日本ではお馴染みの民話ホラーパロです。後半から少々エグいので、ご注意ください。

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鶴の怨返し

 

 白川村の奥深く、雪に埋もれた小さな集落に、猟師の太郎兵衛が一人暮らしていた。四十を過ぎてなお独り身の彼は、毎日山に入っては獲物を狩り、それを村人に売って細々と暮らしを立てていた。合掌造りの家は代々受け継いだものだが、今は彼一人が住むには大きすぎて、冬の夜には梁が軋む音だけが響いた。

 

 その年の冬は殊の外厳しく、雪は人の背丈ほども積もり、獲物となる動物たちも姿を消していた。太郎兵衛の蓄えは底をつき始め、手のひび割れは日に日に深くなっていった。囲炉裏の灰をかき混ぜながら、彼は祖母から聞いた言い伝えを思い出していた。

 

「山の獣を助けても、決して見返りを期待してはならぬ。礼を受け取れば、必ず代償を払うことになる」

 

 老婆の声が耳に蘇る。しかし、そんな昔話に構っている余裕はなかった。

 

「このままでは春まで持たぬかもしれん」

 

 そう呟きながら、太郎兵衛は吹雪の中を歩いていた。足音すら雪に吸い込まれる静寂の中で、彼は微かな鳴き声を聞いた。風の音に紛れそうになりながらも、それは確かに生き物の苦しげな声だった。

 

 声の方へ向かうと、雪に半ば埋もれた罠に一羽の鶴が足を挟まれていた。美しい白い羽毛は雪と見分けがつかないほどで、赤い頭頂部だけが鮮やかに目立っていた。鶴は太郎兵衛を見上げ、まるで助けを求めるような目をした。

 

 太郎兵衛は一瞬躊躇した。祖母の言葉が頭をよぎる。しかし、目の前で苦しむ命を見捨てることはできなかった。

 

「おお、可哀想に」

 

 彼は迷わず罠を外してやった。鶴の足には深い傷があったが、骨は無事なようだった。彼が手を離すと、鶴は一声高く鳴いて太郎兵衛を見つめ、その目には人間のような感謝の色が宿っていた。そしてゆっくりと雪空へ舞い上がっていった。

 

「達者でな」

 

 太郎兵衛は見送り、帰路についた。祖母の警告が気にはなったが、助けてしまったものは仕方がない。そう自分に言い聞かせた。

 

 それから三日が過ぎた夜のことだった。激しい吹雪が窓を叩く中、太郎兵衛の家の戸に控えめな音がした。こんな夜に誰が来るのかと不審に思いながら戸を開けると、そこには見たこともないほど美しい女が立っていた。

 

 雪のように白い肌、黒髪は腰まで届き、着物は上質な絹らしく艶やかに光っていた。年の頃は二十代半ばほどで、その美貌は月明かりの下でも神々しいほどだった。しかし太郎兵衛は気づかなかった。女の指先に、わずかな白い羽毛が付いていることに。

 

「突然の訪問をお許しください」女は深々と頭を下げた。「道に迷い、宿を探しております。一晩でも構いません、どうかお泊めいただけないでしょうか」

 

 太郎兵衛は一瞬言葉を失った。こんな美しい女性が、なぜこんな山奥の自分の家に来たのだろう。しかし吹雪の中を一人で歩く女性を追い返すわけにはいかなかった。

 

「もちろんだ。さあ、中へ入りなされ」

 

 女は丁寧に礼を言い、家の中へ入った。その瞬間、囲炉裏の火が一瞬だけ青く揺らめいた。太郎兵衛は不思議に思ったが、風のせいだろうと考えた。彼は囲炉裏の火を大きくし、温かい茶を用意した。女は静かにそれを口にしながら、ふと真剣な表情になった。

 

「お優しくしていただき、ありがとうございます。お礼と言ってはなんですが、明日から少しの間、こちらでお世話になりながら、何かお手伝いをさせていただけないでしょうか」

 

「手伝いなど」

 

「機織りができます。反物を織って、それを売れば幾らかの足しになるでしょう」

 

 太郎兵衛の目が輝いた。確かに女物の着物や反物は村でも重宝される。この厳しい冬を乗り切るための助けになるかもしれない。

 

「それは有り難い。しかし、そんなに世話になっては」

 

「いえ」女は微笑んだ。「ただし、一つだけお約束していただきたいことがあります」

 

「何でも聞こう」

 

 女の表情が一瞬、厳しいものに変わった。そして奥の部屋の方を指差した。その障子の向こうは、妙に暗かった。夜の闇よりもさらに深い、底知れない暗闇が広がっているように見えた。

 

「私が機を織っている間、決してその部屋を覗かないでください。どんなことがあっても、です」

 

 女の目が太郎兵衛を見据えた。その瞳の奥に、一瞬だけ赤い光が宿ったような気がした。太郎兵衛は背筋に冷たいものを感じたが、約束しないわけにはいかなかった。

 

「分かった。約束する」

 

「本当に?」女は念を押した。「一度でも覗けば、全てが終わります」

 

「ああ、約束だ」

 

 女は安堵したように微笑んだが、その笑顔のどこかに悲しみが滲んでいた。

 

 その夜、太郎兵衛は久しぶりに希望を抱いて眠りについた。しかし夢の中で、鶴の鳴き声を聞いた気がした。

 

 翌朝から、女は奥の部屋で機織りを始めた。太郎兵衛は女のために古い織機を用意し、彼女は礼を言って部屋にこもった。障子が閉まる瞬間、太郎兵衛は部屋の中が一瞬だけ白く光ったような気がした。

 

 その夜、太郎兵衛は微かな機音を聞いた。しかしそれは普通の機織りの音とは違っていた。規則正しい音の合間に、時折、羽ばたくような音や、小さな鳴き声のようなものが混じっているのだ。

 

「気のせいだろう」

 

 太郎兵衛はそう思い直したが、やがて別の違和感に気づいた。部屋の前だけが妙に暖かいのだ。まるで何かが燃えているような、生き物の体温のような熱が障子から滲み出ていた。そして微かに、血の匂いがした。

 

「染料を使っているのだろう」

 

 太郎兵衛は自分に言い聞かせた。しかし、その匂いは染料というには生々しすぎた。

 

 三日目の朝、女が部屋から出てきた。太郎兵衛は息を呑んだ。女の顔は少し青白くなっていたが、それ以上に驚いたのは、彼女が抱えていた反物だった。

 

 それは太郎兵衛が今まで見たこともないほど美しいもので、絹糸は真珠のような光沢を放ち、織り込まれた模様は雲間を飛ぶ鶴を描いていた。よく見ると、その鶴の目が本物のように生き生きとしていて、まるで反物の中で息をしているかのようだった。

 

「これを」女は反物を差し出した。「村で売ってください」

 

 太郎兵衛は反物を受け取り、その美しさに見入った。しかし手に取った瞬間、奇妙な感覚に襲われた。反物が微かに温かく、まるで生きているかのように脈打っているような気がしたのだ。

 

「これほど上等な品を」

 

「お世話になっている礼です。どうか遠慮なさらず」

 

 女は微笑んだが、太郎兵衛は彼女の手元を見て凍りついた。女の指先に、うっすらと血が滲んでいたのだ。

 

「その指」

 

「ああ、これは」女は慌てて手を隠した。「針で突いてしまっただけです。気にしないでください」

 

 太郎兵衛は村へ向かった。反物を抱えて歩く間、彼は何度も後ろを振り返った。まるで誰かに見られているような気がしてならなかった。

 

 村の呉服商は反物を見た瞬間、目を見張った。そして手に取ると、まるで取り憑かれたように反物を見つめ続けた。その目は潤み、離すことができないようだった。

 

「これは」商人は息を呑んだ。「これは一体」

 

「どうだろうか」太郎兵衛は尋ねた。

 

 商人は破格の値段を告げた。それは太郎兵衛の一ヶ月分の収入に匹敵するものだった。しかし商人は言った。

 

「本当はこんな値段では足りない。もっと出してもいい。これを手に入れられるなら」

 

 その夜、商人は不思議な夢を見た。雪の夜に機音が響き、白い羽が降ってくる夢を。

 

 家に戻った太郎兵衛は、女にその報告をした。女は微笑んだが、その顔は朝よりもさらに疲れているようにも見えた。目の下には薄い隈ができていた。

 

「それは良かった」女は言った。「また明日から織らせていただきます」

 

「無理をしなくていい」太郎兵衛は言った。「体を壊してはいけない」

 

 しかし彼の言葉は半分だけが本心だった。もう半分は、あの美しい反物がもたらす富を期待していた。

 

 反物の売上は太郎兵衛の生活を変えた。今まで質素な食事しかできなかった彼が、村一番の料理屋で美味しい物を食べられるようになった。新しい着物も買い、家の修繕もできた。屋根の雪下ろしを人に頼むこともできた。

 

 そして女は毎日、美しい反物を織り続けた。どの反物も前回に劣らぬ美しさで、村の商人たちは太郎兵衛の持参する反物を心待ちにするようになった。

 

 しかし、女の体は日に日に弱っていった。頬はこけ、唇の色は失せていった。朝、部屋から出てくる時、彼女は時々足元がふらついた。

 

 ある日、太郎兵衛は廊下に不思議な足跡を見つけた。それは人間の足跡ではなかった。三本の指のような形をした跡が、奥の部屋から続いていた。雪解け水かと思ったが、その日は晴れていた。

 

 太郎兵衛は不安を感じ始めた。しかし同時に、彼の欲望も膨らんでいた。隣村の商人から注文が来るようになり、さらに遠くの町からも引き合いがあった。

 

「もう少し早く織れないものかな」

 

 ある日、太郎兵衛は女に言った。女は驚いたような表情を見せた。

 

「今のままでは不十分でしょうか」

 

「いや、そうではない」太郎兵衛は言葉を選んだ。「ただ、これだけ評判になれば、もっと多くの注文が来る。断ってしまっては、村の評判にも関わる。お前の技が世に知られるべきだと思うんだ」

 

 女は少し考えてから頷いた。

 

「分かりました。できるだけ努力いたします」

 

 太郎兵衛は自分の言葉を正当だと信じていた。これは女のためでもあるのだと。しかし心の奥底では、金の重みが彼を駆り立てていることを知っていた。

 

 それから女は夜遅くまで機を織るようになった。太郎兵衛は聞こえてくる音に耳を澄ました。機音に混じって、時折苦しそうな呻き声のようなものが聞こえてくることがあった。そして何かが裂ける音、液体が床に滴る音。

 

 ある夜、太郎兵衛は部屋の前を通りかかった。障子の隙間から、かすかな光が漏れていた。そして部屋の中から、女の声ではない何かの声が聞こえた。それは鳥の鳴き声に似ていたが、悲痛な響きを帯びていた。

 

 翌朝、奥の部屋の前に、一本の白い羽が落ちていた。太郎兵衛はそれを拾い上げた。羽の根元には、かすかに血が付いていた。

 

「これは」

 

 彼は戸惑った。しかしその時、女が部屋から出てきた。女の姿を見て、太郎兵衛は息を呑んだ。

 

 女の髪は以前より薄くなっていた。顔は骸骨のように痩せ細り、目は窪んでいた。そして手が震えていた。

 

「大丈夫か」太郎兵衛は心配になって尋ねた。

 

「はい」女は微笑もうとしたが、その表情は引きつっていた。「少し疲れているだけです」

 

 しかし彼女が差し出した反物は、今までで最も美しいものだった。その美しさの前で、太郎兵衛の不安は薄れていった。

 

 日が経つにつれ、太郎兵衛の欲望はさらに膨らんでいた。村一番の家を持ちたい、町に店を構えたい、名を上げたい。様々な野心が心を満たしていった。

 

「もっと織れないか」ある夜、太郎兵衛は女に迫った。「大きな商会から注文が来ている。このままでは機会を逃してしまう。それに、お前の名が広まれば、お前自身の将来にもなる」

 

 女は振り返った。その顔は以前とは別人のように変わっていた。頬はこけ、皮膚は透けるように白く、唇は青ざめていた。

 

「もう、これ以上は」女の声は震えていた。

 

「何を言う」太郎兵衛は言った。「お前のおかげで俺の生活は豊かになった。村も潤っている。お前の技術は人々を幸せにしているんだ。だからもう少しだけ、頑張ってくれないか」

 

 女は項垂れた。

 

「分かりました」

 

 その夜から、奥の部屋から聞こえてくる音は一層奇怪になった。機音に混じって、激しい羽ばたきや、時には鋭い鳴き声が響いた。そして何かが引き裂かれる音、肉が削がれるような音まで聞こえてくるのだった。

 

 太郎兵衛の部屋の下には、謎の染みが広がり始めた。それは赤黒く、乾くことがなかった。そして部屋の前を通るたび、血の匂いが強くなっていった。もはや染料では説明できないほどに。

 

 太郎兵衛は気になって仕方がなかった。女は一体どうやってあんなに美しい反物を織っているのだろう。なぜあれほど疲弊しているのに、反物の美しさは増していくのだろう。

 

 約束を破ってはいけない。頭では分かっていた。祖母の言葉も思い出した。しかし、好奇心と疑念は日に日に強くなっていった。反物を売るたびに入る金、それが彼の理性を蝕んでいった。

 

 そしてある夜、ついに太郎兵衛の理性は限界を迎えた。奥の部屋から聞こえてくる異様な音に耐えきれず、彼はそっと部屋の障子に近づいた。

 

 心臓が激しく打っていた。手が震えていた。しかし欲望が彼を駆り立てた。

 

 指先で小さな穴を開け、太郎兵衛は中を覗き込んだ。

 

 部屋の中に美しい女の姿はなかった。

 

 代わりにいたのは、一羽の鶴だった。しかし、それは太郎兵衛が助けた時とは全く違う姿だった。

 

 羽毛は大半が抜け落ち、露出した皮膚は無数の傷で覆われていた。翼は血に染まり、所々の肉が削げていた。そして鶴は、自らの翼から羽を一本ずつ引き抜いていたのだ。

 

 羽を抜くたびに、鶴の口から血が噴き出した。その血は織機に落ち、反物に染み込んでいった。染み込んだ血は美しい模様に変わり、鶴の姿を描き出していった。

 

 鶴は苦しそうに鳴きながらも、必死に羽を抜き続けた。一本抜くごとに、その体は震え、翼は小さくなっていった。床には大量の血が溜まり、抜けた羽は灰になって消えていった。

 

 太郎兵衛は恐怖で動けなくなった。あの美しい反物は、鶴が自分の体を切り刻んで作り出したものだったのだ。そして彼の欲望が、鶴をここまで追い詰めていたのだ。

 

 その時、鶴が振り返った。

 

 太郎兵衛と目が合った瞬間、鶴の目に深い憎悪の炎が燃え上がった。それは恨みというより、もっと深い、魂の底からの呪いだった。

 

「見たな」

 

 鶴が人間の言葉を話した。その声は女の声だったが、底知れない怒りに満ちていた。

 

 太郎兵衛は慌てて部屋から離れようとしたが、足がすくんで動けなかった。障子がゆっくりと開き、血まみれの鶴が現れた。翼はほとんど骨だけになり、首からは血が滴り続けていた。

 

「約束を破ったな」鶴の目は真っ赤に燃えていた。「私は恩返しのつもりで来た。しかしお前は恩を欲に変えた」

 

「す、すまん」太郎兵衛はようやく声を絞り出した。「知らなかったんだ」

 

「知らなかった?」鶴は嘲るように笑った。「お前は知っていた。私の体が弱っていくのを見ていた。血の匂いを嗅いでいた。羽を見つけた。それでもまだ織れと言った。『お前のためだ』『村のためだ』『技術が広まるべきだ』と。綺麗な言葉で自分の欲を隠した」

 

 太郎兵衛は反論できなかった。鶴の言葉は全て真実だった。

 

「お前の言葉を聞くたび、私は羽を抜いた」鶴は翼を広げた。そこには無数の傷があり、骨が露出していた。「『村のため』と言われるたび、私は自分に言い聞かせた。『もう少しだけ』と。しかしお前の欲に終わりはなかった」

 

「許してくれ」太郎兵衛は懇願した。「もう欲は出さん。元の暮らしに戻る」

 

「遅い」鶴の声が部屋に響いた。「お前は私の痛みを知らぬまま、私を使い続けた。ならば今度はお前が痛みを知る番だ」

 

 その瞬間、部屋中に置かれていた反物が一斉に黒い羽に変わった。それらは竜巻のように舞い上がり、太郎兵衛を取り囲んだ。

 

「お前が奪ったのは羽ではない」鶴は言った。「私の冬を奪った。春に北へ帰るための翼を奪った。ならばお前も、春を見ることはない」

 

 黒い羽が刃となって太郎兵衛の体を切り裂いた。最初は服が裂け、やがて皮膚に深い傷ができた。太郎兵衛は苦しさに叫び声を上げたが、鶴は容赦しなかった。

 

 羽が太郎兵衛を切り裂くたび、彼の脳内に映像が流れ込んできた。夜な夜な羽を抜く鶴の姿、血を流しながら機を織る姿、太郎兵衛の言葉を聞くたびに震える翼。全てが追体験として押し寄せてきた。

 

「これが私が味わった痛みだ」鶴は太郎兵衛の前に立った。「お前も同じ痛みを味わうがいい」

 

 羽の嵐は激しさを増した。太郎兵衛の体は無数の傷で覆われ、血が床に広がった。彼は必死に鶴に許しを請うたが、鶴の目に慈悲はなかった。

 

 やがて太郎兵衛の声は途切れた。彼の体からは血が止まらず、指先が黒く凍えていくのが分かった。冬を越えられない体にされたのだ。

 

 鶴は血まみれの太郎兵衛を見下ろし、そして最後の反物を取り上げた。それは今まで織った中で最も美しいものだったが、よく見ると赤黒い染みが全体に広がり、その染みは太郎兵衛の顔の形をしていた。

 

「この反物が私の最後の作品だ」鶴は呟いた。「お前の欲がこれを生んだ。そしてこれを手にする者も、きっと同じ運命を辿る」

 

 鶴は最後の力を振り絞って翼を広げた。もう二度と飛べないはずの翼が、怨念の力で宙に浮いた。そして破れた屋根から雪空へ舞い上がっていった。

 

 後に残されたのは、血まみれの太郎兵衛と、一枚の呪われた反物だけだった。

 

 翌朝、太郎兵衛の隣人が様子を見に来た時、家の様子が一変していた。雪の上には大量の羽毛が散らばり、所々に赤黒い染みがついていた。戸を開けると、家の中は氷のように冷たかった。

 

 太郎兵衛の姿はどこにもなかった。ただ一枚の美しい反物が床に残されているだけだった。そして不思議なことに、村人たちは太郎兵衛の名を思い出せなくなっていた。まるで最初からいなかったかのように、彼の存在は村の記憶から消えていた。

 

 村人たちはこの出来事を『鶴の怨返し』と呼ぶようになった。助けた鶴が女に化けて恩返しに来たが、欲望によって恨みに変わり、ついには復讐を果たしたのだと。

 

 反物は村の庄屋が保管することになった。しかしその夜から、奇妙な出来事が始まった。

 

 庄屋は反物に魅せられ、毎晩のように蔵を訪れるようになった。そして反物に触れるたびに、彼の目は潤み、離すことができなくなった。夜な夜な機音が聞こえ、それに導かれるように蔵を開けた。

 

 すると、反物が勝手にほどけ始めた。ほどけた糸は生きているかのように動き、庄屋の指に絡みついた。庄屋は悲鳴を上げたが、誰も助けに来なかった。

 

 翌朝、使用人が蔵を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。床一面に白い羽が積もり、その中央に庄屋が倒れていた。彼の両手の指は白く骨になり、まるで織機で使い果たしたかのようだった。そして彼の口からは、かすかに血が流れていた。

 

 庄屋の手には一本の羽が握られており、その根元には彼自身の血が付いていた。まるで自分の指から羽を抜いたかのように。

 

 それ以降、反物は村から姿を消した。誰かが持ち去ったのか、それとも自然に消えたのかは分からなかった。しかし、その後も時々、どこからか美しい反物が現れては、それを手にした者に不幸が降りかかるという話が伝えられた。

 

 現在でも、雪深い山里では『鶴の怨返し』の話が語り継がれている。冬の夜、美しすぎる反物を持った行商人が現れたら注意しろ、と。鶴を助けても決して見返りを期待してはいけない、と。そして何より、人の痛みを知らぬまま欲に溺れてはいけない、と。

 

 雪の夜、どこからか機織りの音が聞こえたなら、それは鶴の魂が今もなお、新たな怨返しの相手を探し続けている証なのかもしれない。

 

 欲望ある限り、その報いもまた永遠に続くのである。





 【物語の教訓】
 恩を受けたならば感謝の心を忘れず、過度な欲望は身を滅ぼすということ。

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