現実の反逆   作:足立海

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 最終話です。


後 現実の反逆

 図書館は非常に不便であった。それは敷地の端にあるくせに、入館時に学生証の提示を要求されるためだが、俊哉は通い続けていた。静かな場所は心地が良く、本も好きだからだ。それに地下の奥まった一角にいれば人は来ない。しかも今日は月曜日なのだ。

 

「あ……」

 

 視界が真っ暗になった。電気が消されたと知覚して俯く。あの日から自分から電気を付けに行くことがなくなった。いわば善性の放棄を実践しているのだ。そう、誰かが代わりに押してくれればいいと。そう思ったが、人がいないからか一向に照明が戻らない。

 

「仕方がないなぁ」

 

 席を立って、明かりを取り戻す。ちょうどその時に足音が聞こえてきた。その人は、俊哉のいる場所に飛び込みながらこう言った。

 

「あの、電気付けてくれてありがとうね」

「えあっ、まぁ……」

 

 俊哉は適当に返して席に戻ったのだが、しばらくしても彼の感謝の言葉が胸の中に残り続けていた。そう言われるのは予想外だったのもある。でも何より温かかったのだ。

 

「ちょっと君さ、ここで長く一緒しているけど……」

 

 その男が口を開くと、俊哉は素直に顔を上げて反応した。重戦車みたいな男や、あのカップルに抱いたように……嫌な気持ちはならなかった。彼とは目立った会話はないが、図書館でそこそこの時間を共有していた。

 

「話すのは初めてですね……」

「うん。僕は日本文学科三年の吉谷槙樹、この通りよく図書館で過ごしてるよ」

「えっと……私は室井俊哉で。史学科の一年です」

 

 彼は迷った末に、一人称を私とした。人とまともに話すのが久しぶりで、そこすら固められていない。ユーモアを入れる余裕などはなかった。

 

 槙樹は、内心ウキウキとしていた。これは経験則だが、図書館で何回も顔を合わせるような人間は、話してみると大概濃密な個性を保有している。目の前の男については、それに適応すると踏んでいたのだ。

 

「どんな本読むの?」

「最近は『戦争は女の顔をしていない』や『哲学入門』とかを読みました。」

「前者は独ソ戦で戦った女性兵士の証言をまとめた本だよね。後者は誰の本かな?」

「ヤスパースです」

「どうだった?」

「限界状況にはかなり共感しましたが、キリスト教的な部分は良く分かりませんでした。でも最後の付録は面白かったな……」

「挫折をどのように経験するかどうかが、その人間がいかなるものかを立証する。みたいなことが書いてあったよね。僕も同感だよ」

「でも辛いです。長くなりますが聴いてくれますか? 私の過去についてを」

 

 彼は無類の親近感を抱き始めていた。槙樹と此処で顔を合わせる程度の仲だったが、一度も不快な行為をしてこなかったし、内容まで持ち出してくるほどの知識がある点で他の人間とは一線を画した存在のように見えたのだ。

 

「君が話したいのなら、そうすればいいよ」

「わかりました」

 

 そうして、俊哉は肥大化した苦しみ。そして今日の出来事についてをひらすら述べた。

 

「苦しみと対峙している時点で、君は真に立派だ」

 

 一時間が経ち、槙樹はこう言った。

 

「そうですか? 無駄に苦しんで、まるで自傷じみた行為を繰り返すだけですよ」

「内面をいえばそうなる。認知の偏りだってある。でも君は行為を真摯に受け取って……苦悩しているわけだ」

「立派だと言われても、やめたいです、ずっと苦しいです」

「それは間違いない。でもね、苦しみからは逃れられないよ」

 

 その言葉はがつん、と重く心に突き刺さった。自分に共感を示すのならせめて、そこは「救いはある」と言って欲しかった。やはりダメなのか、どうしようもないのかと。

 

「死ぬしかないですよね」

「本当に死にたいならね。そうでないなら苦しみと向き合う必要がある。私たちのように()()する人間は……最終的に、命を終わらせてしまう愚か者はね」

 

 そう言って、槙樹は少し俯いた。わずかに伺える表情には、大きな悲しみが含まれていた。彼もまた、苦しみに苛まれた過去があった。そのような理由もあって、目の前の後輩に施そうと考えている。それが傲慢であるというのも理解していた。

 

「……」

 

 俊哉は答えられない。

 

 死。もう動かないもの、朽ち果てるもの、巻き添えにするもの、忌み嫌われるもの。連想を重ねるが、どれも魅力的には感じない。確かに彼は死にたくなかった。同時に生きている理由もないのだった。

 

「予言の自己成就を知っているかな。それについてどう思う?」

「受験に受かると思う人は本当に受かる。みたいな話ですよね。馬鹿げた話ですよ。実際の勉強が一番大事じゃないですか」

「だろうね。そうやっていつも冷笑しているから、君は()()()()()に来たわけだ」

「なっ……」

 

 強烈な反撃をもらい、俊哉は何も言い返せなかった。しかし、指摘に対して怒りは持たず、むしろ納得感があった。そこは自身の紛れもない問題点であると。

 

「冷笑に振り切ると何もできなくなる。そこに未来はない」

「分かりました……。私はどうすればいいですか?」

「まず自分に自信を持つこと。これは無根拠で構わない。次にあらゆる人間に敬意を持つこと。最後に、その二点をもって実在する人間と交流する」

 

 これが槙樹の結論だった。すでに苦しんでいる人間にとっては難しいだろうが、目の前の男は乗り越えられそうに思えた。なぜなら、不便な図書館に通うだけの意思はあるし、辛い言葉を散々伝えても、泣かず、嘆かず、逃げないためだった。彼はきっと自殺しない。

 

「難しいですね」

 

 俊哉は言う。内側では、前進を求める意思と不快感が衝突していた。今のままインターネットやソーシャル・メディアの中で生きる。人々を冷笑して、自分と同じような人間と交流していくのか、それとも、現実で人間と関わって生きる。あらゆる人間を信じ、様々な他者と付き合うのか。彼にはどちらも等しく苦しいように思えた。しかし、冷笑に未来はないとまで言われた。必要なのは実在人間との交流なのだと。

 

現実の反逆(インターネット)にあるのは、惨憺たる憎しみさ。まさに文化戦争(culture war)だよ」

「男と女について、とかですよね」

「そうだ。実際には見て触れてすらいないのに、彼らはお好みの物語(ナラティヴ)を妄信し、存在しないものを攻撃しているだろう?」

 

 俊哉には膨大な心当たりがあった。『ある外見の男』や『男性と女性に関する事柄』は最たるものだった。あの絵のモデルは実在しない。ただ、それに似た人間はいる。そして彼らの嫌な特徴やら、被害やらが付与されていき『ある外見』に類する人間の罵語として完成したのだ。男女に関する事柄も同じで、本来は個々の人間として、それぞれの事象として語られるべきだったものが、同一的な物語として扱われている。それが人々を傷つけている。もちろん自分自身をも。

 

「君が挙げたものでいえばチー牛、弱者男性、フェミ、アンフェなどかな。陰謀論も同じようなものだよ。無制限に拡大する憎悪から、僕たちは抜け出さないといけない」

 

 俊哉は頷いた。ソーシャル・メディアは魅力的なものでは全くなく、自分を苦しめるものの筆頭なのだと自覚したからだ。自分が他者に抱いていた言葉は、紛れもなくソーシャル・メディアの物語に依拠したもので、それは間違いなく蔑視的であったし、冷笑的であった。しかも、それがそのまま自分にも突き刺さることで、一切の行動を取れなくなってしまう。

 

「インターネットとか、ソーシャル・メディアから脱却するなら、向かう先は決まってますよね」

「その通りだ。これからは現実の()()に従う必要がある。インターネットに身を置いた君を消し去らねばならない」

「そうすることにします」

「ありがとう。ひとまず、水曜の五限に四号館の三階まで来て欲しい」

 そこへ向かえば、新たな人生が始まる気がした。

 

 

 四号館は本館と図書館の間にあった。そのあたりは二、四、七、十と号館が集中していて、近くのモノレールからだとちょっとしたビル街のように見える。四限終わりなためか、エレベーターは混雑している。俊哉は仕方がなく階段を登るが、徐々に緊張してきた。

 

 二階の踊り場で立ち止まる。必要なのは無根拠の自信と、あらゆる人間への敬意。槙樹さんの言葉を繰り返しながら数回、深呼吸した。

 

 意を決して三階に上がると、端の教室から話し声が漏れていた。

 

「こんにちは……!」

「おぉ! 室井くんじゃないか。よく来てくれたね」

 

 こっち来てよ。と槙樹が手振りする。

 教室には十数人の学生がいて、何人かで固まって会話していた。

 

「皆注目! 『実在する会』に例の新人が来てくれたよ」

 

 槙樹の呼びかけに、皆が俊哉の方を向いた。こう注目を浴びるのは久しぶりで、もちろん緊張はあるが、どこか懐かしかった。幸せだった時代の香り。

 

「史学科一年の室井俊哉です。吉谷さんに誘われて来ました。よろしくお願いします」

 

 言い終わると歓迎の拍手が鳴った。そして、各自は個々の交流へと戻っていく。

 

「この会では大体学年ごとで話していて、一年生はあっちだね」

 

 槙樹が指した場所は窓際の席で、三人が集まっていた。俊哉は槙樹に感謝を言って、その輪に向かって足を進めた。

 

「は、始めまして……」

「あっ件の人だ、よろしく。どうど座って座って」

「キター、マンネリ打破なるか! バランス回復だ!」

「初めまして~」

 

 挨拶をすると、三人がこちらを見て言う。男性の横に座ると、それぞれから自己紹介を受けた。どうやら俊哉のことは周知済みであるようだった。

 

「法学部政治学科の朝比蓮人っていいます。……ほら二人も言って」

「文学部社会学科の古川あおい、よろしくー!」

「文学部、日本文学科の安食須美です。よろしくお願いします」

 

 それぞれの顔をはっきりと見て、俊哉は府に落ちた。三人という微妙な数で、男性一人、女性二人。その歪が自分の加入で解決するのなら、古川さんの発言も妥当に思えた。それとは別で気になる点があった。

 

「なんか、ごりごり文系の人が多くないですか?」

「八王子キャンパスは文系が多いでしょう? 医学部は板橋にいるし、理工学部は宇都宮だし」

「ちっちー須美ちゃん、ゴリ文の方が()()()()()()()()からでしょ~」

「両方かな。あと、古谷さんの勧誘場が図書館ってのも」

「えっ」

 

 朝比さんの発言にびくっとする。

 

「室井君……これは本当のことです」

 

 安食さんの言う通り、この十数人を古谷槙樹が勧誘して、その集まりが『実在する会』だとすると、彼は相当な交友力を持っているようだ。

 

「とはいえ、こうして知り合えたのには意味があるはずです。なので明日の学食、四人で食べませんか?」

 

 俊哉を含め、皆が頷いた。

 

 その後も『実在する会』や古谷についての話題、そして大学での話で盛り上がり、帰りは一緒に下山して、モノレールの駅まで一緒に歩いた。俊哉は人と接する楽しさを久々に感じ、帰宅して密かに泣いたのだった。

 

 

 カフェテリアの入口を突破して、人ごみを抜けた先に安食さんが座っていた。窓際の丸いテーブルに着くと、俊哉に学食の食券が渡される。「ありがとう」と受け取ると、彼女は言った。

 

「学食なんて、この会を知るまで利用する気もなかったでしょ?」

「そうですね」

 

 彼にとってはその通りで、初回に重戦車みたいな男に突き飛ばされて以来、ここには来ていなかった。友達できただけで行動を変えるなんて情けない。と思う気持ちも、あるにはあった。

 

「私も同じ。それだけ人間との交流は、友達の存在は大きいです。つまり破格、ですね。変わることを非難するのは、それに至った過程を全く考えていません。そもそも、変わらないものなんて、存在しませんよ。必然です」

「加えて、変わったことで得るもの、見えるものがある……」

 

 俊哉は、カフェテリアからの美しい景色に目を移した。

 

視界を埋め尽くす営みの遥か向こうに、『東京』の大摩天楼が聳え立っている。ビルとビルが固まり、それは巨大な城塞のようで。一番手前、二つの塔は新宿の東京都庁。その二塔の間に、錦糸町の東京スカイツリーが背を伸ばしている。

 

「お待たせー!」

「さ、貰いに行くぞ~」

 

 その時、景色に見惚れている男の肩を叩くかのように、朝比と古川が声をかけた。それに応じて、俊哉は食券を握りしめる。そして三人と共に歩き出す。カフェテリアの喧噪、周囲にいるカップルたち、それらはもう、気にならないのだった。

 




 読んでいただきありがとうございます。物語はこれで終わりになります。このように、『現実の反逆』は反インターネット及び反ソーシャル・メディアを主題とした青年小説です。
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