灰色の魔法少女   作:ろじっく

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5話です


影のささやき

その夜。

澪は机に向かって教科書を広げてはみたものの、文字は頭の中に入ってこなかった。

 

──リュミエール。

テレビの中で笑っていた彼女。

街で自分を救った“ヒーロー”。

 

(...名前を知って、ますます遠くなった気がする。)

 

たった一度、すぐそばで声をかけられただけ。

それなのに“名前”という輪郭を得た瞬間、彼女はますます高みに行ってしまった。

澪にとっては、もうどうしようもなく届かない存在。

 

鉛筆を置き、頬杖をつく。

窓の外には街の光がにじんでいた。

昨日まで当たり前だったその景色が、今夜は妙に薄っぺらに感じられる。

 

階下からは妹と母の笑い声が聞こえてきた。

おそらくはニュース番組の特集だろう。

“希望の象徴”に救われた日常を、誰もが疑いなく享受している。

 

澪はその輪に入れなかった。

胸の奥に渦巻くのは、救われた安堵ではなく、居場所を失ったような焦燥感だった。

 

(...私は、守られるだけの立場でいいの?)

 

机の引き出しに手を伸ばす。

取り出したのは、小さな、煌びやかな鏡だった。

手のひらに収まる古びた鏡。子どものころ、魔法少女に憧れて買ってもらった玩具の一つだ。

 

鏡を見つめながら、澪はぽつりと呟く。

 

「...私なんかが、何を望んでたんだろ。」

 

返事はない。

鏡に映る自分の顔は疲れて見え、思わず目を逸らした。

 

やがて、瞼が重くなっていく。

澪は机に突っ伏したまま、うとうとと浅い眠りに落ちていった。

 

──そのとき。

窓の外で、かすかな音がした。

風かと思ったが、違う。耳に届いたのは、低く唸るような異質な響きだった。

 

半ば夢の中にいた澪の背筋に、ぞわりと寒気が走る

 

耳の奥を掠めるような、低く唸る音。

澪は目を開けた。

 

窓の外で、街路灯が一瞬だけちらついていた。

さっき道端で見たあの揺らめきが、まるで追いかけてきたかのように思える。

 

心臓が早鐘を打つ。

澪は机から立ち上がり、窓へと近づいた。

 

ガラス越しに見えたのは──闇に紛れるように漂う、何か小さな影。

羽音を響かせながら、ふらふらと空気を切り裂いている。

一瞬、ただの虫だと思った。

けれど次の瞬間、その存在はあり得ないほど強い“視線”で澪を射抜いてきた。

 

「...っ。」

 

息が止まる。

 

影はふらりと近づき、窓に張りついた。

夜の街灯に照らされた輪郭は、羽虫に似てはいるが──目にあたる部分が、不気味に光を宿していた。

しかもその光が、澪の心を覗き込むように揺れている。

 

(なに...これ...魔物?)

 

脳裏をよぎった瞬間、頭の奥に“音”が流れ込んできた。

 

──カタカタと笑うような、かすれた響き。

意味を結ばない雑音のはずなのに、直感的に理解できてしまう。

 

(...ヒト...)

 

澪の背筋が凍りついた。

声が聞こえたのではない。頭の中に直接“響いた”のだ。

 

影はガラスを這うようにして澪へ近づき、その羽音を強めた。

圧迫感とともに、澪の意識がふわりと引きずられていく。

 

「...やめろ....っ」

 

声にならない。

胸の奥から力が抜け、膝が折れそうになる。

 

その瞬間──階下から妹のはしゃぐ声が響いた。

 

「ママー! リュミエール様がまた映ってるよ!」

 

次の瞬間、窓に張りついていたはずの影は──もう、いなかった。

 

「.......?」

 

確かにそこにいた。

羽音も、視線も、全身を絡め取るような圧迫感も。

けれど気づけば、窓の外はただ夜の闇が広がるだけで、影の痕跡はどこにもない。

 

澪は震える手で胸を押さえた。

心臓が跳ねるように脈打ち、息は荒く、視界がかすんでいく。

 

(...苦しい?)

 

違う。胸の奥で何かが蠢いている。

まるで小さな虫が入り込み、体の内側を這い回っているような、異様な感覚。

 

冷たい汗が頬を伝う。

けれど助けを呼ぶ声は出なかった。

ただ鏡に映る自分の目が──ほんの一瞬、誰か別のものに覗かれているように光った。

 

澪は机に突っ伏し、そのまま意識を手放した。

 

静かな夜。

窓の外には、もう影の気配はどこにもなかった。

──なかったはずなのに、澪の胸の奥で、小さく羽音が鳴った気がした。

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