「私はただの小娘ですので」
いったい、なにを期待されているか知りませんが。
かた、とかそけき音がする。卓を挟んで向かいに座る客人が、みじろいだ音だった。
デルフィーニは眼を細めた。
――これほどに
人は変わるものなのか。
ナルシッサ・マルフォイはまさしく「純血」の女であった。灰色の眼は下々を睥睨する。いいや、もしかしたら端から眼に入らない。彼女にとっては純血以外など背景に等しい……。
輝く白金の髪は絹糸のごとく。その肌は雪のごとく。唇はほんのりと赤い。ブラック家の血の恩恵を余すことなく享受したひと。神話に謡われる、
それが。
「……けれど、けれど……」
あなたは『例のあの人』を討ったわ。
唇を震わせ、戦慄く声。彼女は声すらも美しかった、とデルフィーニは思い出す。かった、だ。今はどうか。
掠れ、ひび割れ、ただ暗い。
「私だけの力ではありません」
事実を述べる。独力で討ちましたなどと、口が裂けても言えない。たしかにデルフィーニ・ブラックは勝利に貢献した。「神秘部にハリー・ポッターとともに乗り込み、死喰い人相手に大立ち回りを演じ、あまつさえ『名前を言ってはいけない例のあの人』を討った」とされている。
実は先行して乗り込んでましたとか、実はベラトリックス・レストレンジを暗殺しましたとか、ベラトリックス・レストレンジに扮しハリー・ポッターとの追いかけっこをしている最中に死喰い人を闇討ちしましたとか、そのあたりは省略している。
「父におすがりになったほうが、よほど見込みがあるのでは?」
ホグワーツの理事、ブラック本家当主。「ヴォルデモートを討ちし者」の父。マーリン勲章こそ辞退したが、デルフィーニのような小娘よりはよほど影響力があるだろう。
「私のほうが御しやすいと思った?」
成人したばかりで、甘いところがあると思った。だから。
「……父や婚約者が不在の隙を狙って」
雨に濡れて、哀れっぽい姿でやってきた?
「よほどご夫君を思っていらっしゃるようで」
ついつい、言葉に刺が混じる。ついつい、視線は冷たくなる。甘いのはどちらだろうか。
「私はあなたの、」
「父の従姉」
ね? と微笑んでみせる。ひく、とナルシッサの口端がひきつった。彼女の灰色……ブラック家の星の眼はくすみ、うっすらと隈まである。唇は荒れ、顔色は青白い。
「あなたが赤ん坊の頃、世話を……」
肯定も否定もしない。デルフィーニ・ブラックはブラック本家の遠縁の娘であるので。レギュラス・ブラックの養女となった身であるので。
「レディ・マルフォイ」
かわいそうに。ご夫君が投獄され、気が弱っておられるのですね。
デルフィーニは優しく言う。偶然か、必然か。柔らかなその言の葉は、彼女の父とよく似ていた。穏やかに、諭すようなその口調。真のいたわりが籠もっているようでいて、秘めているのは明確な拒否。
大貴族というものは、恵みをもたらす者である。利を配る者である。だが。
慈悲を与える相手は選ぶものだ。
気品という衣を纏い、縋る手を振り払う。
「ご子息が心配しておられるはず」
そろそろ、陽も暮れてきました。
デルフィーニは窓の外を見やる。銀色の雨滴がロンドンの街を濡らしている。黄昏時にはほど遠い。ましてや、夏なのだ。昼は長く、夜は短い……。
「あの、人は……アズカバンなんて……」
「十二年耐えた者もいましたね」
私の伯父なのですけど。
ナルシッサの眼が潤む。儚げな美女の絵である。ブラック家の血というものは、かくも罪深い。虫のよいことを言って、小娘に縋ろうとしている女のことだって、一流の芸術品に仕立ててしまうのだから。
「さらに一、二年耐えた者もおりましたね」
ああ、あなたの姉でしたか。
とどめの一撃を放つ。ナルシッサが胸を押さえた。信じられない、といわんばかりの眼であった。デルフィーニは彼女の花顔をとっくりと見やった。
――あれも
こんな顔をしたのだろうか。信じられない、と。それともなにもわからずに逝ったのだろうか。
ベラトリックス・レストレンジ――否、本人はいついつまでもブラックのつもりだったが――は、最期に、かすかな吐息を漏らしただけであった。死の呪文は速やかに、あっけなく彼女の命を刈り取った。劇的ななにかなど、どこにもなかった。
ああ、お母様……と涙ながらに許しを請い、いかにも弱々しく、従順に肉の母に抱きつき……殺したのだ。拍子抜けしたものだ。闇の帝王の副官が、いかに「娘」を侮っていたとはいえ、ああいう死に方をするなんて。
「鴉が鳴いております」
お気をつけて、と畳みかける。呻きながら、ナルシッサは立ち上がる。よろめくような足取りで、細く頼りない花が去っていく。
わざわざ玄関ホールまで見送る気にはなれなかった。
「……どいつもこいつも」
まるで怪物を見る眼だ、とぼやく。すっかりぬるくなった茶を飲み干すか、どうするか迷う。ぬるいわ渋いわで飲めたものじゃないだろうが……と思っているうちに、新しい茶器が宙を滑るようにやってきた。
「言ってくれれば丁重にお見送りしたのに」
「アスラン家の若君に」
そんなことをさせられないでしょう。
空席に滑り込んだ従弟を見やる。北米貴族。伯父の息子。つまり血縁。夏の宴に出席するために渡英。宴が終わっても、帰る様子はない。父――レギュラスの言いつけで、デルフィーニとともにブラック本家の「留守番」をしている。たぶん、護衛のつもりだろう。「ヴォルデモートを討ちし者」は闇の陣営、その残党の恨みを買っているようなので。
年下に守られるってどうなのか。それよりなにより、実は甥らしいのだが、アスラン家の若君は。だいたい全部ヴォルデモートが悪い。デルフィーニをつくったとき、あの男は何歳だったか考えてはいけない。考えたくない。かなり嫌だ。
「お客さん扱いで暇で」
「……暇つぶしに調合やらお菓子づくりやらしているのに?」
「母上や伯母上は残党狩りに勤しんでるのに」
俺は駄目、と。
あーあ、と言って、若君は大変退屈そうだった。ホグワーツへ留学、転入準備をさっさと済ませ、だらだらと過ごしているのだ。
「レディ・アスランとレディ・シメーレなら問題ないでしょう」
なにせ「ヴォルデモートを討ちし者」。加えてレディ・アスランは本業の闇祓い。たぶん将来は北米闇祓い局の長になるだろう、とのことだ。つまり実力者。
そして、彼女たちはデルフィーニの異母姉らしい。年齢差のありすぎる異母姉。あれこれと明かされて、デルフィーニの入院は少し長引いた。正直、絶句した。あの男、計三人も子どもをつくっていたのかろくでなしのくせに、と頭が痛くなったものだ。
どう考えたって異母姉は無理がある。もはや伯母である。レディ・アスランのことを伯父の妻、つまり伯母と思って接していたので今更変えられるわけがない。レディ・シメーレも似たようなものだし、年下とはいえ一つしか違わない甥なんて……でもある。アスラン家の若君は遠い眼で言ったものだ。「うん、俺もあんたを叔母と思うのは無理。俺たちはいとこ」と。貴族の家系図はややこしいものであるが、いくらなんでも、である。
「マルフォイ家のご婦人のことは気にしないことだ」
頭痛をこらえるデルフィーニに、若君が語りかける。
「頼れる夫はおらず、息子を抱えた身。駄目で元々、あんたの靴に接吻しにきたと」
なんとまあ最悪な言い回しか。どこぞのヴォルデモートよろしく、ローブの裾に接吻させる趣味などない。靴も同じくだ。
「刑期を短く、あるいは釈放なんて無理に決まっている。わかっていても、動かずにはいられなかったのさ」
湿っぽさなど欠片もない。若君の口調はどこまでも軽やかだ。お茶のついでの世間話、他愛もない、くだらないそれ、と言わんばかり。
デルフィーニはほっと息を吐いた。知らず知らずのうちに身が強ばっていたのだろう。肩から力が抜けていく。
「……愛しているから?」
「幸せな政略婚の最たる例だろうよ」
付く陣営を間違えたのは、かわいそうだけれど。
「別に、殊更に憎いわけじゃないのよ」
ぽつんとこぼす。ナルシッサにだって言い分はあるだろう。姉に赤ん坊を押しつけられて、妊娠中だというのに世話をさせられた、とか。いわゆる「純血」は闇の帝王に従うしかなかったのだとか。デルフィーニに強いて害を与えようとしたことはないとか、色々と。
好きにはなれない。だが、殺してやろうと思うほどではない。ひ弱な白いるかは、誰かに世話をしてもらえなければ死んでいたことだろう。押しつけられようが、嫌々だろうが……レギュラス・ブラックに引き取られるまでの間、デルフィーニを世話したのはナルシッサであった。
ナルシッサをどう思っているかなんて、父には言い辛い。婚約者のセドリック・ディゴリーにも言い辛い。
あんな綺麗で優しそうな母親がいればいいな、と小さな頃に思っていたなんて。
どうしようもないことだ。デルフィーニの肉の母はベラトリックスだ。ブラック分家の三姉妹の中で最も苛烈で残酷な女だ。それは変えられない。
「ルシウスは妻子を置いては死なないでしょう」
ヴォルデモート凋落後ものらりくらりと巧くやった。『分霊箱』である日記帳が破壊されたことも隠し通した。ヴォルデモートが「復活計画」に照準を合わせていて、ルシウスが『秘密の部屋』のひの字も言わなかったお陰もある。動機はどうあれ、ヴォルデモートの討伐に貢献した、ともいえる。
せっかく「我が君」が討たれたのに監獄で朽ちるとは思えない。幸いと言っていいのか、終身刑にも処刑にもならなかった。ルシウス・マルフォイは生き延びて、監獄を出るだろう。もうアズカバンに吸魂鬼はいないのだから。
「その気になればルシウス・マルフォイの罪を上乗せできたろうに」
甘いよね、叔母上。
デルフィーニは眉間にきゅっと皺を刻んだ。アーサー・ウィーズリーが蛇に襲われた一件で、罪を「上乗せ」しようと思えばできた……かもしれない。それにブロデリック・ボードの一件だってできたかもしれない。ルシウス・マルフォイは魔法省に出入りできた。ナギニを運び込むことができた。聖マンゴに悪魔の罠の鉢植えを、お見舞いと称して仕込むことだってできたのではないか? と。
証拠はない。だが、心証を悪くすることはできただろう。単に面倒だっただけだ。ルシウスの名誉は地に墜ちた。監獄に放り込まれ、まだ調子に乗っているようなら、ブラック家が締め上げればいいだけのことだ。
「監獄入りした無様な男に、かかずらうなんて時間の無駄じゃないの」
ねえ甥っ子。
仕返しに甥呼ばわりすれば、若君は顔をしかめた。そんな顔をするなら、叔母呼びはやめろ。
「たしかに俺たちは忙しい」
あんたは最高学年、そして高等魔法試験の年。
「……あと、絶対噂になる」
婚約指輪をはめていれば、当然そうなる。
つらつらと若君は言う。生意気な口を縫い止めたい衝動をこらえ、デルフィーニは黙って耳を傾けた。
「ご結婚はいつですか、レディ・ブラック……とね」
「外したほうがいいと思う?」
なかなか相談しにくいことというものはある。そう、たとえば学生の身分でこれみよがしに……そんなつもりはないが……婚約指輪をつけるのは、とか。一つ年下。だけれども飄々としている甥、いや従弟くらいしか、相談相手がいないのである。トンクスは、夏の宴で眼を輝かせていたし。それに、ホグワーツで行われた卒業式とマーリン勲章およびホグワーツ特別功労賞授与式でも「いいなあ」と言っていたし。(彼女は新魔法大臣アメリア・ボーンズの護衛であった)大変、素直な「いいなあ」だった。なぜかルーピンは眼を逸らしていたし、早足でどこかへ行こうとして、トンクスに拘束されていた。
「わざわざ相談するってことは?」
「……虫除けだから、外しちゃだめって」
セドが、と小さく言う。
「ああ……卒業したから、心配なわけだ」
「私だって心配よ」
なぜ同い年ではないのか。たった一つ。されど一つ。彼は卒業。私は在学。ホグワーツに旅立ってしまえば、会えるのは冬期休暇やイースター休暇。まったく婚約者らしくない。しかも彼はヴォルデモート討伐に貢献した者の一人である。妙なのが寄ってこないとも限らない。
「……お互い、虫除けでつけておけば」
若君は投げやりに言った。のろけるんじゃないよとその眼は語っている。デルフィーニは俯いた。そんなのろけているつもりはないけれど。
「あんたの婚約者殿、俺の未来の従兄弟殿」
ただ一人しか見ていないから大丈夫だよ。
見ているこっちが恥ずかしいったら、と若君はぶつぶつ言う。うーんと唸った。
「ところで従姉殿」
内緒話をするように、彼は声を低めた。
「クイン・マグダラについてなにか知らない」
見ているこっちが恥ずかしいと言い返したい。
親愛なる従弟の眼には、情熱が燃えさかっている。さすが天狼星の息子だこと、と嘆息した。
強いて言えばグリフィンドールかスリザリンと組分け帽子に言われたらしい彼。しかし帽子をねじ伏せ、レイブンクローに組分けされたと言っていた彼に、クイン・マグダラについて知っていることを教えたが。
若君はそれどころではなくなった。
九月一日。闇の魔術に対する防衛術、魔法薬学の新任教師が彼の母親と伯母と判明した。
若君は凍り付いた。肩に乗った白い仔ニーズル――セドリックから送られてきた――は欠伸をしていた。デルフィーニがキャスパリーグと名付けたその仔は、大変かわいらしかった。
ちらりとレイブンクローの長テーブルを見やり、スリザリンの首席ことレディ・ブラックは呟いた。
「ご愁傷様」
若君、恋にうつつを抜かしている暇はなさそうだ。
ひらひらと手を振ってやる。
細い指にはまった、約束の証が煌めいた。