アドマイヤグルーヴと、相性度65%のトレーナー 作:君のネクパイになりたい
「はぁ……。ふぅ……」
緊張をほぐしたいのか、姿見の前に立つ“彼”は、何度も深呼吸を繰り返していた。
着慣れたはずのスーツが妙に堅苦しく感じ、どうしても襟元をいじってしまう。
自宅にて身支度を整え、出発は目前。だと言うのに、全くもって落ち着かない。
そんな姿を見ていたアドマイヤグルーヴ……アルヴは、姿見との間に体を滑らせる。
「緊張し過ぎです。ネクタイ、崩れています」
「え、嘘っ」
「動かないでください」
何度もいじったせいで崩れてしまったネクタイを解き、改めて締め直す。
勝負服で慣れた動きは、瞬く間に完璧な結び目を作り出した。
そして、苦しくない程度に締め具合いを調整するのだが……。
「これで良し、と……。ただ挨拶をするだけなんですから、そんな、に……」
顔を上げると、至近距離で視線が絡む。
ほんの少し。
あと、ほんの少し体を寄せれば、そのまま……。
しかしアルヴは、赤味が差した顔を逸らしてしまう。
「そ、そんなに心配せずとも、大丈夫です、から……」
「う、うん……。ありがとう……」
恋人関係になって、早数ヶ月。
そういう行為は何度もしているはずなのだが、こちらは一向に慣れない。
不意の接触や急接近に、否が応でも鼓動が早くなり、頬は上気して。
今だって、唇が、ムズムズする。
気不味い沈黙。
けれど……嫌ではない、沈黙。
休日なんだし、このまま恋人同士のあれこれを……と思ってしまう“彼”だったが、そうもいかない。
何故なら、今日はアルヴが育った児童養護施設に、挨拶をしに行く予定だからだ。
「じゃ、じゃあ、そろそろ行こうか」
「……はい」
時計を見れば、家を出るのに丁度良い時間。
色気づいた脳へと倫理観を再インストールし、手荷物を確認。二人、連れ立って部屋を出た。
エリザベス女王杯の連覇はすでに去年。
卒業を控えるアルヴとの関係はより深くなり、そうなれば当然、互いの家族の話にもなる。
“彼”の事情は割愛するとして、重要……というか、重くなってしまうのはアルヴ側。
両親の記憶を持たず、幼い頃から施設で育った彼女にとっては、その施設こそが家で、職員が親代わりとなる。
結婚を前提とした付き合いをしているのなら、恋人を育ててくれた方々にも挨拶したい。そう思うのは自然な流れだろう。
という訳で……。
「ここが、アルヴの育った施設、か」
「そうです。……懐かしい」
昼下がり。
こじんまりとした建物の前に、二人は立っていた。
苔むしたブロック塀と、少し古びた門を通り過ぎ、よく手入れされた花壇を横目に、玄関へ。
事前に連絡していたためか、その前には一人のお年寄りが待ってくれている。
「ようこそ、おいで下さいました。アルヴさんも、お帰りなさい」
「は、初めまして……!」
「……ただいま戻りました。お久しぶりです、園長先生」
アルヴが園長先生と呼んだ人物は、物腰の柔らかい、人柄の良さが目尻のシワとして刻まれたような、そんな人だった。
それなりに歳を召しているはずだが、背筋もピンと伸びていて、上品な立ち居振る舞いが印象的である。
飾り気の少ない応接室に通され、年季の入った長椅子に腰掛けると、園長は二人へ微笑みかける。
「まずは、おめでとう、と言わせて下さい。エリザベス女王杯の連覇、素晴らしい偉業だわ」
「ありがとう、ございます」
「ふふふ。あの子たち、もう凄い騒ぎだったのよ? お姉ちゃん凄い、お姉ちゃん格好良い、って」
「……っ、そう、ですか」
恩師からの褒め言葉に、流石のアルヴも嬉しそうにしていた。
……と言っても、付き合いのない他人からすると、興味無さげに見えてしまうような、小さな表情の変化だったが。
今ならば、そんな変化もよく分かる。
「トレーナーさんも、ここまでアルヴさんを導いて下さって、ありがとうございます。本当に、感謝しております」
「いえ、自分は……」
話の流れで、今度は“彼”が引き合いに出されるも、こちらは露骨に表情を曇らせる。
確かに今はトレーナーとして、婚約者としてアルヴを支えているが、一度は彼女を見捨てようとした。責任から逃げようとした。
変えようのない事実が、ここに来て、胸に痛い。
ふと、膝に置いた自分の手に、温かさが重なった。
隣を確かめれば、アルヴの双眸がジッと見つめている。
言葉は無い。けれど、あっという間に痛みは消え去ってしまう。
その温かさの助けを借り、“彼”は園長へと向き直る。
「今日、ご挨拶に伺ったのは、他でもありません。アルヴ……さんの事で、お話したい事が」
「はい。お聞かせください。……ですが、呼び方は普段通りで構いませんよ?」
「……はは。では、お言葉に甘えて」
察するものがあったのだろう。
園長も真っ直ぐに見つめ返し……けれども、“彼”の緊張を解すためか、冗談めかして先を促す。
敵わないなぁ……。
「数ヶ月前からアルヴと、け、結婚を前提に、お付き合いさせて頂いています」
「まぁ……! やっぱり、そうだったのね。お二人とも、おめでとう! ふふ、今日はこればっかりねぇ」
「あ……ありがとう、ございます……」
「どうも……」
「そんな気はしていたのよ? エリザベス女王杯の中継を見て。いくら偉業を達成したと言っても、貴女が気安く男性と抱き合うかしら……と」
「あ、れは、違……わ、ないん、ですが……その……っ……」
先程は表情を崩さないようにしていたアルヴも、今度こそ恥ずかしさに俯いて。
やはり、幼い頃からアルヴを知る人には、色々とお見通しのようだ。
反対されなかった安心感もあり、“彼”はホッと胸を撫で下ろす。
「どうか、アルヴさんの事、よろしくお願い致します。幸せにしてあげてください」
「それはもちろん……ですが、逆、かも知れません」
「逆……?」
「もう自分は、幸せにして貰いましたから。これからは、それを返していきたいと、そう思うんです」
“彼”のトレーナー人生は、アルヴと共に始まったと言って良い。
最初こそ無為な苦痛に苛まれたけれど、共に歩むと決めてから、全てが変わった。
今の自分があるのは、あの日、アルヴが契約を結んでくれたから。
共に苦難を乗り越えたから、今の幸せを噛み締められる。
だから、今度は自分が、自分にとってのアルヴのような存在になれたら……。
与えてもらった幸せを、お互いに返しあえたら。
ついさっきして貰った様に、アルヴの手に自分の手を重ね。胸を張って、“彼”はそう宣誓した。
それを見守っていた園長の目尻が、より深くシワを刻む。
「まぁまぁまぁ。本当に……。良い方と巡り会えたのねぇ」
「…………はい」
重ねられた手を握り返して、頷くアルヴ。
幼い頃から頭が良くて、大人を困らせる事もなく、故に誰かとの繋がりを信じられず、ひたすらに冷たい強さを求めた。
そんな彼女の心中を、園長も全て察していた訳ではない。
……けれど。今の姿を見れば分かる。
冷たかった氷の心はすでに溶け、ようやく若葉が芽吹いた。
子供達が幸せに向けて歩いていく姿は、何度見ても嬉しく……同時に寂しくもある光景だった。
「さぁ、わたしばかりが独占していては、子供達が寂しがるわ。みんなにも会ってあげてちょうだい」
「分かりました。トレーナーさんは、どうしますか」
「……あ〜、どうしようか。いきなり見知らぬ男が着いて行っても、怖がらせるんじゃ……」
「でしたら、思い出話など、いかがでしょう? アルヴさんの学園でのお話も、聞かせて頂ければ」
「あ、はい。ぜひ」
親代わりだった園長への挨拶を済ませたら、次は一緒に育った子供達の番だ。
早速、慣れ親しんだ部屋へ向かおうとしたのだが、“彼”がここに残ると聞き、動きを止めた。
釘を刺しておくべきだろう、と判断したからである。
(あの)
(どうしたんだ?)
(……あまり変な事、話さないでくださいね)
(変な事って何さ……)
(それは…………とにかくっ。口に出す前に一度考えて、それからの発言をお願いします)
(……分かった)
耳元で声を潜めるアルヴに、“彼”は不本意ながらも取り敢えず頷く。
そんなに失言するような男と思われてるのか……と微妙に悲しいが、実際には照れているだけだったりする。
初めてのバレンタインとか、ファン感謝祭での羞恥イベントとか、二人で巡った夏祭りだとかを、もしも園長に知られたら。
きっと恥ずかしさで憤死してしまうと、アルヴは本気でそう思っているのだ。
もっとも、そんな風に声を潜めて会話する姿すら、園長にとっては微笑ましいのだが。
「それでは。失礼します、園長先生」
「ええ。ゆっくりして行ってね」
ようやく椅子から腰を上げ、アルヴは応接室を出る。
改めて周囲を見渡すと、どこを見ても懐かしさが込み上げてきた。
子供の頃は広いと感じた廊下。
天井にある雨漏りの染み。
物をぶつけてへこんだ窓枠。
それら全てに、今では愛おしさすら感じる。
(ああ……。やっぱりここが、私の家なんだわ)
子供達への土産を手に歩く足取りは、アルヴ自身も意外に思うほど軽かった。
昔の……。心に虚な穴を抱えていた頃を思い出し、辛くなるかも……と思っていたのだが、それだけ心境が変化したという証なのだろう。
そうこうしている内に、目的の部屋へ辿り着く。
……どんな風に声を掛けるべきだろう。
お邪魔します。だと他人行儀すぎる。
ただいま。……少し恥ずかしい。
結局、昔からそうだったように、「失礼します」と言いながらドアを開ける。
「失礼し──」
「あっ!! お姉ちゃんやっと来た!!」
「アルヴお姉ちゃん!!」
「お姉ちゃんだー!!」
「きゃっ」
……が、言い終える前に、中で待ち構えていた子供達が殺到した。
女の子、男の子、ウマ娘の子。
全員が入り乱れて、アルヴを取り囲んでは笑顔を咲かせている。
「もう。危ないじゃない、いきなり走って来たら」
「だって、ずっと待ってたんだもん!」
「お姉ちゃんおめでとー!!」
「レースすごかった!! カッコよかった!!」
「ずっとずっと、会って言いたかったの!」
「……ありがとう。ありがとう、みんな」
手を引かれながら部屋に入り、今まで子供達を抑えていたのだろう職員の先生へと礼をしつつ、一人一人、頭を撫でていく。
アルヴは昔の自分を「冷たい女」だったと思っているが、その心根にある優しさは、誰もが知っていた。
きっと、同じ冷たさを少なからず抱えていた子供達だからこそ、アルヴの不器用な優しさを、しっかりと感じ取っていた。この慕われっぷりが、その証拠だ。
「今日はお菓子を持って来たわ。一緒に食べましょうか」
『はーい!』
頃合いを見計らって来訪したため、ちょうど時刻はおやつ時。
先生方に手伝ってもらい、全員分の飲み物を用意して、色んな種類のお菓子を配ると、子供達はますます大喜びである。
そのまま、しばらくは平穏な時間が過ぎた……のだが。
「ねぇねぇ、お姉ちゃん」
「何かしら」
「お姉ちゃん、あの人と……トレーナー、っていう人と“けっこん”するの?」
「っ、けほっ、けほっ……!?」
ませた少女の質問が、アルヴの余裕を一撃で粉砕し、思わず咽せてしまう。
……子供達からの視線の圧が凄かった。
「え、ええと、それは……その…………そう…………ね…………する、わ…………」
「わぁ……!」
「やっぱりそうなんだー!」
「いいなー、お姉ちゃん、およめさんになれるんだー!」
嘘をつくのも問題かと思い、正直に答えると、特に女の子達が歓声を上げた。
これがクラスメイト相手なら、「まだ分からないわ」とか「互いに愛想を尽かす可能性もあるから」などと誤魔化せるのに、子供というのはずるい。
「どこを好きになったの?」
「いつから好きになってたのー?」
「もうちゅーしたー?」
「……こら。そういう事は、本人に聞いてはダメなのよ」
「……した?」
「言葉を削ってもダメ」
「ちぇー」
「はいはいそこまでよー。アルヴお姉ちゃんを困らせちゃダメでしょう?」
なおも続く質問責めは、怒ったふりで乗り切る。
職員の先生の助け舟もあり、騒いでいた子達もお菓子を食べるのに戻っていく。
……かと思いきや。一人だけ、アルヴの服の袖を掴んで離さない、ウマ娘の少女が居た。
「……ねぇ。お姉ちゃん。あの子……」
少女が指し示す先には、テーブルから離れ、部屋の隅で膝を抱える少年の姿が見える。
確か、アルヴが施設を離れるのと同じ年度に、小学校へ上がった子だ。
お菓子を配った時から気になっていたけれど、他の子の手前、まだ声を掛けられずにいた。
「あ、ショータくん? もうずっとあんな感じなんだよな」
「お姉ちゃんのレース見てから、すねちゃってるの。なんでだろ?」
「……そう」
少年の様子に気付いていた他の子供達も、それぞれ疑問を口にして。
大人しい子だったと記憶しているが、あんな風に塞ぎ込むのは珍しい。
私のレースを見てから? ……何故?
なんにせよ、このまま放置するのは望ましくないだろう。
周囲の子に断りを入れてから、アルヴは少年の元へ向かった。
「隣、いいかしら」
「…………」
話しかけると、小さく頷き返してくれる。
拒絶されてはいない。第一関門はクリアだ。
次は……世間話で様子を見るべき。
「元気に、していた?」
「……ふつう」
「そう……。いつも通りなら、良かった」
「…………」
無言。
二人、膝を抱えたまま、無言。
いや、これは仕方ないのである。アルヴにとって世間話とは非常に高難度の行為であり、むしろレース以外の事で話しかけられただけでも褒めてあげてほしいレベルなのだ。
とはいえ、この状況での沈黙は気不味い。
どうすべきか……と悩んでいたら、少年の方が先に動いた。
「お姉ちゃん、およめに行くの……?」
「……ええ。行くわ」
囁くような問いかけに、しっかりと頷く。
まだほんのり恥ずかしくはあるけれど、誤魔化してはいけない気がした。
少年はギュッと拳を握り、震えた声で……。
「もう……かえって来ない、の……?」
そう、続けた。
胸が締め付けられるような、痛み。
この子はアルヴと違い、両親の記憶を持っている。だが、父も母も喪って、親類をタライ回しにされた挙句、この施設に引き取られた。
記憶が無いゆえの苦しみがあれば、記憶を持つからこその苦しみも、ある。
少年は、また家族を失う事を、恐れているのだろう。
「いいえ。帰って来るわ。ここは、私の家だもの」
「でもみんな、ちがうって……。およめさんに行ったら、おむこさんの家に行くんだって……」
「それは……」
「おいてかれるの、やだ……。お姉ちゃん、行かないで……っ」
小さな手が、アルヴの腕に縋りつく。
なんと、答えよう。
なんて、答えれば。
……いや、考える必要なんてない。
理屈じゃなくて、ただ、胸の内に浮かぶ言葉を。
「トレーナーさんは……。“彼”はね。私の、新しい家族になってくれるのよ」
「あたらしい、かぞく……?」
「そう。家族」
結婚。
男女が心を結び、夫婦となる。……家族になる。
アルヴは首元を探り、シルバーのチェーンに通した婚約指輪を手に取る。
学園でも持ち歩くため、服の下に隠せるようにした物だ。
隠れてこれを見る度に。指に通して、太陽に光にかざす度に。あの日の幸せが蘇って、涙が出そうになる。
……けれど。
同時に、不安にも駆られてしまう。
「本当は……。少しだけ、怖いわ。私には、本当の家族の記憶なんて無いから。ちゃんとした家族になれるのか、自信が持てない」
職員の先生方や、一緒に育った子供達も、確かに家族と言える。
しかし、血の繋がった父や母の思い出は、無い。誰かが触れ合う様を、遠巻きに眺めた事があるだけ。
そんな自分が、正しい妻に、母親になれるのか。不安で不安で、堪らなくなる。まだ“彼”にも話していない、新たに生まれた弱さだった。
きっと昔のアルヴなら、認める事すら出来なかっただろう、弱い自分。
だが今は、その弱さをも、受け入れられる。
「でも、あの人は私の手を取ってくれた。こんな風に」
片手で指輪を握り、もう片方で、少年の手を取る。
“彼”と比べると小さく、簡単に包みこめてしまう、頼りない子供の手だ。
なので、完全に同じとはいかないけれど。
ほんの少しで良いから、あの時、アルヴが貰ったものを伝えたくて。
「……だから。踏み出そうと思えたのよ。怖くても、自信が持てなくても。もう、寂しくはないから」
昔の自分を思うと、まるで子供が駄々をこねているようだったと、そう感じる。
寂しいのに、寂しいと言えなくて。そばに居て欲しいのに、素直になれなくて。暗闇の中で一人、震えながら必死に強がって見せている、小さな自分。
そこから手を引き、連れ出してくれたのは、やはり“彼”で。
まだ不安を感じる時はあっても、その温もりを思い出すだけで、震えは止まる。
だから。怖がる必要なんてないのだと、アルヴは少年へと微笑みかけた。
しばらくアルヴをポカンと見上げた少年は、やがて、弱々しくも手を握り返す。
気恥ずかしそうに顔を逸らしてしまうけれど、もう、震えてはいなかった。
「ぼくにも、できるかな。いるのかな。お姉ちゃんみたいに、手をつないでくれる人……」
「ええ。居るわ。いつかきっと、そんな人と出会える。寂しいと思ったのなら、周りを見て。ほら」
促されて少年が見つけたのは、一人の少女。アルヴに少年の存在を知らせた子だ。
視線が重なると、慌てて隠れようとするのだが、場所を見つけられずに背を向ける。なのに、チラチラと様子を伺う素振り。気になって仕方ないのだろう。
「あなたは一人じゃない。それを忘れないで」
「……うん。……お、お姉ちゃん……」
「……?」
「レース、見てた……。カッコよかった。……おめでとう」
「……ええ。ありがとう」
アルヴと少年は笑い合い、立ち上がって、皆の輪の中へ。
ようやく笑顔を取り戻した家族に、誰もが喜んでくれていた。
そんなこんなで、おやつの時間は終わり、小さな子はお昼寝、大きな子は外で遊んだり勉強したり……。
いつもの時間を過ごしてもらうため、アルヴはまた応接室へと向かう。
残念がる子供達ばかりだったが、また必ず帰ってくると全員に約束し、やっと解放してもらえた。嬉しいけれども、地味に大変だった。
……と、その時、不意に“彼”の笑い声が耳に届く。園長先生と、他の職員の先生方の声も。
なんとなく、ドアの隙間から中の様子を伺う。
“彼”を中心として、皆が笑い合っている姿が、見えた。
(……そうよね。“貴方”は本来、そういう人だものね)
何故だろう。良い事のはずなのに、胸にチクリと痛みが走る。
出会った当初こそ、実績を持たない万年サブトレーナー、という立場に焦っていたけれど、アルヴが声を掛けずとも、“彼”であれば、いずれ誰かと担当契約を結び、結果を残せていただろうと思う。
そして、アルヴとのクラシック期までの、要らぬ苦しみも避けられ……。
……いけない。何を考えているの、私は。
「たられば」なんて、いくら考えても仕方のないこと。
子供達の前であんな風に「結婚するわ」宣言までしたのに、弱気になってはダメだ。
誰にも悟られないよう、小さく深呼吸をしてから、アルヴは応接室のドアを開ける。
「戻りました」
「あら、アルヴさん。もういいのかしら」
「はい。沢山、話せましたので」
「じゃあ、こっちもそろそろお開きですかね?」
「トレーナーさん。お話、楽しかったです」
「絶対にまた来てくださいねー!」
「はい、また必ず」
アルヴと入れ替わりに、先生方(三人とも女性)が“彼”と挨拶し、部屋を出ていく。
……いや。出て行きながら、肩を叩いて耳打ちしていく。
(頑張ってね、アルヴちゃん!)
(え)
(時には積極的に行くのも、大事だよ)
(はい……?)
(受け身なだけだと、ヤキモキさせちゃうかもー?)
(……っ!?)
これは……。明らかに、そういった意味でのアドバイス、だろう。
積極的に行くのも大事……。
言われてみれば、手を繋いだり程度ならアルヴから求めるが、それ以上の…………恋人らしい行為となると、“彼”からの求めを待っているような。
かと言って、あまり女性の側から求めるのは恥ずかしいと言うか、はしたないと言うか。一体、どうすれば……?
「どうかしたか? アルヴ」
「……いいえ。随分と楽しそうでしたね」
思わず考え込みそうになるアルヴだったけれど、不思議そうな“彼”の声に引き戻される。
……“貴方”のせいで悩んでいるというのに。
そのお気楽さへの不服と、他の女性と団欒していた嫉妬心が、少しばかり刺々しい言葉遣いとなって現れる。
しかし、ますます“彼”は笑顔を深めて。
「ああ。色々と話が聞けて、本当に楽しかったよ。辛口カレーを初めて食べた時の話とか」
「えっ!? え、園長先生……!」
「あらあら、ごめんなさいね。つい盛り上がってしまったの。許してちょうだい」
「…………っ」
アルヴが生来の甘党なのは言うまでもないが、子供の頃は輪をかけて辛いものなどが苦手であり、大人ぶって辛口カレーを食べた時など、本当に酷い有様だった。
普段は欲しがらないのに、その時だけは食後に甘いヨーグルトをねだった位だ。
だが、アルヴにとっては失敗談でも、“彼”や園長にとっては可愛らしく、愛おしいエピソードの一つ。
結局、恥ずかしい過去をバラされても強くは言えず、しばらく談笑したのち、施設を去る時間となってしまった。
「それでは、本日はこれで失礼します」
「分かりました。大した持て成しもできず、すみません。よろしければ、こちらを」
「……これは?」
「アルバムですよ。アルヴさんの。と言っても、あえて半分も埋めていませんが」
帰り際、園長は“彼”に一冊のアルバムを手渡した。
確認してみると、言われた通り、埋まっているのは三分の一ほどで、幼い頃のアルヴの写真や、他の子との集合写真などが収まっている。
視線でその理由を問う二人に、園長は、深々と腰を曲げて続けた。
「残りは、お二人で埋めると良いでしょう。そのアルバムに収まりきらないほど、沢山の思い出を作ってください。どうか、お幸せに……」
「園長先生……」
伝わってくる、深い慈しみ。
気がついた時にはもう、アルヴは園長に抱きついていた。
言葉は……きっと必要ない。
ただ甘えるように、園長の首筋へと額を擦りつけ、その背中を、皺だらけの手が優しく撫でる。
「お世話に、なりました。……行ってきます」
「……ええ。行ってらっしゃい」
最後には笑顔を浮かべて、ようやく、施設の外へ歩き出す。
名残惜しい気持ちはあっても、振り返ったりなどしない。
だって、いつでも帰って来られる……。いつだって迎え入れてくれる場所があると、再確認できたのだから。
「良い人ばかりだったな。君が頑張ろうとしていた理由、よく分かったよ」
「……はい」
少し間を置いて、“彼”の手が、アルヴのそれに触れた。
確かめるように、自分とは違う輪郭をなぞり……指を絡める。
二人で歩く街並みは、ゆっくりと影を伸ばし始めていた。
後は、どうしようか。
寮に帰るのはまだ早いし、“彼”の家にでも……などと考えていると、視界にとある看板が入って来た。
「……あ、あの」
反射的に、足を止めるアルヴ。
思い返されるのはあの言葉。時には積極的に。
こうして繋いでいる手も、“彼”が行動してくれたから。
……たまには、私だって。
「少し、寄り道を……したいのですが」
「……? ああ、構わないぞ」
珍しいアルヴからのお願いに、“彼”は深く考えずに頷き、そして。
数分後には超後悔していた。
「ほ、本当に、やるのか……っ?」
「もう、頼んでしまいましたから」
寄り道と称し、入店したのは喫茶店。
中は“彼”ら以外にもカップルでごった返しており、その原因は、アルヴも注目したメニューにある。
そのメニューとは……。
「お待たせしましたー! カップル限定、らぶらぶ♡トロピカルジュースでーす! 今なら一緒に飲んでいるチェキを撮ると、セットメニューが半額になりまーす!」
絡み合った二本のストローが入った、よくバカップルが注文している伝説のアレであった。
初めての実物を前に、“彼”は戦慄しつつ問いかける。
「なんで、唐突にこんな……」
「……“貴方”が、悪いんです」
返ってくるのは、アルヴの澄まし顔。
……いや、よく見ると頬には朱が差しており、彼女も照れているのが分かる。
「私の居ない所で、先生方と楽しそうに……。腹が、立ちました」
「……それって」
「…………」
「…………」
「お客様? そろそろチェキの方を……」(うはw なにこの二人ww 初々しくてめっちゃ捗るんですけどwww)
そんな二人を見るウマ娘のウェイトレスが、心に芝を生やしまくった。
レースに全く興味がない代わり、他人の恋愛事情でご飯100杯はいける剛の者である。
どいつもこいつも、半額目当てに照れもせずチェキを撮る奴らばっかで、本っ当につまらなかったのだが、ここに来て大物が釣れた。
そうそう。こういうので良いんだよ、こういうので。
「い、いきます……!」
「あ、ああ……っ」
「はーい撮りますよー、らぶ&ピース! ……ほらピースピース! はーいありがとうございますー!」(すんごい顔赤い wwww ほっぺた超引きつってるwwwww)
ウェイトレスに促され、揃ってストローを咥える“彼”とアルヴ。
ついでとばかりに必要のないピースまで要求されてしまい、よく分からないまま照れ顔ダブルピースも。
あぁー良いっすわー! 打算と妥協で付き合ってる恋人モドキ共からじゃ得られない、純粋でピュアでイノセンスな栄養が脳のシワに染み渡るぅー!
「撮ったチェキはサービスとなりますので、どうぞお持ち帰りくださーい!」
「……どうも」
「ははは……」
「ごゆっくりどうぞー!」(こりゃあ帰ったらうまぴょい確定だわwwwwww)
騒がしい脳内を微塵も感じさせず、頬を艶っ々にしたウェイトレスは、仕事をしっかりとこなして去っていく。
残された二人はと言えば、チェキに浮かび上がる自分達の姿を見て、トマトのような顔が更に熟れた。
「これ、アルバムに入れようか。……凄く、恥ずかしいけど」
「……そう、ですね」
恥ずかしい。いや恥ずかしいなんてレベルじゃない。こんなの人生の恥だ。
……でも。こんな思い出でも、確かに二人の思い出。いずれは笑って話せる、かも知れない。
いつか、その日が来る事を願いつつ。
残ったジュースをどっちが飲むのか、互いに牽制し合う時間は、門限が気になるくらいに続くのだった。
「園長先生、大変です!」
「あら。どうしたのかしら?」
部屋へと駆け込んでくる職員の女性に、園長は老眼鏡を外しながら、落ち着けるよう優しく声を掛けた。
乱れた呼吸を整えた彼女は、それでもオロオロと慌てている。
「今、荷物と手紙が届いたんですけど……その量が……」
「量……?」
要領を得られず、状況を確認しようと連れ立って玄関へ。
すると、配達員が無数の段ボール箱を運び込み終えたところで、その贈り主を確認してみると……アドマイヤグルーヴの名前が。
手紙も実にアルヴらしい、簡潔な内容だった。
今年、小学校に上がる子の分のランドセルと、他の子達にも、必要になりそうな文房具を送ります。
お邪魔になるようであれば、他の施設に寄付しても構いません。遠慮なく使ってください。
「アルヴさん……。気にしないでと言ったのに……」
騒ぎを聞きつけた子供達は、職員が止めるのも聞かずに箱を開け、「お姉ちゃんの名前だ!」「わたしこれが良い!」「これぼくの!」と笑っている。
定番の赤と黒のランドセル。それに使う色とりどりのカバー。
鉛筆、定規、匂い付き消しゴム、キャラ物の筆箱。
他にも考え得る限りの物が、間違いなく全員に行き渡るくらい、たくさん。
アルヴからは以前にも、施設への寄付を打診されていた。
その度に「大丈夫だから」と押し切り、直近の話も丁重に断ったはず……なのに、どうやら聞き入れてくれなかったようだ。
結婚を考えているのなら、これからお金が必要になるのはアルヴの方だと言うのに、こんな時ばかり反抗するだなんて、本当に……。
「さぁ、みんな。アルヴお姉さんに、お礼の手紙を書きましょうか。沢山の絵も描きましょう。いいかしら?」
『はーい!』
元気良く返事をする子供達に、大人達も笑顔を浮かべ、腕まくりをして荷物の仕分けに入る。
季節は巡り、想いも巡り。
未来に向けて、誰もが歩みを進めていた。
祝! タイトルホルダー号ウマ娘化!
という訳で、全国のアルヴさんファンの方々、待たせたな! 同棲時代編その1やでぇー。言うてまだ同棲してませんけどね。
皆さん気になっていると思いますが、アルヴさんは卒業するまで綺麗な体でした。ちゃんと我慢したんです。それだけはハッキリと真実を伝えたかった。
ちなみに、卒業式の夜はアルヴさん、同棲のための新居で過ごしたそうです。翌日は歩き方に違和感があったそうですよ。昨日はお楽しみでしたねどぅふふ(定番DQネタ)。
ところで、お孫さんはなんて呼べば良いんでしょうね?
タイトルちゃん、ホルダーくん、タイホしちゃうぞきゅん……。女の子っぽく呼ぶならタルホちゃんもアリ? ルルとかは無理筋か? サイゲはもっと情報を寄越せ! hurry hurry hurry !
しかし、そうなると俄然気になってくるのが、すでに匂わせされてる「ひときわ小柄なウマ娘」ちゃんですよ。
何を隠そう作者は、ちっちゃい子がお姉ちゃんぶってピョンピョンしてるのとか大好きでして。「まな板にしようぜ!」でもデカメロンでも頂けます。
あ〜色々と待ち遠しいですわ〜。
話を戻しますと、今後も不定期ですが、同棲時代編とか、相変わらず羅っ修っ修な現代スティルさんの話とかを更新予定です。
あ、気付いてない方も居るかも知れないので、別作品の方に投稿したアルヴさんの話のアドレスも置いときます。良ければお読み下さい。
https://syosetu.org/novel/394325/17.html
最後に、その別作品も完結し、最新話でアンケートしてますので、ご協力頂けると助かります。
まぁ最終的に全部描くので、順番を決めてもらうだけなんですが。優柔不断ですまぬ……すまぬ……。
それではまたいつの日か。