人は全員、苦しみを抱えて生きている。
そうじゃないのか?
それなら、どうして、あいつらはいつも幸せそうに笑っているんだ?

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苦しみ

 私が幼い頃、父さんは言い聞かせるようにそれを私に教えた。

 

『人は皆、苦しみを抱えて生きているんだ。だから、人は人に優しくしなければいけない。このことを覚えておいてくれ』

 

 父さんは消防士だった。私が中学生になる前に、消火活動中の爆発に巻き込まれた。そして、帰らぬ人になった。母さんは私が物心つく前には他界をしていたので、私は叔父に引き取られることになった。

 

『わざわざ引き取ってやったのだから、黙って俺の言うことを聞け』

 

 引き取られてから、叔父に最初に言われたことはそれだった。

 

()なんて言い方は生意気だ。やめないとどうなるかわかるよな? 』

 

 それから、自分のことを()と言うようになった。半ば強制されたようなものだった。

 

 叔父は機嫌が悪いとき、仕事がうまくいっていないとき、私を殴る。日々の鬱憤を私で晴らすようにうずくまる私の脇腹を蹴り上げる。でも、私は耐えた。

 

 きっと、叔父も苦しいのだ。苦しいから私のことを殴るのだ。私を殴ることで苦しみが和らぐなら、それでいい、そう信じて耐えた。

 

 中学校では、私は両親がいない子、男のくせに一人称は()、ようは()()()()()として、好奇の目に晒された。

 異性からは哀れみの目で見られ、同性からは異端者として、蔑まれ、迫害された。

 教師は見て見ぬ振りだった、いじめはよくあることと、仕方ないこととして放置されてたのであった。

 だが、私はどうにか耐えた。きっと、私をいじめる奴も、哀れむ者も、沈黙する教師たちも、皆、なにかしらの苦しみに怯え、耐えているのだと。そう信じた。

 

 私は毎日、恐怖に怯えた。明日、学校に行けば、きっと同級生たちから殴られる。物を隠されて、それを探す愚かな姿を見られ嘲笑される。学校が終われば、仕事から帰ってきた叔父にベルトで殴られる。逃げる場所などないに等しかった。

 

 だが、この苦しみは私だけのものじゃないのだ。皆、苦しいのだ。だから、私に暴力を振るうし、私を蔑むのだ。私だけが苦しんでいるわけじゃないのだ。

 

 高校に入ると、同級生からの暴力は無くなった。そして、私を蔑む者、哀れむ者もいなくなった。まるで、私は最初から、その場に存在していないかのように扱われた。

 

 辛くは無かった。ただ、息苦しかった。

 

 私という存在が皆の苦痛に、皆の生活の雑音になっているようで苦しかった。

 

 高校に入って半年が経ったある日、教師に話しかけられた。

 

『いつも1人でしんどくないのか? 』

 

 なにを言っているのか、理解ができなかった。

 

「ここでは誰も、私のことを悪く言わないし、殴ったりもしないから、しんどくないです」

 

 私は答えた。それ以降、教師が私に話しかけることは無くなった。

 

 高校の学年が上がった年、転校生がやってきた。誰にでも、明るく、優しく接する聖人のような子だった。その子は教室の隅で座る私にも話しかけてくれた。

 

『XXX! 今度、遊びに行こうぜ! 』

 

『ここの数式解けないから教えてくれ! 』

 

『来年もお前と同じクラスだったらいいな! 』

 

 その子と過ごしているとき、私の苦しみは少し和らいだ気がした。いや、正確に言えば苦しみを忘れて救われた気がした。その子と一緒に、くだらない会話で笑い、くだらないことをするだけで心が満たされる。そんな日々が続いていくかのように思われた。

 

 ──その子は死んだ。自殺したのだ。

 

 どうやら、父親が莫大な借金を残して蒸発、それを母親がどうにか返そうとしていたのだが、限界が来て過労死した。それで、その子にも()()()()が来て、自ら命を絶った。

 

 その子の苦しみを私は知らなかった。見逃していた。どこかで救えたかもしれない、その子を見殺しにした。いつも、その子が笑っていたのは苦しみを誤魔化すためだった。

 

 私は人と関わるのが怖くなった。もし、誰かと関わって、その誰かがいなくなったら──。

 

 あるとき、誰かが言った言葉を思い出した。

 

『あなたの優しさは、あなたを救わない』

 

 そんなこと、そんな酷いことあっていいのか? 優しさが無下にされるなんてことがあってもいいのか? 

 

 父さんが私に言ったことは呪いのように私を蝕んだ。もし、誰かが言ったことが正しければ、優しさなど無駄なものであり、最初から人は苦しみなんて持ってないのではないか?

 

 ふと、焦りに駆られたように街に出た。

 

 交差点を歩いていくものは、皆、笑顔。苦しみなど最初からいないように、存在していないかのように振る舞っている。

 

 思い返せば、私をいじめてきたやつも、私を殴る叔父も、気色悪い笑顔を浮かべていた。

 

 私は過呼吸に陥る。

 

 人は全員、苦しみを抱えて生きている。

 そうじゃないのか?

 それなら、どうして、あいつらはいつも幸せそうに笑っているんだ?

 

 最初から苦しんでいるのは私だけで、それで、他の奴らが、社会が、私を笑い者にしてるとしたら──。

 


 

「速報です」

 

 いつものスタジオの照明は変わらぬ明るさを放っていたが、キャスターの声は震えていた。背後の大型スクリーンに映し出されたのは、渋谷の街──その象徴とも言えるスクランブル交差点だった。だが、そこに広がるのは観光客がスマートフォンを掲げる平穏な風景ではなかった。

 

 舗道に散乱する持ち物。赤色灯に染まる街並み。倒れ込む人々を必死に救護する救急隊員。

 

「午後六時二十分ごろ、東京・渋谷区のスクランブル交差点で、刃物を持った男が通行人を次々に襲う無差別殺傷事件が発生しました」

 

 原稿を読むアナウンサーの口調は冷静を装っていたが、その視線の奥には恐怖がにじんでいた。スクリーンには震える手で撮影された映像が切り替わる。カメラの向こう、叫び声が反響する雑踏。人波を切り裂くように、黒い影が狂ったように刃を振るっている。

 

「これまでに死者が数名、重軽傷者は二十人以上にのぼるとみられています」

 

 その一文の後、スタジオは数秒の沈黙に包まれた。

 

 交差点を埋め尽くす警察官の列、青いシートで覆われていく無残な人影。それをただ呆然と見つめる群衆。ネオンが光り続ける街のただ中で、人々の悲鳴だけが止むことなく響いていた。

 

「犯人はすでに確保されていますが、動機はいまのところ明らかになっていません」

 

 淡々と読み上げられる言葉の一つ一つが、人々の胸に重く突き刺さる。渋谷という日常の象徴が、数分で血に染まった。誰もが歩いたことのある交差点が、今は恐怖と混乱の現場と化していた。




この作品はフィクションです。
実在の人物や団体などとは関係ありません。

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