音のはずなのに、直感的に理解できてしまう。
(...ヒト...)
澪の背筋が凍りついた。
声が聞こえたのではない。頭の中に直接“響いた”のだ。
影はガラスを這うようにして澪へ近づき、その羽音を強めた。
圧迫感とともに、澪の意識がふわりと引きずられていく。
「...やめろ....っ」
声にならない。
胸の奥から力が抜け、膝が折れそうになる。
その瞬間──階下から妹のはしゃぐ声が響いた。
「ママー! リュミエール様がまた映ってるよ!」
次の瞬間、窓に張りついていたはずの影は──もう、いなかった。
「.......?」
確かにそこにいた。
羽音も、視線も、全身を絡め取るような圧迫感も。
けれど気づけば、窓の外はただ夜の闇が広がるだけで、影の痕跡はどこにもない。
澪は震える手で胸を押さえた。
心臓が跳ねるように脈打ち、息は荒く、視界がかすんでいく。
(...苦しい?)
違う。胸の奥で何かが蠢いている。
まるで小さな虫が入り込み、体の内側を這い回っているような、異様な感覚。
冷たい汗が頬を伝う。
けれど助けを呼ぶ声は出なかった。
ただ鏡に映る自分の目が──ほんの一瞬、誰か別のものに覗かれているように光った。
澪は机に突っ伏し、そのまま意識を手放した。
静かな夜。
窓の外には、もう影の気配はどこにもなかった。
──なかったはずなのに、澪の胸の奥で、小さく羽音が鳴った気がした。