昔を懐かしむ、鬼の話 作:つも
葦名の城は、雪深き山々に築かれた、いわゆる山城とするものであり、堅牢さこそが何よりもの利点であった。
猛将・鬼庭形部雅孝を初めとし、国盗り戦にて類稀なる戦功を挙げた葦名七本槍、武者侍りに集う多くの武士。
苛烈な攻めを展開し続けた内府軍に対し今なお、大手門より先を抜かれた事はなかった。
しかし、如何なる太陽とて沈む時が来るように、葦名もまた、落日の時を迎えんとしていた。
「童子殿……」
死にかけの男を一人、背負い歩いていた鬼、星隈童子は、その死にかけていた葦名の剣客・水生氏成からの声に耳を欹てた。微かな声だったが、目を覚ますまで回復したかと安堵する。
「生きてたか、なによりなにより」
「某の目は……赤うございますか……?」
「赤目? …いや?」
「左様、ですか」
氏成は残念そうに声をくぐもらせた。葦名の命運を生かす、雌雄を決める血戦に、馳せ参じること叶わず。無念の言葉は、傷んでいた喉の為に口を通らなかった。
だが、まだ己にも、できる事がある。氏成は弦一郎の計画の知る全てを、包み隠さず童子に打ち明ける事とした。童子がそれを知っているのは氏成には預かり知らぬ事であるが、そうするのがいちばん良いと考えたのだ。主君のためにも、葦名のためにも。
元より異端の力に身を染め、粉骨砕身の覚悟で葦名のため命を捨てると誓った身の上である。であれば、その異端をこのひとりの鬼に、押し付けられるならば、葦名は一か八か、滅びを迎えずに済むのかもしれないと。
童子もまた、悪巧みをすることは好きである。こと、元が鬼であるゆえ。尤も今も鬼だが。
「…時に、童子殿……」
「あまり喋るなよ。…なんだ?」
「弦一郎様の、計画……死なずの兵士による、葦名の守護……」
「ああ、それか。道順から聞いたぞ。敢えて
童子はあろう事に、臣下の前で主君を愚弄した。体が動くのなら、刀を握ったかもしれないが、満身創痍の身に加えて、それに納得できてしまう自身の気持ちの変化にも、頭が追いついてきていたために、口からは小さな笑いがこぼれるばかりであった。
「いやはや、申し開きのしようもありますまい……」
くつくつと、喉が鳴る。ただ笑ったのでない。己を嘲るように、卑屈に笑ったのだ。それこそが氏成の心が傾きつつあることの証左であった。
それに童子も、内心での疑いに確信を得た。このような人の良い男が、喜んで外法に身を染めるわけもないはず。
であれば、きっとこうも思うはずである。
「葦名を生かしたいか?」
「……それは」
「とぼけたふりするな。手前んところのご主人馬鹿にされて頭に来ないわけはない。お前にはなにか、考えがあるんだろう」
童子は歩みを止めた。周囲に対する聞き耳を立て、誰もいないことを確認してから、聳える木に寄りかからせるように、氏成をそっと下ろした。今からこの男が言うことは、主に対する重大な背信行為であろう事は想像に難くなかったからである。
「耳を、お貸しくだされ」
「どれ…」
それは、大方予想通りである。にも拘わらず、童子の目は見開き、口許は思わず牙を剥くような笑みを浮かべた。
鬼とて生半には考えつかぬ、いや考えついたとて、まともな人間がそれを企てるなど、正気の沙汰ではあるまいと、頭がまるで冴え渡っていくような気分だ。それは正に、鬼の本懐。
人々を脅かし、そして打倒される───御伽噺だ。
「本気で考えてるのか?」
「……無論です」
面白い、と呟いた。
確かにそれが決まれば星隈童子とて、大変満足のいく
けれども、その童子を満足させられる対手がいなければ。童子を打倒しうる強者がいなければ。そうなれば童子はまた、強き相手と出会うまでさ迷わねばならないのだろうか。
大きく、響くように笑う。
童子のそれは、葦名の谷を何度も反響する。それほど愉快な提案でいて、しかし氏成の目は本気のそれであった。
「───なら、相応の対価を示してみせろ」
「童子殿の命の終わりでは、不服ですか」
「それじゃ確実じゃあないって話だ。私は強いからな」
「………では、天守閣へ赴きになることです」
氏成はゆっくりと、遥か向こうの空を指差した。
そこには天高く聳える葦名城があった。雷雨が城を強かに打ちつけるも、頑強な城には傷一つつかない。
「手筈通りならば、弦一郎様は既に計画を実行に移しておいでです」
「死なずの兵隊の計画か?」
「急いでくだされ───某とて、主君が誤った道に進むのは心苦しい、のです……」
話しすぎて傷口が開いてきたのか、傷の痛みを誤魔化すように竹筒の水筒を取り出し、中身を流し込む。息も絶え絶えながら氏成は童子に目線で促した。
貴女は行かなければならない、と。
「………いいだろう。お前には面白いものも見せてもらってるからな。生きていたら、葦名の行く末を見届けるがよいよ」
雪を踏み、土をにじって、葦名城の最後の守りたる天守閣を目指す童子は、通りがけに死んでいた内府軍の太刀を拾い上げ、戯れに幾許か緩めた腰紐と腰との間に差した。
葦名流の伝書、それは葦名一心の闘争の歴史である。それを読んでいた童子もまた、葦名流の門弟らと同じように、一心の生き様に魅了されていた。
ただ愚直に、強さという一点のみを追求し続けた男の描いた秘伝。だからこそ、強者を好む童子の性にはぴったりの伝書である。
水生氏成。
奴もまた、そうした一人なのだろうと童子は理解していた。故に皆伝となる十文字の腕前、然と受けて立ちたかったものだが、叶わぬ願いであろうことはわかっていた。
離れから舞い戻り、葦名城の土を踏む。
周辺は酷く慌ただしかった。足軽達をまとめる組頭から、前線での指揮を取る侍大将、雇われた生臭い僧兵までもが総揃いである。
それは、戦が近い事を意味していた。
「おい」
適当な衆を一人捕まえ、弦一郎が今いる場所を尋ねる。
「弦一郎はどこにいる?」
「ああ? ……あぁ、弦一郎様の食客の!あの方なら、天守閣におります。先程、この水手曲輪まで、発破をかけに来てくだすったのですよ!」
「そうか、内府と戦うって事だな」
「ええ。しかし、腕で鳴らしたのが我ら葦名衆!この戦いに負けるとは、誰も微塵も思っておりませぬ」
組頭は、拳を握って意気込みを語ってみせた。無謀に思える戦も、用兵と、何より卓越した個々人の力を以て制してきたのだろう。故の、その自信であろうか。
しかし、組頭の装備する胴当ても籠手も、酷く刀傷にまみれている。それは、長年愛用してきた相棒であるからなのか、或いは、もう装具を整える余裕すら、今の葦名にはないのか。童子には測りかねた。
「そうか。んじゃあ、私は行くよ」
「ええ、お気を付けて!」
気のいい組頭の見送りを後ろ手にあしらって、本城をかけ上る。
多くの侍が戦の用意に多忙を極める中、ようやく伝場まで辿り着く。
しかし活気はなく、どうやらこの場を収めているのは内府方の勢力のようである。
それも、気取られずに潜入できる存在、すなわち忍び。伝場の最奥にある掛け軸の手前に、一人の忍びが立っていた。口布で素性を隠し、紫と黒色の、闇に溶け込む装束を着込んでいる。
「お前ら、誰だ?」
「む───女……に、角?」
忍びは振り返るや否や、その手に刀を握る。童子も帯刀しているのを見たからだろう。敵対している以上は、女子供とて殺す、という非情さがあけすけだ。
しかし、忍びが童子を見て感じた最も奇妙なところは、やはりその角であろう。
「おう、どこからどう見ても女だ。お前らは内府の忍びか?」
「聞く耳も、話す口も持たぬ……死ね」
「あ? ………ぐっ」
頭に手を回されたかと思えば、喉元を背部から正確に貫かれる。肌に鍔の冷たさを感じない。
どうやら一人隠れていたようだ。片方が気を惹き、もう片方が殺す。単独の相手を仕留めるには最適な方法であろう。事実油断し切っていた童子の首を貫き、搔っ捌く手前まで行ったのだから。
しかし、これに関しては相手が悪かった。
ぐい、と喉を貫いた匕首の刃を掴む。
無駄な抵抗だと思ったのか、忍びは鼻で笑うが、それがすぐに誤った判断だと気付いた。
「……!? 抜けぬ…」
「惜しいな」
掛け声もなく、そのまま後ろを向いて裾を掴んだ童子は、力の限り壁に投げつけた。
轟音と共に内壁が崩れ、荷物が散乱して埃が舞う。肝心の忍びはぴくりとも動かず、死んでいるのは明白だった。うなじから深く突き刺さった匕首を引き抜き、その場に落として捨てる。その様子を見て忍びは、長丁場を覚悟した。
こやつ、生半な傷では殺せぬ。
「女どころか、化け物とは───な!」
飛び上がり、鋭い蹴りをぶつけてくる忍び。それを腕を使って防ぐと、童子は刀を抜いて応戦しようとする。どんな気の変わりようかは童子にしか預かり知らぬことであるものの、その根底に葦名流伝書の存在があることは明白だった。
なぜなら、右足を僅かに前へと傾け、対手を見逃さぬよう相対する中段の構えは、全ての流派門弟が初めに覚えるそれであるからだ。
童子がその手に握った刀は、葦名衆の誰それを殺したのかは分からないが、血がべっとりと付着していた。戦いの場に倒れていた死体の刀だ、そういう事もあろう。
中段に刀を構え、相手を正面に見据える。対手を見つめ、決して引かぬ。剣を収める者全てが会得する心構えであるが、葦名流のそれは、特に基礎を究め強さを求める一心のそれらしく、より攻撃的に前傾に近い姿勢によって攻撃を開始する。
じりじりと間合いを詰め、体重を前へ傾けることで瞬間的に大きな踏み込みを繰り出せ、それによって間合いを詰め、大きく振りかぶって右から左への切り払いを仕掛ける。
「ふんっ!」
しかしそれは単純な後方への跳躍で回避されてしまう。刀を振るえば速くとも、振るうまでが遅いのでは意味が無い。ひとつ気付きを得た。
だが、次を振るう前に、忍びからの斬撃が飛んできた。刀で受けてみれば、存外に脆く、僅かに剣の腹が欠けてしまう。
ただ受けるだけではダメだ。一心が、弦一郎がやっていたように、剣を弾く必要がある。
本当であれば、こんな木っ端の忍びなど、単純な膂力で轢き殺してしまえばいい。それが手早く済む、一番の方法だ。
しかしながら、触れてみたかったのだ。葦名流を興した葦名一心の戦いの記憶に。人の持ちうる最大の攻撃、それは刀を用いたものだ。しかしそれは無慈悲にも、鬼相手には無力に等しい。
しかし、等しいはずの刀を使い、一心は極めたそれで鬼の命を奪う手前まで追い詰めるに至った。その剣の技を、真似てみたいとも思ったのだ。
忍びが次いで放つ斬撃を、二度三度と受ける。その度に刃が欠けるのを感じて、慌てて剣を引っ込めると、今度は腕に斬撃を貰う。
傷口から血が僅かに滲むも、さしたる手応えを得られない様子に、忍びは困惑を隠さない。
「あっ…くそ、難しいな…」
「なんなのだ、こいつは!?」
この男とて、如何なる相手をも確実に仕留め、忌み手の名を冠するほどの実力を持つ熟達の強者だ。しかしながら、切りつけたはずが痛みさえ感じる素振りを見せない相手に、戸惑うばかりである。
当然、鬼とてひたすらに斬り続ければ死ぬ。だがそれは容易ではない。半端な刀は通さず、本来致命となる一撃を受けども死なず。
それは、まさに鉄。
鉄を斬れと言われ、斬れる者は、そうはいまい。
忌み手は、だが対手が剣に関しては素人もいい所であると確信し、刀剣による打ち合いに付き合う気が残っているうちに決着をつけることを目論んだ。
逆手に握った刀を、身を捩って勢いを乗せて振るい、刃をかち合わせる。
受け身の構えを取っていた童子の刀と、忌み手の刀とがぶつかり合う。まるで大岩に子どもが木の棒でも叩きつけたかのように、あまりにもぶれない体幹に忌み手はわずかに怖気を覚えつつも、布石とした剣撃の裏で、密かな絡め手を用意していた。
それは、忍びがその名で呼ばれる所以。すなわち毒。手に含んだ毒煙を、対手へ直接向ける。武具による攻撃ではなく、絡め手を用いた卑劣な技。
しかし、それこそが忌み手が忍びとして優秀たる所以である。それを用いて殺せなかった標的はおらず、また逃がしたこともない。吸い込んだ時点で死の確定する、毒の煙幕を発するためである。
カリ、と舌の裏に仕込んでいた中り薬を齧り、飲み下す。口に含んだ薬とて、元は人の身には有害な毒である。だがそれに敢えて中る事により、より強力な毒───今で言わば、その手に握る煙の猛毒を中和し、ないし無毒化できる。
そして、それを吸い込んだ相手は、確実に死ぬ。
例え化け物のような女でさえ、例外なく。
「死ね…!」
打ち合いの傍ら、左の掌底を顎へ思い切り突き出した。目にも止まらぬ早業であるが、威力では刀に比べて貧弱である。
しかしながら、本命は毒。有毒であることを示す、濃緑色の煙幕が女の顔を包んだ。
「っ……!? オエッ、なんだこれ!?」
吐き気、催涙、その他複数の症状により、急激な衰弱をもたらす、非常に危うい劇毒である。事実、女はすぐに後ろに下がり、尻もちをつく。咳き込みが止まらず、涙さえ流している様子は、忌み手に勝利を確信させた。この女はもう、死ぬ。
それが、本物の鬼でさえなければ。
「……けど、大した、毒じゃないねえ」
咳が突然に止み、そして耳に入るその言葉。
なんてことは無い、と言ったのか、この女は。忌み手は自らの耳を疑い、そして女のその言葉がまことである事を、見て悟った。
頬は激しく紅潮し、目元は涙で潤ってはいる。毒の症状で間違いない。だが、それで終わりだ。もう一度刀を両の手で握り、膂力のままに振るってくる。
鬼とて妖。妖とはもとより外傷に強く、内の傷…心の傷や、病に弱いものだ。しかしながら鬼は鬼。何者とも比べるべくもない、まさに比類なき強さは、肉体にも現れていた。
───忍びは目を見開いて、鬼女の一挙手一投足に集中する。こやつ、尋常ではない。毒を受けてまともに動ける者が、そういるものか。
刀と刀の打ち合い……いや、もはや忌み手が一方的に受けの姿勢に回るばかりだった。
躱すことも考えたが、当たれば死は免れない斬撃を相手に、確実に防げる手段を選ぶのが堅実であろうと考えた。
実際、構えからの斬撃が、明確に速くなってきている。対手を両断する程の攻撃ともなれば、威力を出すために大きく振るうものだが、童子の膂力であれば最小限の動きで最高の威力を発揮する。
それは圧倒的な力である。葦名一心は力を用いずして最良の威力を発したものだが、鬼の力があるならそれは最良ではなく最高となり、どう当たろうと必殺の剣となる。
忌み手からするなら、悪夢である。
鬼の攻撃をいくら弾こうが、攻撃の隙に切り返しを与えようが、その剛力からなる体幹の崩れることは、ない。
「クッ…予定が狂うてしまったわ」
忌み手の斬撃の合間にも、鬼は着実に刀の使い方を習得しつつある。鬼であっても、長年剣の道を歩んだ人間が相手では、刀と刀の戦いでは一歩二歩、劣るものだ。
しかし、眼前の鬼は、確実に剣の使い方を学んでいる。早期決着を狙わねば、こちらが危うい。そう判断して攻めの姿勢を強めるが、そうした攻撃は焦りを生み、焦りは窮地を齎し、窮地の先にあるものは───
「ッ、しまっ」
童子からの反撃の一手を受け流そうとした忌み手は、逆さ袈裟斬りの勢いを殺す方向に僅かな誤差を許してしまい、その姿勢を崩さざるを得なかった。
刀が弾き飛ばされ、拾いに行こうにも背を向けた途端に斬り殺されそうだ。しかし、刀が無くば対抗できぬ。
「おっと、終わりかい。存外にやるものだ」
「…死ぬ前に、一つ問いたい。お前は何者なのだ……」
もはや打つ手立ては無し。
膝を折り、せめてもの応えを聞こうと視線だけを鬼の顔へと向ける。その首元には未だ、匕首を抜いた名残の血が滴っているが、酷く黒ずんだ血液は人のものとは思えず、その金の髪を分けて額から伸びる赤角は、まさに御伽に聞く鬼のそれであった。
「星隈童子。大江山の、しがない鬼だ」
淡々とそう告げ、忌み手の首筋に刀の腹を宛てがい、そして勢いよく斬り飛ばした。頭のない骸は、ゆったりと地に伏した。血が辺りを濡らしていくが、童子の履く草履を汚してなお、彼女はその命の終わりを見届けた、
「葦名流でなくとも、強い男だった」
童子には忍びが、仲間内からどう呼ばれていたかなど知る由もない。しかし忌み手の名の通り、例え卑怯と嘲られようと、職務を全うせしめんとし、この鬼に傷をつけ続け、食い下がった男。
忍びもまた、強者であった。
その魂に冥助はあるだろうか、それは分からないが、強者に敬意を表したくなった鬼は、自らでも信じられないことであるが、手を合わせた。それが人の信教における祈りであると知っているからである。
「……行くか」
祈りもそこそこに、天守閣、すなわち弦一郎がいる場を目指した。そこが、良くも悪くも葦名の命運を分ける地なのだから。
「梟」
一方、天守閣において、刃がぶつかり合う音が響き渡っていた。童子が辿り着くよりも前に、弦一郎と相対していた者がいた。
「生きて、いたとはな」
弦一郎の放った突きを見切り、刀身を踏みつけ体幹を崩そうとする、大柄な忍び。次いで振るう大太刀の二連撃を弾き返すと、後転して弓を構え、二射放つ。
しかし軌道が読めたのか、刀の腹で初撃の矢を切り落とし、二射目を手で受け止めた。
「まこと、お久しゅうございます。弦一郎殿」
大柄な忍びは、手裏剣を投擲し、弦一郎がそれを弾いた直後に、素早く間合いを詰め、切りつける。またも天守閣に、刃の連なる甲高い音が響き渡り、僅かに視線がぶつかった。
「謀か」
「貴殿の手から、九郎様を救い出すがゆえ」
「戯言を……ハッ!」
斬り上げ、弾いた事で生まれた僅かな隙に、腹目掛け横一文字を描き、一閃する。
腰の鞘に手を当てて利き足を大きく踏み込ませる、葦名十文字の派生系となる一文字横斬りであるが、その鋭さ、素早さ共に渾身であったはずのそれを見抜かれ、優れた動体視力を以て柄頭で受け止められる。
「御子は渡せん。俺とて、この葦名を失う訳にもいかぬ。……それこそ、貴様の謀り風情に邪魔立てされていては、葦名の守りなどまかりならん」
気合と共に、弦一郎がふわりと浮かび上がる。
否、それは浮かんだように錯覚させる、独特な足運び。浮き舟のような、舞いにも見紛う美しい剣技、巴流の奥義・浮き舟渡りである。
瞬く間に飛び交う、鋭く速い連撃。
水面に揺蕩う舟のような足さばきは、浮き舟の名を冠する通り、水の上を漂う不安定な舟の様子を模した剣技を体現するためのものである。
通常、刀に限らず、武器というのは全身を使って振るものであるが、それは両の足を地につけ、体幹を強く保ったうえで、というのが前提である。
対して浮き舟渡りを初めとする巴流とは、舞いのようでいて、地に足を付けぬ剣。体の力を使って刀を振るう従来の剣技と違い、体を舞わせるその勢いに乗じて振るう剣。
故に、通常の剣技とは比較にならないほどの高速の連撃を可能とし、舞いの美しさにて敵をすら魅了し、あの一心をして見惚れて死にかけたと言わしめた。
ただ、敵無しだったとさえされた。そして葦名の戦の折に参戦した巴の剣は、幼少の葦名弦一郎の脳にしかと受け継がれていた。
だからこそ、異端の技なれど、全ての剣を取り入れ糧とする葦名流の傍系として数えられるに至ったのだ。
「オオォッ!」
しかしながらそれは、真空波を伴う巴流の秘伝がひとつ。葦名流奥義にして巴流秘伝・渦雲渡り。
葦名の流派は極められなんだ弦一郎であるが、せめて巴流はと、その剣を己の糧とした。それ故に、かつて巴の振るった秘伝を、その身に降ろす事に成功したのである。
本来の弦一郎の渦雲は、真空波の伴わぬ紛い物の渦雲に過ぎず。されど、今の渦雲は、遠間の対手さえ切り伏せる。
───しかしながら、それを真正面から受けて立つのもまた、その道を窮めた熟達の忍び。薄井の森より国盗り戦に馳せ参じ、その後も暗躍し続けた大忍びである。
忍びならではの、忍びの戦い方というものがある。
大太刀の背で真空波を弾き返しつつも、羽蓑に隠した爆竹に火をつけ、ばら撒き、目を眩ませる。それは的確に放たれ、渦雲渡りを繰り出していた弦一郎の視界に直撃する。
「くっ…!」
咄嗟に腕で目を隠すも、既に視界は眩んだあと。
膝を曲げ、身体の重み、太刀の重みに任せるように前傾の姿勢を取り、縮地に似た歩法で一挙に距離を詰め、そして刀を引き、刃を鋭く突き出すことで、目にも止まらぬ神速の突きを放った。
梟の得意とする奥義、大忍び刺しである。
爆竹の破裂音で耳は塞がり、目は見えないままであるが、刃が己目掛けて突き出された時の、隠し切れない殺意ばかりを感じ取って、刀を払って突きの軌道をやっとの思いで逸らした。
「───ぐぁ!」
それでも尚、左肩を穿たれ、少なくとも弓を保持するようなことは出来なくなってしまった。
それに、それで終わりではない。
勢いのままに跳躍し、トドメを刺さんと急降下する。
それが忍びの、地に足つけぬ戦い。経験の浅い弦一郎では、善戦はせども勝機は限りなく見い出せぬものであろう。
降りてくる梟の目を、刀を携えつつもただ見据えていることしかできない。
「おのれ…」
葦名の命運、尽きたり。
脳裏によぎるのは、その言葉。
もはや、弦一郎に反撃の手立てはなかった。
刃が眼前に迫るのを、睨み続けるばかりだった。
赤備えの打刀
内府の勢力が、自軍の足軽に用意する刀
濫造されたものであるが故に
数を頼んだ侵攻をこそ可能とする
これは、多くの葦名の兵を斬ってきたもの
血染めの刀身は酷く欠け、だが中々に折れず
今は童子の手の内にある
その切っ先は、どちらへ向けるべきだろうか