僕もエリとずっと一緒にいるわけじゃない。一応、大学には男友達だっている。
「なぁユウスケぇ!やっぱお前、エリナちゃんと付き合ってないなんてウソだろぉ!!」
訂正、僕に男友達はいない。いるのは、僕のことを知人だと思い込んでいる騒がしい同級生だけだ。
機械工学の専門科目の講義が終わった後のだだっ広い教室。ほとんどの学生がすでに帰宅した中で、僕の隣の席に陣取った
「だってよぉ…この前の台風の日、お前エリナちゃんの部屋に泊まってたんだろ? なぁ? それで付き合ってないは無理があるって! 断じて無理!」
「あれは論理的帰結だよ。僕の部屋より彼女のマンションの方が百倍は安全だからね。合理的な判断でしょ」
「その合理的な判断とやらでなんで男女が一つの部屋に泊まることになるんだよ! お前らの常識は精度が狂ってんだよ!」
フットサルサークルに所属する健太は、典型的な体育会系のノリで僕に絡んでくる。僕がどれだけ事実を述べても、彼の頭の中では僕とエリはとっくに恋愛ドラマの主人公になっているらしかった。
面倒くさいので適当に聞き流していると彼は今日の講義内容を思い出したかのように急に話題を変えた。
「ま、それは置いといてだ。今日の授業面白かったよな! 最新の自律型ドローンの話。AIが障害物を自分で避けて最適なルートを計算して荷物を届けるってやつ。もうSFの世界だよな!」
今日の講義は制御工学の応用事例についてだった。健太は目を輝かせながら身振り手振りを交えてその興奮を語る。彼のように、純粋な好奇心で機械の進化を楽しめるのは健全で微笑ましい。
「ああ。ドローンに限らずあらゆる機械の自律化はこれからもっと進むだろうね。人間の単純作業はどんどん機械に置き換わっていく。それはもう止められない流れだよ」
僕がそう答えた時だった。がらんとした教室の後ろの扉が静かに開いた。
「ユウ君、まだ残っていたんですね」
そこに立っていたのは僕を探していたらしいエリと、その隣で少し呆れたような顔をしている、彼女の友人である
「ようエリナちゃん! それに一条さんも!」
健太が快活に声をかけると、美咲さんは「ども、三浦君」と軽く手を上げ、エリはこくりと会釈を返した。そして彼女は僕の机の上に広げられた講義ノートを一瞥すると興味深そうに首を傾げた。
「制御工学ですか。面白そうなことを勉強しているんですね。今日の議題は何だったんですか?」
「ああ。機械の自律化についてだよ。ドローンとか自動運転とか」
僕が答えると、エリの瞳にいつもの光が灯った。隣で美咲さんが「あ、エリちゃんスイッチ入った」と小さく呟いたのが聞こえた。
「機械の自律化ですか。それはつまり機械が『判断』を下すということですよね」
エリは僕たちのいる席まで近づいてくると僕の膝の上にちょこんと座った。
「その『判断』というのは突き詰めれば膨大なデータに基づいた確率論的な最適解の選択です。でももし機械がただプログラムされた通りに動くだけでなく自ら学習し成長していくとしたら……それはもはや単なる『道具』と呼べるのでしょうか?」
彼女の問いは、健太が話していたような単純な技術の進化の話から、一気に哲学的な領域へとジャンプした。健太は目を白黒させている。
「エリの言う通りだよ。今のAIの進化はまさにその領域に足を踏み入れている。特に人間の脳の構造を模したニューラルネットワークの発展は目覚ましい。大量のデータから人間が教えなくても機械が自ら特徴や法則を見つけ出すディープラーニング。それはもはや作り手が意図した以上の能力を機械が獲得する可能性を示唆している」
僕はエリの問いに応じるように議論を引き継いだ。
「例えばチェスや囲碁で人間に勝利したAI。あれは開発者でさえなぜAIがその一手を打ったのかを完全に説明できないことがあるらしい。それは機械が人間の理解を超えた独自の『知性』のようなものを獲得し始めている証拠とも言える」
「独自の知性……! なんかかっけぇな!」と健太は素直に感心している。だが美咲さんは冷静な目で僕たちを見ていた。
「でもそれは少し危険な考え方じゃないかしら」
彼女は腕を組み鋭く指摘する。
「結局のところ、AIの判断基準は人間が与えたデータとアルゴリズムに依存しているわけでしょ? そのデータに偏りがあったりアルゴリズムに欠陥があったりすれば、AIは平気で差別的な判断や非倫理的な結論を導き出してしまう。それを『機械独自の知性』なんて言って責任の所在を曖昧にしてしまうのは問題じゃない?」
美咲さんの指摘はまさに的を射ていた。彼女は数学科らしい論理的な思考で、技術の進歩がもたらす光と影を正確に見抜いている。彼女の存在は、エリにとって良いブレーキ役になっているのだろう。
「美咲さんの言う通りだよ。AIの倫理は今まさに議論されている最も重要な問題の一つだね。技術はそれ自体では善でも悪でもない。使う人間の側に常に倫理観が問われる。それは石斧の時代から何も変わらない原則だ」
僕が美咲さんの意見に同意するとエリは少し不満そうな顔で口を尖らせた。
「もちろん倫理的な問題は重要です。でもわたしが考えたいのはもっと先の未来……機械と人間が融合していく未来についてなんです」
彼女は立ち上がり教室の窓際に立つと外を眺めながら言った。
「そもそも、人間は古くから自分自身を『拡張』してきた生き物ではないでしょうか。遠くを見るために『望遠鏡』を発明し、速く移動するために『車輪』を生み出した。そして膨大な情報を記憶するために『文字』を発明し、複雑な計算をするために『コンピュータ』を作った。これらは全て人間の身体的知的な限界を超えるための外部的な『機械』あるいは『技術』です」
彼女は振り返り僕たちをまっすぐに見つめた。
「だとしたら、AIやロボット技術が目指す先は人間の能力を代替することではなく、人間そのものをさらに拡張することにあるのではないでしょうか? 例えば脳とコンピュータを直接接続するブレイン・コンピュータ・インターフェース。これが実現すれば人間は言語を介さずに思考を伝達したり、インターネット上の膨大な知識に直接アクセスしたりできるようになるかもしれない。それはもはや肉体という制約からの人類の解放と言えるかもしれません」
エリの話す未来像はあまりにもSF的で、健太は口をあんぐりと開けている。だが僕にとってはそれは電子工学の延長線上にある十分に起こり得る未来だった。
「なるほどなぁ、人間の定義そのものが変わっていくということかな。肉体というハードウェアに様々な外部デバイスやソフトウェアを接続して自分をカスタマイズしていくようなイメージだね。スマホがもはや僕らの外部記憶装置であり外部感覚器になっているのと同じように」
「ええ。そうなれば身体的な障害を持つ人も、失われた機能を機械で補うことで健常者以上の能力を発揮できるかもしれない。あるいは老化によって衰える記憶力や思考力をAIがサポートしてくれるようになるかもしれない。機械は人間の『敵』や『代替物』ではなく人間がより人間らしくより自由に生きるための『パートナー』になる。わたしはそんな未来を信じたいんです」
エリはまるで夢見るような瞳でそう語った。彼女にとって、技術の進歩は世界の理を解き明かす数学と同じ人類の可能性を広げるための希望の光なのだろう。
僕とエリがそんな議論を交わしている間、少し離れた場所で健太と美咲さんは半ば呆れたような半ば感心したような複雑な表情で僕たちを眺めていた。
「……なぁ一条さん」
健太がひそひそと美咲さんに話しかける。
「あいつらいつもあんな感じなの?」
「ええ、いつもあんな感じよ」
美咲さんはやれやれと言った様子で肩をすくめた。
「一つの議題を見つけたらどこまでも深く遠くまで思考の旅に出ちゃうの。周りが見えなくなるくらいにね。あれが彼らにとってのコミュニケーションなのよきっと」
「それってさ…公衆の面前で、かなりディープにイチャついてるってコト?」
「まぁ、そうも言うわね」
健太と美咲さんの囁き声など僕たちの耳には届いていなかった。僕らは二人だけの思考の宇宙に没入していたからだ。
「でも、エリ」
僕は、エリの楽観的な未来像にあえて冷や水を浴びせるような問いを投げかけた。
「その『拡張された人間』は本当に幸せなのかな? 脳に直接流れ込んでくる膨大な情報に人間の精神は耐えられるんだろうか。思考が外部からハッキングされるリスクはどうする? 究極的にはどこまでが『自分』でどこからが『機械』なのかその境界線さえ曖昧になってしまうんじゃないかな?」
「それは……」
エリは一瞬言葉に詰まった。
「それは、これからわたし達が考えていかなければならない新しい哲学的な問いですね。でもユウ君。境界が曖昧になることこそ新しい存在への進化の入り口だとしたら……固定された『わたし』という概念から解放されて、他者や機械そして世界そのものと繋がっていく。それは孤独な個体からの卒業です。わたしは少しだけワクワクしますよ」
彼女は僕の投げかけた懸念さえも未来への希望に変換してみせた。そのあまりにもポジティブで純粋な探究心に、僕は何も言えなくなりただ苦笑するしかなかった。
僕らはきっと永遠にこんな風なのだろう。僕が現実的なリスクを提示し彼女がそれを乗り越えるための夢のようなビジョンを語る。
僕とエリがそんな二人だけの世界で結論なき議論の応酬を繰り広げていると、しびれを切らした健太がわざとらしく大きな声で僕たちの間に割って入った。
「はいストーップ! ストーップ! タイムアップ! もう何言ってるか全然わかんねーけど、お前らの脳内がとんでもないことになってるのだけは分かった!」
その声に僕とエリははっと我に返った。いつの間にか窓の外はすっかり夕暮れのオレンジ色に染まっている。
「本当よ」と美咲さんもやれやれと言った様子で続けた。「そろそろ校舎も閉まる時間だし、今日の知的な実験室はこれでおしまい。ほらエリちゃん帰るわよ」
「あ……はい、そうですね」
美咲さんに促されエリは少し名残惜しそうにしながらも自分の鞄を手に取った。僕もノートや教科書を急いで鞄に詰め込む。
四人で連れ立ってがらんとした廊下を歩く。僕とエリが少し前を健太と美咲さんがその後ろを歩く形になった。
「ユウ君」
隣を歩くエリが小さな声で僕に話しかけてきた。
「今日の夕飯は何にするんですか? もしよろしければ今日の議論の続き『自己同一性』をテーマに親子丼で食卓を囲むというのはどうでしょう」
「却下。今日の夕飯はスーパーの特売で買った豚肉で生姜焼きにするって決めてるんだ」
「まあ。それもとても魅力的で哲学的な提案です」
そんな僕たちの会話が聞こえていたのだろう。後ろを歩いていた健太が天を仰いで絶望的な声を上げた。
「だーっ! もう無理! 我慢できねぇ! 絶対付き合ってるだろ、コイツら!」
その叫びに美咲さんが静かにしかし深く頷いた。
「ええ三浦君。あなたの言いたいこと痛いほど分かるわ。あれを『友人関係』だと言い張る方がよっぽど非ユークリッド幾何学的な思考よ」
健太と美咲さんの呆れた声に僕とエリは顔を見合わせた。そして全く同じタイミングで心底不思議そうに小さく首を傾げたのだった。